世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

マンハッタンを漂う風

2010年09月07日 23時17分07秒 | Weblog
海外に行ったときに思い出す殿方こそが、一番好きな人なのだ。

と、林真理子先生の「戦争特派員」に書いてあった。

旅行には、移動の際に飽きないよう、本を数冊持参することにしている。
今回の夏の旅行は片道13時間近くのフライトがあり、本を選ぶときに兎に角のめり込める本をと決めていた。
ニューヨークのガイド本、英会話の本、そして大好きな小説「戦争特派員(上)(下)」を機携えて渡米。

1986年。東京。ファッションメーカーのMD(マーチャンダイザー)をしている主人公・奈々子は28歳。仕事帰りの飛行機のトラブルで知り合った40歳超の元戦争特派員に恋をする。ベトナム戦争を取材していた男・梶原に、バブルの波が押し寄せる東京でひらひらと生きている女・奈々子は狂おしいほどに恋をする。
梶原の焦らしっぷりは、奈々子だけでなく読者である私ものめりこませる。奈々子が押せば梶原は引く。巧みに。奈々子のあまりにも駆け引きを知らない様子に「お前、もっと空気を読めよ!」と読者である私が助言をしたくなることが多々してあるという不思議な作品だ。
今の洗練された林先生の作品も大好きだが、当時の粗削りな感じもいとおかし。

奈々子は梶原への片想いを抱えながら仕事でフランスに出張に行くことになる。
そこで冒頭のようなことが書かれてあるのだ。

今回のニューヨークの旅で私が一番思い出した殿方は、実は昔付き合っていた彼氏…英語が堪能な人だった。
右も左も分からない土地、使用されている言語は英語、看板も標識もすべて英語という場所を一人で歩きながら、私は何度も彼に問いかけた。

「…って言いたいんですが、意味的にどうなんですかね?」
「『コーヒー、プリーズ』が通じないんですが…なんでですかね?」
「この人、何言ってるんですかね?」
「あの黒人、私の煙草をカツアゲしたのですが。これは文化なのですか?」
と。

かつてあんなに好きだったのに、今はすっかり他人になってしまった彼に向かい、私は心の中で何度もSOSを発信していたのだった。

一番思い出していたくせに、今も彼を好きかどうかを問われれば、私は肯定することはできない。
彼の仕草など全て忘却の彼方にあるのだから。
今さら連絡を取る気にもなれない。
彼だって迷惑に違いない。

ただ、彼が話す英語が、マンハッタンを漂う風に乗って微かに聞こえてきたような気がした。