緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

中央大学マンドリン倶楽部第121定期演奏会を聴く

2021-12-25 22:57:48 | マンドリン合奏
今日(25日)埼玉県所沢市の所沢市民文化センター・ミューズにて、中央大学マンドリン倶楽部第121定期演奏会が開催され、聴きに行ってきた。

中央大学マンドリン倶楽部は歴史の長い日本有数の団体であり、実力も全国トップクラスである。
私は第109回定期演奏会、この時は鈴木静一のシルクロードが演奏された時であったが、初めてこの団体の生演奏を聴いて以来、ほぼ毎回会場に足を運び聴いてきた。
ただこの2,3年は社会人マンドリンクラブの練習と重なったり、案内葉書が来なくなってから開催されていることに気が付かなったりと、つい聴く機会を逃していた。
ただ今日は、学生時代に演奏した、鈴木静一「大幻想曲 幻の国 邪馬台」がメイン曲として演奏されるので是非とも会場での生演奏を聴きたいと楽しみにしていたのである。

今日のプログラムは以下のとおり。

第Ⅰ部

雪~ロマンツアとボレロ  作曲:H.ラヴィトラーノ
夜の静寂  作曲:P.シルヴェストリ
幻想曲第1番イ短調 作品22  作曲:久保田 孝

第Ⅱ部

大学祝典曲「栄光への道」  作曲:鈴木静一
大幻想曲 幻の国「邪馬台」

今日の曲目を会場で聴いて最も聴き応えがあったのが、鈴木静一の大学祝典曲「栄光への道」。
曲中に中大校歌が挿入されるなど、中央大学ゆかりの曲でもあるが、山を愛した鈴木静一が初めて北アルプスに足を踏み入れたという穂高岳への登山の情景をモチーフにした曲となっている。
ちなみに私も若い頃少しの間登山をやっていた時があり、就職して間もない頃、会社の山岳部に入り、9月の連休を利用して奥穂高岳に登ったことがあった。
夜行バスに乗って朝早くに上高地に着き、中腹の山小屋で1泊、頂上の山小屋で1泊した記憶がある。
初めての登山だったためか高山病にかかり食欲不振と頭痛に悩まされたが、奥穂高岳の頂上から見下ろす晴天の景観は素晴らしいものだった。
今日の中央大学の演奏は迫力があり、生き生きとしていて胸がすくような素晴らしいものだった。
自然と拍手に力が入る。

さて今日のメイン曲は、鈴木静一作曲の大幻想曲 幻の国「邪馬台」。
この曲は、大学3年生の時、母校マンドリンクラブの定期演奏会のメイン曲として弾いた思い出の曲でもある。
鈴木静一の曲の中では、交響譚詩「火の山」に次いで好きな曲だ。
歴史上に伝わる人物、邪馬台国の女王、卑弥呼の生涯をテーマにしたマンドリンオーケストラ作品の屈指の大曲だ。









この曲はマンドリン愛好家の中では、鈴木静一の「交響詩 失われた都」に比べ人気が今一つのようであるが、今日久しぶりにこの「幻の国」を中央大学の演奏であらためて聴いてみると、旋律の美しさ、音楽物語としての構成力、情景描写の鋭さ、リアルさ、古代の歴史に思いを馳せたであろうその情熱、といった諸要素を冷静に鑑みると、この曲が聴く者にとって「失われた都」以上の感動のバリエーションを提供するものだと感じたのである。
実際この曲の長い中間部、Appasionato(卑弥呼身を隠す)からpoco piu mossoを経てLento mento,
そしてAndantino(岩戸神楽と卑弥呼の帰還)、Strettoに至るフレーズに流れる各種管楽器で奏される旋律は非常に日本的で根源的、郷愁的ノスタルジーを思い起こさせるものであり、Lento(果てなき夜)でギターのアルペジオが奏でられる部分や、Lento mentoに入る直前の部分などは抑えがたい涙が出てくるほどだ。
今日の中央大学の演奏はこの部分を非常に情感を持って演奏していた。

しかしこの部分に聴くと、純日本的な旋律、それは日本古来の独特の夜の静寂、侘しさ、抑圧から生れた「忍ぶ」という独自の美徳、はかなさ、無常といった、現代では感じることが失われた感情を、この曲を通じて疑似体験できる。
現代では全く経験することの出来ない感情だ。
このような日本独自の類をみない感性、情感を聴く者に甦らせることの出来る曲がなんと少なくなったことか。
日本人のDNAに刻み込まれた、拭い去れないこの感性、この感情の素晴らしさを、鈴木静一の曲を通してこれからも絶やさないようにして欲しいし、自分自身も演奏を通してそれを実現させたいという気持ちが湧き起ってきた。これはとても嬉しいことだ。

今日の中央大学のこの曲の演奏で物足りなかったことがあるが、これはあくまでも私の感じ方であるが、もっと炸裂するようなエネルギーを出せないだろうか、ということだ。
例えば、Appasionato(卑弥呼身を隠す)に入る前の部分、これは終局部近くに出てくるAllo wadertoと同じであるが、それとAllegretto wanderatoの部分などだ。
もう弦が切れてもいいから、というくらいの炸裂するエネルギーが欲しい。
これがないと中間部の夜の静寂の美しいとの対比が出てこない。単調、一本調子に聞こえる。
あとAllegro furiosoからクレッシュンドしていく部分の速度はもう少し落として、弦系パートの細部の表現を余すことなく明確にした方が良かったと思う。
この部分はパーカションと管楽器の力に押されて弦楽器の音が聞こえてこなかったのが残念だ(部員数が少なくなってしまっているも十分に分かるのですが)。

今日家に帰ってから、今から30数年前の学生時代のこの「幻の国」の演奏テープを聴いてみたが、やはり今の学生団体とはだいぶ異なる演奏であった。
当時は凄まじいほどのエネルギーが発散されていた。体の芯からカッーと熱くなってくるような。

今日、中央大学の演奏を聴いて、この団体の曲に対する誠実な取り組みを改めて確認することができた。
それはステージ上での演奏者たちの澄んだ目や身体から放たれるものから伝わってくるものである。
マンドリン曲を演奏することに心から喜びを感じている、これがまさに聴き手に感動を呼び起こすのである。
学生時代のわずかな期間であるが、この時代にマンドリン音楽にひたむきに情熱をもって取り組んだ経験は必ず後になって何等かの形となって生きてくると私の経験上確信している。
欲を言えば、演奏会では燃え尽きるほど、全てのエネルギーを出し切って欲しい。
今日は演奏会が終ってから、会場を出た後駅に向かう道のりで、晴れ晴れとした気持ちになっていた。
こういうことは滅多にない。
今後の中央大学マンドリン倶楽部の一層の精進を願ってやまない。

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