緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

中央大学マンドリン倶楽部第115回定期演奏会を聴く

2018-12-01 23:59:22 | マンドリン合奏
今日、東京八王子のオリンパスホールで、中央大学マンドリン倶楽部第115回定期演奏会が開催された。
この中央大学マンドリン倶楽部の定期演奏会を聴き始めて5年くらいになるのだが、初めて聴いた時の衝撃が大きく、以来毎回聴き続けてきた。
しかし1年前の冬の定演は平日開催だったために、聴きに行けなかった。
この時のメイン曲が学生時代に弾いた思い出の曲である、鈴木静一の「幻の国」だっただけに残念だった。

今回の定演のプログラムには、学生時代に弾いた曲が3曲、それもどれもがマンドリンオーケストラ曲の名曲であり、その中でもとりわけ今日の最終曲は私の最も好きな曲だけあって、何として聴きに行きたいと思って楽しみにしていたのである。

今度学生マンドリンオーケストラの鑑賞を、関西まで拡げてみようと考えているのであるが、この中央大学マンドリン倶楽部の演奏は群を抜いて素晴らしい。
全ての学生マンドリンオーケストラを聴いたわけではないが、社会人団体を含めても最高レベルの演奏であることは間違いないと思う。
とくに今日の定演の演奏を聴いてそう確信した。

さて今日のプログラムは下記のとおり。

第Ⅰ部
・序曲「レナータ」 作曲:ジャチント・ラヴィトラーノ
・愛の黄昏~ロマンツァ 作曲:ロベルト・クレパルディ
・幻想曲「華燭の祭典」 作曲:ジュゼッペ・マネンテ

第Ⅱ部
・広重の絵と芭蕉の句によせる幻想曲「富士旅情」 作曲:鈴木静一
・交響譚詩「火の山」  作曲:鈴木静一

第Ⅰ部1曲目はラヴィトラーノの序曲「レナータ」。



この曲は30数年前の学生時代の定演で弾いた思い出の曲であり、また今年7月に開催された母校マンドリンクラブ50周年記念演奏会でも演奏した、マンドリンオーケストラ曲の名曲である。
この曲のロマンス・アンダンティーノ、ハ長調に転調したあとの優雅で穏やかな部分、ここのギター・パートのアルペジオと和音の伴奏を弾いていてとても至福感を感じた。





この至福感は30年以上経っても失われていなかった。
この後テンポが速まり、1stマンドリンの難しいパッセージの後にイ短調に移ってからの伴奏も好きだった。



さて今日の中央大学の演奏はどうか。
指揮は副指揮者。
出だしのアレグロ・ヴィーヴォはかなり速いテンポ。
リタルダントした後の最後のギターソロはかなりテンポが遅い。
一転ハ長調へ転調したロマンス・アンダンティーノはかなりゆったりとしたテンポ。
母校の解釈とはかなり違っていたが、このロマンス・アンダンティーノのこのテンポでの歌いあげはいいと思う。
旋律で若干の破綻が散見されたが、ハーモニーのバランスはとれていたと思う。
とくにテンポ・プリモに入る前のマンドリンのハーモニーは美しかった。
イ短調に転調し、アレグロに入る直前の超絶技巧を要するマンドリンのパッセージはさすが。
裏パートの音もよく浮かび上がっていた。
しかしアクセントのある下記の旋律が続く部分はもう少し遅いテンポでじっくりと弾いてもいいのではないかと感じた。自分では少し性急な感じを受けた。



2曲目から正指揮者に交代する。
この曲とアンコールでは指揮棒を持たない指揮だった。3曲目以降は全て指揮棒で演奏していた。
均整のとれた美しい指揮。
指揮棒や腕の振幅の広さ。しなやかな動き。優雅な”舞”を見るようだった。
それでいてエネルギッシュで渾身の力も出ていた。
歴代の指揮者はいずれも素晴らしかったが、今日の指揮者も特に素晴らしかった。
楽器演奏者から指揮者に求められることは何か。
いつ演奏してもブレないテンポ、深く音楽を研究して得られた確信に満ちた解釈だと思う。
曲はゆったりとした明るいイタリアらしい曲。
コンミスのソロに他パートが伴奏する形態をとる。
このコンミスは上手かった。淀みない音の運び。全てを手中に収めた演奏。
指揮者の動きに導かれるように、演奏者達の呼吸が反応する。
感情の高まりの持っていき方が素晴らしい。
この曲で各パートの楽器が音楽と渾然一体化した瞬間を感じ取った。

3曲目はマネンテの「華燭の祭典」
この曲も学生時代、他大学とのジョイントコンサートで弾いた思い出の曲だった。
この曲は学生時代で数多く弾いた曲の中でもトップ3に入る程の難しさだったと記憶している(ギターパート)。



出だしを聴いて学生時代の記憶が蘇る。
フルートを加えての編成だったが、私はフルート無の方が良かったように思った。
フルートの音が突出して目立ち、マンドリンの音が二の次になってしまうからだ。
この曲も2曲目と同様、曲の強弱やテンポ変化、うねりの表現が素晴らしかった。
第2楽章「教会にて」。
ドラの旋律が美しく、穏やかでありながら哀愁に満ちている。
ドラとセロの重奏も美しかった。
この楽章も感情の高まりへの持っていき方が素晴らしかった。
決して機械的はない、人間の感情そのものの高まりのように感じる。
相当研究したに違いない。
このような表現力を生半可な練習で得られるであろうか.
第3楽章「家族の祝宴」。
セロトップ+1st、2nd、ドラの部分の直前にセロトップが楽器を予備楽器に持ち替え、この部部が終ってから元の楽器に戻すという場面があったが、楽器のアクシデントだったのか。
このセロトップは落ち着いていた。
このセロトップの演奏も素晴らしかった。この曲に限らず渾身の演奏だった。
中間部の穏やか部分の後に超絶技巧が続く速いテンポが続くが、殆ど破綻なく弾き切った。

第Ⅱ部の2曲は鈴木静一の曲。
1曲目は幻想曲「富士旅情」
鈴木静一の曲の中でも後期の作品だと思ったが、1966年作曲でマンドリン曲では比較的初期(と言っても作者65歳)の作品で、同年の作品には「スペイン第1組曲」がある。
映画音楽などの放送作家の仕事を終え、マンドリンオーケストラ曲を再開した頃の作品でもある。
一定の間隔で打たれる鈴の音が印象的だ。
プログラムの解説(作曲者自身によるもの)に、「爽やかな鈴の音 馬子は馬子歌」とある。
ベースが2本加わったが5人とも女性。
先日聴いた母校の演奏もベースは全て女性。
今までの中央大学マンドリン倶楽部の演奏でもベースは殆ど女性だったが、何故女性が多いのか。
私の学生時代では考えられなかった。
比較的テンポや曲想に変化が少なく、単調になりやすいところ難しいところ。

そして今日の最終曲は、交響譚詩「火の山」。
この曲は学生時代に鈴木静一の曲の中で初めて出会った曲で、学生時代に弾いた数多くの曲中で最も感動し完全燃焼した曲でもある。



そして幸運にも、この曲を卒業後30年以上経って、もう一度演奏できる機会を得ることができた。
5月に開催された鈴木静一だけの曲を集めた大規模演奏会に出演することができたのである。
今年の2月から5月にかけてこの曲を仕上げて行った時の場面が蘇ってくる。
貴重な体験、社会人になってから自分のかつてなかった体験だった。
合同練習では休憩時間も練習にのめりこんだ。
この曲は鈴木静一の曲の中にとどまらず、マンドリンオーケストラ曲の中での最高傑作だと思っている。
鈴木静一の中では、曲の構成力、旋律の美しさ、ドラマと音楽の融合などどれを取っても完成度が高く、あの「失われた都」よりも優れていると思っている。
大学時代の夏合宿でこの曲に取り組んだ当初は未だギターパートの音しか頭になく、この曲の素晴らしさに気付いていなかった。
季節は秋がやや深まった頃であろうか。秋合宿の前だったと思う。
ある日私は、大学マンドリンクラブの部室であった、旧制高商時代から残されていた600番棟と当時言われた木造の古い建物の廊下を歩いていた。
奥の狭い、それは楽器保管庫のような部室であったが、数人からなるマンドリン合奏の曲が聴こえてきた。
その曲は今練習中の曲に相違なかったのあるが、その部室から流れてくるマンドリンの旋律を聴いて衝撃が走った。
その旋律こそ、「火の山」のヴィヴァーチェが終って奏でられるあの美しい日本的情緒漂うフレーズだったのだ。
この部分を聴いて私の動きが止まった。
私は立ち止まり、しばしその音楽に耳を傾け、聴き入った。
こんな美しい曲が他にあるだろうかと思うほど美しい曲だった。
それは単なる美しさではなかった。
日本人の、日本の最も素晴らしいものを凝縮したと言える美しさであった。







この体験をきっかけに、私は「火の山」の合奏練習が待ち遠しくなるほどこの曲にのめりこんだ。
家に帰っても、楽器店に行ってもギターがあればこの曲のギターパートのフレーズを人目をはばからず弾きまくった。
ヴィヴァーチェの直後の旋律も素晴らしいが、この後のニ短調、ハ短調と変調していく部分の、暗く、侘しく、悲しい部分も素晴らしい。この部分のギターの和音も何度も弾いた。





この嘆き悲しむ部分の後に、最も日本的情緒を感じる、作者がこの曲を作るきっかけとなった子守唄に繋がっていく部分も情熱をかき立てられた。
ピアノのあの美しいアルペジオの後にクレッシェンドし「五木の子守唄」が挿入される。
そしてフルートの美しい旋律が後に続く。
ここも心が物凄く高揚した。
さて今日の中央大学の演奏はどうか。
この曲は管楽器、ピアノ、パーカッションなど多くの編成で構成されるので、マンドリン系楽器だけでは成功させられない難しさがある。
ヴィヴァーチェのあとのあの私がのみりこむきっかけとなったフレーズのテンポと表現力は私の求めているものと一致していた。
このテンポの選定が非常に難しいし重要なポイントだ。
このテンポ選定でこの曲は大きく変わってしまう。
そのくらい重要な部分でもある。
ここの部分のテンポは指揮者によって解釈が分かれる。
私は今日の正指揮者の解釈がこの曲の求めているものに合致していると思う。
あの三連符のから発せられるエネルギーは物凄かった。
渾身の力。
しかし何て美しい旋律なのだろう。
ギターの6連符の前に2回繰り返されるクレッシュンドの1回目の盛り上がりは素晴らしかった。
よくこの盛り上がりを表現したと思う。本当に素晴らしい。
ギターの6連符の部分で奏でられるセロとドラの侘しい音の出し方も良かった。
この部分の表現は難しい。
おそらく何度も練習したに違い。
ドラとセロの音から人々の嘆きの気持ちが感じ取れた。
フルートの美しい旋律の後に、ギターの悲しい重音を背景として次第に「五木の子守唄」に繋がっていくが、ここでも悲しみは続く。オーボエの悲しい音。マンドリンの盛り上がりが素晴らしい。
そしてピアノのアルペジオが入るが、このアルペジオがとても美しく、学生時代この部分をギターでよく弾いた。
そしてフォルテシモまでクレッシュンドし、いよいよ「五木の子守唄」が奏でられる。
この部分、学生時代の演奏ではギターパートはタタキ(ストローク)だった。



私は5月の大規模演奏会の練習で、配布された楽譜ではストロークの指示が無かったにもかかわらず、学生時代の楽譜どおり、ここをストロークでしばらく弾いていた。
しかし演奏会が近くなってからある日、この部分をツマミ(和音)で弾くように訂正させられた。



鈴木静一の手書き譜を見るとストロークの指示は付いていなかった。



しかしこの部分は自分はストロークで弾くのが最も曲に相応しいと確信している。
因みに同じように演奏するセロパートはストロークである(構造上和音では弾けないこともあるが)。
ストロークでないとこの部分の強い情熱は表現できないのではないか。
果たして中央大学のこの部分のギターパートはストロークで弾くのかツマミで弾くのか、演奏前から注目していた。
結果は、ストロークだった。
「蘇みがえる春」からしばらくして、アレグロ入ってから次の部分から華やかな祭りにつながる所を経て、次第に不気味な火山の噴火を予期させるフレーズに移り、ヴィヴァーチェに入る直前の速いテンポによくついていったと思う。



最後は華やかで雄大なコーダを経て、強い渾身のストロークで全ての力を出し切っていた。

今日、「火の山」を聴き手として生演奏を初めて聴いた。
他の曲も含め、今回もこの団体の取り組みの真摯な態度に心を打たれた。
今日の演奏を聴いて、マンドリンオーケストラ曲の持つ、他のジャンルの音楽では得られない独自性ある魅力をもっと身近に感じ取ることができた。
独自性ある魅力って何か。
マンドリン系、ギター、ベースのトレモロやストロークから生れるエネルギーの強さ、それは演奏者たちの音楽に対する思いの強さだと思う。
ただ音楽に対する思いの強さだけでは聴き手に伝わらない。
それを実際に具現化するために厳しい練習を積み重ねてきたに違いない。
今日の演奏を実現するためにどれだけ練習してきたことか。
よくここまでやってきたと言ってあげたい。
指揮者をはじめ全ての演奏者たちの体の動きが、音楽に対する気持ちに強さの表れであり、この動きは他のジャンルにオーケストラには見られない。
これからもマンドリンオーケストラの神髄を聴き手に感じさせて欲しい。
素晴らしい演奏に感謝したい。

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