晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

五木寛之 『親鸞(激動篇)』

2017-06-18 | 日本人作家 あ
この作品は3部作になっていまして、(激動篇)
は2作目になります。
で、1作目を読んだのが、このブログで投稿した
のが、2015年の9月。
いつもですと「はやく続編あるいはシリーズ2作目
を読まなければ」などと威勢のいいことを書いて
おきながら2年も3年も間をあけるのに、今回はまあ
早い方ではあります。

で、1作目ですが、平安時代の終わり頃、下級貴族
の家に生まれた親鸞(当時は忠範という名前)は、
9歳で比叡山で修行をスタート。ですが20年修行を
しても納得が得られず、当時、法然上人の(念仏)
というのが巷で大ブームになってまして、法然の
門下に入ります。すぐに頭角を現し、秘蔵の書
「選択本願念仏集」の書写を任されるほどに。
しかし、この念仏の教えは、解釈によっては危険
思想と捉えられ、朝廷は念仏を禁止し、法然は
讃岐へ、そして親鸞は越後に流罪の刑に。

というところまで。ちなみに、名前は比叡入山
で範宴(はんねん)に、そして法然の弟子になる
と綽空(しゃくくう)と改め、その後、師匠から
善信(ぜんしん)という名前をもらい、流罪の
直前の頃に親鸞に名前を変えます。

そして、親鸞は、恵信(えしん)という女性と
結婚します。

さて、親鸞は恵信とともに越後にやって来ます。
流刑人ということで、この地域を統括している
郡司が(身元預かり)という状態。
そんなある日、親鸞は大人数の行列を目にしま
す。聞けば(外道院)と名乗る教祖さまと、その
教団のようなもの。
その一団が行進していて、近づくと周囲の見物人
はひれ伏しますが、親鸞は立ったまま。
しかし親鸞は、外道院を「ただ者ではない」と
思い、また、外道院も、行進のときに土下座を
せずに立っていた男のことが気になります。

その夜、外道院の使いが親鸞の住居に来て、
外道院さまが会いたいので来てくれというのです。

この当時、貧しいものや病人といった生活弱者は
前世の業のせいだという教えがあり、見捨てられた
存在であったのですが、外道院は率先して彼らを
助け、食べ物を与え、病気を治療していて、たし
かにそれは親鸞も素晴らしいとは思うのですが、
しかし外道院はいろいろな問題を加持祈祷によって
決断していて、これを親鸞は納得できず、外道院
のところに行くのを断りますが、次の日、気が変
わり会いに行くことにして、浜辺を歩いていると、
人だかりが。そこでは(人買い)が行われていて、
外道院のところに着いて人買いの話をすると「人
買いは許さない」とやめさせに向かいます。
そこに親鸞も付いていくと、人買いのボディー
ガードが外道院の使いを倒し、親鸞は何を思った
のか「次は私が相手だ」と言ってしまいます。
とりあえず両手を合せ、念仏をとなえると、
ボディーガードは口から血を吐き死んでしまった
のです。

しかし、この男は労咳病みだと親鸞は見抜いて、
たまたま念仏と男の発作が同時なだけだったのです
が、周囲は「念力だ!念仏で倒した!」と大騒ぎ。

この一件で地域の住民たちは「京から流刑されてき
たあのお坊さん、すごいらしいぞ」と評判に。
ところで、例の人買いは、この地域に新しく赴任
してきた「守護代」の仕業で、守護とは鎌倉幕府に
よってできた役職で、諸国を管理します。が、まだ
地方によっては奈良時代から続く公家支配の国司・
郡司がいて、二重行政のような状態だったそうです。

そこで守護代は「地域を治めるのは俺らだ」といって
国司・郡司らと(陣取り)のようなことをしていて、
人買いの件も、郡司と結託していた外道院をわざと
怒らせて守護代に歯向かってきた者として潰そうと
していたのです。

その後も守護代の悪だくみで親鸞を困らせたりなど
ありましたが、それよりも深刻な問題が。まったく
雨が降らずにさらに冷夏で、このままでは凶作に。

そこで、この地域のお偉いさんたちは、親鸞に
雨乞い祈祷をしてもらうことに。
しかし念仏とは雨を降らせたりするものではない
ので断りますが、外道院の人買いの件もあってか、
この地域の人たちは親鸞をスーパーマンだと思って
いるようで、ことに(念仏)すれば大丈夫、みたい
な間違った解釈がはびこっていて、いっそ「念仏で
雨は降らせられないんだよ」と教えるためにも、
逆に雨乞いをやってやろうと決めるのですが・・・

一方、法然上人の刑期が終わったという知らせが
届きます。さらに、親鸞が比叡入山前に伯父の家に
引き取られていたときに仲の良かった犬丸とサヨ
の使用人夫婦が商人となって、恵信の妹の子を
預かっていると知り、恵信はこの子を引き取って
私が育てると京に向かいます。

そんなこんなで親鸞も刑期が終わり、京に戻れる
のですが、越後に留まります。しばらくして犬丸
(今は犬麻呂と改名)が越後に来て、親鸞の少年
時代に、京の河原で死人の供物を食べていた坊主
の(河原坊浄寛)が今では「香原崎浄寛」という
関東の武士になっていて、その浄寛が親鸞に関東
に来ないかと誘っているというのです。

そんな中、法然上人死去という知らせが・・・

ここから、親鸞の関東での念仏布教となります。
居を構えたというか与えられたのが、常陸の国。
ここでも(念仏)は知られるようになってはいま
すが、それでも(真の念仏)というか、何かが
違うような感じで、それは親鸞自身も教える確信
が揺らいだり。

そうして関東に移り二十年がたとうとして、親鸞
はいよいよ京に戻ることに・・・

終わりの方で、親鸞と行動を供にする(唯円)という
念仏僧が登場します。「歎異抄」の作者とされている
人ですね。
さて、残るは「完結編」ですか。

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