晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

池波正太郎 『堀部安兵衛(下)』

2017-08-09 | 日本人作家 あ
さて、続きですが、中山安兵衛は(男装の女剣士)の伊佐子と
結婚を約束。ところが万事めでたくというわけではなく、安兵衛
の(義理の叔父)の菅野六郎左衛門が仕える松平左京太夫の家
では跡継ぎ問題でゴタゴタが。

ある日、菅野の対立相手の村上三郎右衛門が菅野の家の下女を
足蹴にしたことで菅野は村上に果し合いを申し込みます。

いちおう、果たし状には「一対一の対決で、立会人は不要」
とありましたが、村上の道場主の中津川祐見は(菅野の義理の
甥である中山安兵衛は来るはず)と、なんと安兵衛に刺客
を送り込みます。
安兵衛の闇討ちは失敗。ですが伊佐子は矢が刺さって死んで
しまいます。

果し合い当日。高田馬場に向かう菅野の付き添いには大場と
いう中年の侍が一人。安兵衛は相手の助勢がいつ来てもいい
ようにスタンバイしています。
村上六郎右衛門は菅野は老人だし余裕と侮っていたのですが、
決闘がはじまると村上は不利になり、たちまち中津川祐見の
門人が数名、林の中から出てきて菅野に襲いかかります。
六郎右衛門の兄の庄左衛門も、中津川祐見も出てきたので、
安兵衛は助太刀に。

安兵衛は中津川と勝負。かろうじて安兵衛は勝ちます。大場
も予想外の活躍で無事でしたが、菅野は大怪我をし、運ばれ
た先で息を引き取ります。

講談や浪曲では「安兵衛の十八人斬り」とされていますが、
そこまで村上側の助太刀は多くなかったにせよ、とても卑怯
な振る舞いをしたことには違いありません。

「高田馬場の決闘」は、当日多くの見物者もいて、この話は
たちまちに拡がって、当時、権勢を誇っていた、側用人の
柳沢吉保や、安兵衛にとってかつての殿さまの新発田藩主
からも「召し抱えたい」と誘いがあったほどで、どこへ
行ってももてはやされて(天狗)になりかけます。

好条件で召し抱えの誘いを断ってきた安兵衛ですが「どうし
ても」と諦めの悪いのが、赤穂藩・浅野家の堀部弥兵衛。
安兵衛は、世話になった人に頼まれて断り切れずに、弥兵衛
と食事に。弥兵衛は安兵衛に「養子に迎えたい」と言い出し、
各方面(五万石の大名家臣)からも「一命をかけても養子縁組
を取り持ってみせる」とプレシャービシビシ。
挙句、弥兵衛は殿の浅野内匠頭長矩にも「中山安兵衛を養子に
迎えたい」と直訴をし、養子に迎えられないなら浪人になる
覚悟と切り出し、これには安兵衛も根負けし、養子に。
元禄十年、これで中山安兵衛から「堀部安兵衛」になります。

それから四年後の三月、安兵衛の(主君)である浅野内匠頭
が千代田城内にて吉良上野介に斬り付けた(事件)が。
文中でも「この小説は、いわゆる(忠臣蔵)を書くためのもの
ではない」とあります。

これに倣い、ここでも(忠臣蔵)に関する、赤穂藩の御家断絶、
浪士が討ち入り、と一連の出来事を細かくは書きません。

とはいえ、ちょっとだけ。いよいよ本所の吉良邸討ち入り、
安兵衛と弥兵衛親子は裏門と表門とに別れます。
そして別れの日、弥兵衛は安兵衛に「おぬしと暮らしたる
七年は、百年にも思える」とつぶやくのです。

ラストの、いよいよ切腹が安兵衛の番になったときの描写が、
文庫で上下合わせておよそ千ページにおよぶ長編を(読んで、
本当に良かった)と思わせてくれます。

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