「それならやはり、『ワルツ・フォー・デビィ』だろ?」
ジャズ好きな友人が、得意そうに云った。
久しぶりに会って、酒を飲んでゐる時だった。
私が彼に、ビル・エヴァンスのアルバムならどれがいい、と聞いたからだった。
「このライブの直後、ベーシストがね…」
彼は、身を乗り出して話を続けてゐた。
私は、さして音楽といふものには興味がなかった。
別に改まって音楽を聞いたからといって、気持ちが休まることもなかった。
仕事の打合せの時、ホテルのロビーで音楽でも流れてゐれば商談が進む。
その程度でよかった。
「『ユウ・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』っていふアルバムはどう?」
「ウム?!」
友人は、驚いたやうに私の顔を見た。
「お前、素人の割りに、ずゐぶん渋いアルバムを知ってゐるな!?
あれは、いいアルバムだ。
一度すべてを流し去ったあとで、音楽が鳴ってゐる。
持ってゐるのか?」
昔、ひとりの女に「聴いてみてー」と渡されたものだった。
それから、彼女とは一切の連絡がとれなくなった。