やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

高瀬を通る

2006-07-19 | 大岡山界隈

お客様からの帰り道、高瀬の集落を抜けるバイパスを通ってきました。
確か先週、紅花祭りが開催されてゐましたが、
山裾の畑では、まだ花は見頃でした。










梅雨のこの時期、紫陽花と共に、合歓の花が揺れてゐます。











コルトレーンの命日にー。

2006-07-18 | 音楽を


1967.7.17.ジョン・ウイリアムス・コルトレーン、死去。

この日の為に、すこし前から、作品を幾つか聴いてゐました。
正直なところ、普段は余り積極的には聴く事のない、最期期の作品ばかりです。
(やはり、これらの作品を聴くのは、彼の短い生涯を思ふと、とても辛い)



『アセンション/エディションⅠ』

集団即興演奏の『アセンション』のエディションⅠ。
1965.6.28録音。

あの、完璧なまでの『至上の愛』を創りあげながら、その半年後、コルトレーンは無調の世界へと入ってゆく。
きっと、勿論、確たる自らの意思で。

グスタフ・マーラーが、若い作曲家たちの批判にさらされながらも、しかし、決して無調音階には入らず、まったくぎりぎりのところで9番の交響曲を完成させ、10番の交響曲を未完に終はらせたのとは違ひ、
コルトレーンは、この集団即興演奏を2回録音する。

圧倒的な音の洪水にさらされるけれど、
H・ハバードのトランペットが意外にいいな、とは思ふけれど、
もはや、この録音には微塵の美しさも、ない。

勿論それは、メロディの美しさといふ意味ではなく、例へば、アート・アンサンブル・オブ・シカゴが数年後に創りあげた見事な即興の、過激で、静謐な美しさに較べれば、作品としてやはり見劣りするのはやむをゑない。

『ライブ・イン・東京/セカンドナイト』
 1966.7.11録音。

『アセンション』より一年後、待望の来日をしたコルトレーンの音楽は、すっかり過激なまでに変容してゐた。
2時間の公演で演奏された曲目はわずかに3曲。
3曲目の「クレッセント」に至っては、その演奏時間は1時間に近い。

一度解体されたコルトレーン・カルテットにあらたに参加したファラオ・サンダースが、ある意味この演奏を引張ってしまったかのやうに破壊されて音を連ねてゆく。
特に、一曲目の「アフロ・ブルー」を聴くと、小生には、何故コルトレーンがファラオをメンバーに入れたのか(自分とまったく同じ楽器の奏者!)、如何に音の厚さや強さを求めてゐたと云はれても、理解するのはとても難しい気がする。

久しぶりに聴いて、アリス・コルトレーンのピアノがとてもよく、まるで印象派のやうに浮遊してゐるその奏法は、やはりM・タイナーでは出来なかったものであり、意外にこの時期のコルトレーンの音楽への影のコンポーザーはアリスだったのかしらん、と思はせるほどの好演でした。


そして、

『ステラー・リージョンズ』
1967.2.15録音。
死の半年前の録音。
   


1995年に、新譜!として発売された未発表テイク集。

再び基本のカルテットに戻ったコルトレーンは、まるでたなごころのやうな演奏を残してゐる。
どの曲も、10分に満たない。短いものは、数分の演奏。

けれど、どれも、何と美しい演奏なのだらうか!
深々とした音が、間違ひなく、一度染めてしまったフリー化への清算と修正を表し、
けれど、単なる楽しみだけのジャズではなく、現代音楽としてのそれを紡ぎ始めてゐる矢先の音楽になってゐる。
最期まで彼のカルテットに在籍し、ひとりひっそりと死んでいったギミー・ギャリソンのベースにも新たな表現が加はり、アリスのピアノにも格段の変化が出てきてゐる。

ポスト・コルトレーンの1970年代、ジャズは電気化とヒュージョンへと流れ込むけれど、勿論素敵な作品も沢山生まれてゐるけれど、この最期のコルトレーンの音は、風雨にさらされた堅固な建築物のやうに今もなほ有無を云はせない存在感を示し、音楽を創り出すことの意味を問ひかけ続けてゐるやうな気がする。


合掌。




(写真は、ジャケットより)









ビル・エヴァンス/ライブ・アット・モンマルトル2

2006-07-16 | 書棚のジャズアルバムから
    
   
       


1969.11.24.コペンハーゲン
ビル・エヴァンス
エディ・ゴメス
マーティ・モレル

「”ワルツ・フォー・デビー”ライブ!」と邦題がついてゐたアルバムです
(かなり、ひどい邦題ですがー)。

この年の11月、ビル・エヴァンスはスカンジナビア・ツアーを行ひ、どこでも大きな拍手で迎へられてゐたやうです。

エヴァンスのピアノは、相変はらず破綻がなく、アルバム一枚はあっといふ間に聞き終へてしまふ。
その中で、トリオに参加して2年目のエディ・ゴメスのベースが際立ってゐる。
とても力強く、そして、憬れの先輩に対して、けれどしっかりと自分の主張を出してゐる。
それかあらぬか、エヴァンスのピアノも、彼にまとはり付いてしまった”伝説”を消し去るかのやうに、強く荒々しい。
後半の数曲が、さういふ意味でとてもいい。

考へれば、ビル・エヴァンスは、紆余曲折がありながらも、1980年の壮絶なラスト・ライブの直後の死まで、数多の演奏をし、数多の録音を残してゐる。
間違ひなく、1961年の一連のライブ録音は非の打ちどころもないベスト・パフォーマンスではあっただらうけれど、確かにスコット・ラファロは死んでしまっただらうけれど、ビル・エヴァンスは生きながらへてゐた。

生きながらへる為に、この端正なアルバムジャケットの写真とは裏腹に、
麻薬も続けただらうし、メンバーの作曲を許さなかったといふこともあったのかもしれない。

けれど、残されたものは、そんなあがきをさほど感じさせない、軽快でセンシティブな演奏ばかりである。
ある意味、そのことは彼にとって、不幸なことであったのかもしれないがー。



(写真は、ジャケットから)




笹野観音/置賜三十三観音第十九番

2006-07-13 | 出羽百観音、を訊ねる
県南部のお客様の所へ伺ふ前に、一寸寄り道をして訊ねてきました。
県内でも著名な場所で、このあたりの一刀彫りは有名です。













山門の小さな覗き窓から、仁王像を観ることができ、昔びとの親切心が嬉しい。
















「あじさい寺」としても有名、と境内の説明書きに勝手に!書いてありましたが、
全体の印象は、ただ紫陽花が漫然と植ゑてあるといふ趣で、それ自体は然して美しいものではありませんでした。

それよりも、そのお堂の見事さに感動しました。
上杉鷹三公が再建させたといふそれは、約160年の築年数。
圧倒的な存在感を見せつけます。
















庄内の彫師が手がけたといふ細部の彫刻も見事です。













3mはあるだらう庇の出に、
雪深いこの場所の、それでなければ生きてゆけない証明があります。




棟の魔除けの飾りも面白いものでした。







米沢の豪商が寄進したといふ、石の延命地蔵。
当時、五百両近くかかった、とか。










小さな石仏が、尋ねる人の幸せを祈ってゐるやうでした。











燕は何処へ行った?

2006-07-11 | 大岡山界隈


         


人間としては、結構、劇的な巣立ちの姿が見られるのかと思ってゐたのですが、
飛び立った燕たちは、きっと、早くも彼らの生活を確立したのでせう、
暫らくの間楽しませてくれた巣は、ただの乾燥した土と草の固まりとなってゐます。

雨露をしのぎ、えさを得る。
そんな単純な、けれど必死な毎日に組み込まれていったのでせう。

燕の生態をよくと知らないので、
このままなのか、秋の旅立ちのときに挨拶にくる、なんて話も聞いたことがありますが、いずれにしても、また来年の初夏、お互ひが元気で一年ぶりの挨拶が出来ればよいと、残された巣を見ながら彼らの無事を祈るばかりです。






アルバム

2006-07-10 | 神丘 晨、の短篇

         



「それならやはり、『ワルツ・フォー・デビィ』だろ?」

ジャズ好きな友人が、得意そうに云った。
久しぶりに会って、酒を飲んでゐる時だった。
私が彼に、ビル・エヴァンスのアルバムならどれがいい、と聞いたからだった。

「このライブの直後、ベーシストがね…」
彼は、身を乗り出して話を続けてゐた。

私は、さして音楽といふものには興味がなかった。
別に改まって音楽を聞いたからといって、気持ちが休まることもなかった。
仕事の打合せの時、ホテルのロビーで音楽でも流れてゐれば商談が進む。
その程度でよかった。

「『ユウ・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』っていふアルバムはどう?」
「ウム?!」

友人は、驚いたやうに私の顔を見た。
「お前、素人の割りに、ずゐぶん渋いアルバムを知ってゐるな!?
 あれは、いいアルバムだ。
 一度すべてを流し去ったあとで、音楽が鳴ってゐる。
 持ってゐるのか?」

昔、ひとりの女に「聴いてみてー」と渡されたものだった。
それから、彼女とは一切の連絡がとれなくなった。




















カリンニコフの交響曲、を聴く

2006-07-09 | 音楽を


       


近頃、ジャズばかり聴いてゐて、
久しぶりに、カリンニコフの交響曲第1番を聴きました。

NAXOSレーベルの、テオドレ・クチャル/ウクライナ国立交響楽団といふマイナーな組み合はせですが、これがとても素晴しい演奏です。
曲の趣旨にあった、颯爽とした演奏です。

この曲では、他にアシュケナージが指揮したディスクがありますが、この演奏には及びません。

19世紀末、カリンニコフ30歳を前に創られたこの曲は、特にその第一楽章で、ロマンティックな旋律が初夏の森を抜ける風のやうに広がってゆきます。
一陣の風ではなく、風は絶え間なく吹いてゐます。
それほど深刻な音楽ではないけれど、この清々しさは得がたいものです。

終楽章に再び旋律が戻ってくるのですが、34歳で死んだといふこのロシアの作曲家の、無念の思ひをみるやうに、旋律は戻ってきます。


余談ながら、朝比奈隆氏が(小生は余り好きではありませんがー)、満州国時代、ハルビン交響楽団での演奏会で、この曲をよくプログラムに載せてゐました。
ロシア風だったといふハルビンの街には、如何にもこの曲は似合ひだったのかも知れません。

そして、その満州での音楽活動の様を掘り起こしたものに「王道楽土の交響楽」といふ素晴しい本がありました。

大杉栄を殺したとされる甘粕正彦が、新天地満州で当時の満鉄や満映とも微妙にからみながら、でも、彼の力でハルビン交響楽団は誕生する。
(小生、この甘粕正彦と、ヒトラーの部下だったゲッペルスに非常に興味がありましてー)
戦争加害者と戦争被害者といふ観点ではなく、すねに傷もつ人間が、でもひとつの文化を創ってゆく、といふ、日本には余り多くない壮大な話を見ることができます。




(写真は、CDから)













黙阿弥、を読む5 -御所の五郎蔵ー

2006-07-08 | 本や言葉


『曾我綉侠御所染』 
(そがもやうたてしのごしょぞめ)


初演は文久四年(1864)。
黙阿弥49歳。
幕末、黙阿弥の傑作が幾多と残された時期である。
明治までは、あと、4年である。


全6幕の長編ながら、通常4幕めまでは割愛され、今回読むことができたのも、残りの2幕部分のみで、成る程、最後の因果の語り部分が、どうもよく解らなかったはずでした。

小生が見ることが出来たのは、序幕とされてゐる「五条阪甲屋の場」「同逢州殺しの場」のみで、ラストのシーンは台本でのみです。


最初のシーン、御所の五郎蔵(浪人あがりの任侠といふことですが、まあ、云ってみれば、短気な見栄っ張りの、しがないチンピラです)と星影土右衛門(かつては同胞だったといふ、何故か忍術を使ふ侍)がすれ違ふ場面が素敵です。 
 




両サイドから出てくるそれぞれの親分と子分たちが、それぞれに渡り台詞を披露し、ステレオ効果満点、そして、その台詞の小気味のよいこと!

星影土右衛門は五郎蔵の妻さつき(この妻は、五郎蔵に甲斐性がなく、傾城つまり遊女に身をやつしてゐる)に横恋慕してをり、その糸口をつくりたいために過日子分達が痛めつけられたことも甘んじて許し、やがては金に困ってゐる五郎蔵の窮地につけ込んで、百両の金を融通しやうと云ひ、それが欲しいがために、さつきは偽りの去り状を書く。
これに、怒り心頭の五郎蔵はついにキレ、星影土右衛門とさつきが逢瀬の場へゆく夜道で待ち伏せし、二人の命を狙ふ。



ーこれ土右衛門、晦日に月の出るさとも、闇があるから、…、覚えていろ。

ーまだ春ながら愛想が突き心に秋の来たからは今日ぞこの世の別れ霜、露の命の
  消へ際も、六道ならぬ待合の辻に屍を晒してくれん。

こんな台詞で意を決するが、仮病を使ったさつきの代はりに、相手をすると云ひ出した同じ傾城の逢州を間違へて殺してしまふ。

小生、この作品の中では、出番はさして多くありませんが、この殺された逢州の存在感が好きです。いはゆる、姉御的な存在の役で、大きな要の役になってゐます。


歌舞伎の定石で、この逢州は、実は五郎蔵夫婦の身内だった。
それを悔やみ、ラストシーンで、二人はそれぞれに自害し、
さうだ! とばかりに、五郎蔵は尺八を、さつきは胡弓を奏しながら果てるといふ、
かなり壮絶な、すこし滑稽なラストですが、




やはり、このあたりの設定は、当時の歌舞伎が、如何に客に受けるかを、座付作者と役者達とが必死に考へてゐたといふ表れでせう。
この趣向は結構受けたらしく、当時の江戸市井の人々の喝采が聞こへてくるやうなシーン、です。

吉原らしきところでの、華々しい場所での登場からすると、最後は、結局は金に困り、真意をわかってやらうとしない妻に先に自害され、自らも絶望の中で果てる。

「チンピラ」といふ映画の名作がありましたが、浮き川竹のはかない物語、のやうな印象です。




(台詞、写真は、名作歌舞伎全集/第14巻/東京創元社、より)