やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

光りのモニュメント

2005-07-21 | やまがた抄
山形市の東北芸術工科大学で、学生の作になる光りのモニュメントが展示されてゐます。
水上能楽堂を中心に、ここかしこで、闇のなか、光りを放ってゐます。

               

        

                

        

                

同校の学生さん達との付き合ひもあったので、少し期待して行ったのですが、
デジカメのせゐで、光りの弱いものは写りが悪く、ほんの一部だけですが、
以外に大人しい作品が多く、一寸残念でした。
見た目の美しさ、よりは、狂気のやうな美しさ、が欲しかった、かな。(v_v)

瀧山三百坊の石鳥居

2005-07-20 | 山形の鳥居、を巡る


                   

瀧山地区は、山形市の西蔵王近くにあり、山形市街から正面に見へるのが瀧山です。
その瀧山の裾野の一角に、今から1000年前後の昔、
三百もの、実質数ではなく、つまり非常に多くの宿坊を従へた大寺院があったとされてゐます。

激しい栄枯の果てに(寺院のよすがを求めるものは、全て取り壊されたといふ説があります)、
今は、穏やかな高原のさまになってゐます。

それでも、もっと下の集落のお客さん(集落の最長老の方でしたが)は、以前、
畑の中から10センチ程の仏像を見つけたさうです。是非みたい、と申し出ましたが、
家宝にしてゐるからと断られました。残念です。

わずかに残されてゐる古道の先に、鳥居はあります。
時代的には、少し後になって立てられたものらしいです。
かつては、この鳥居から松並木が続いてゐたさうですが、今はそれも株跡だけになってゐます。

あるひは、かつて、歌人西行も踏みしめたかも知れない道跡に、
赤錆色の柱が木々の蔭で時空をやり過ごしてゐます。

庭先で生ける

2005-07-19 | 雑記




何故か、我が家にはミノムシが多く、困ってゐます。

一口にミノムシと云っても、色々な種類があるのでせうが、
それぞれが皆、蛾になると思ふと、それ程良い気持ちではありません。

ただ、せゐ一杯の知恵と力で葉裏にぶら下がってゐる姿を見ると、
むげに採るのも痛ましく、結局、毎年、蛾屋敷となってゐます。

ミノムシの写真を撮ってゐたら、紅侘助にアマガエルがゐました。
春先に見たのと同じでせうが、まるまると太って、
もしかして、妊婦アマガエル?

(^_^;)

セル/クリーブランド管弦楽団来日公演

2005-07-18 | 古きテープから
1970年5月22日 東京・東京文化会館
指揮:ジョージ・セル/クリーブランド管弦楽団
プログラム 1.ウェバー/オベロン序曲
       2.モーツァルト/交響曲第40番
       3.シベリウス/交響曲第2番
       4.アンコール/ベルリオーズ/ハンガリー行進曲

こんなテープが出てきました!
セルの、死去直前の来日公演の模様です。
確か、アメリカのFM番組からの録音でした。
35年も前の演奏の、それもカセットテープへの録音ですから、
音は少し貧しくなってゐました。

でも、やはり、モーツァルトの何と素晴らしいことでせう!
鬼のやうに、楽員を選別し、首を切り、そしてトレーニングさせた
ジョージ・セルの「マイオーケストラ」は、インテンポながら、
今からすれば、やや時代がかった微妙な揺れ動きをさせて、
精密な音楽を進ませてゆきます。

何よりも、透明で、厚味のある弦の響きが素敵です。
メカニカルにトレーニングをつんだオーケストラが、
上質の紬の光沢のやうな風合ひをだしてゐる。
ひとつの、奇跡、とも云ふべきでせう。
こんな演奏を聴いてしまふと、昨今のピリオド・オーケストラの音は、
やはり、哀しいくらゐゴツゴツとしてゐる。

どの楽章も見事ですが、やはり終楽章は傑出してゐる。
出だしの、音が駈け出してゆく処のバランスが絶妙で、
その後のたたみ掛けられてゆく処でも、音楽は前のめりしない。

元々、40番はセルの録音が(来日公演の後に録音された)一番好きでしたので、
かなり肩入れがあるかもしれませんがー。

シベリウスの2番は、「マイオーケストラ」のお披露目のやうに、
微塵の破綻もない演奏である。
(以前から、シベリウスといふ作曲家のミステリアスな部分は好きでしたが、
 音楽は今ひとつ解らない処があり、それに、7月下旬の暑さの中より
 2月頃の雪の降り積もった頃の方が、彼の音楽の暗闇が見へるやうな気がする)
どの楽章も、心安らかに聴ける安心感に満ち、特に終楽章にかけての
構築のワザは圧巻である。

落花

2005-07-17 | 神丘 晨、の短篇

女は、公園の駐車場にゐた。
待ち合はせの時刻より、一時間も早く来てゐた。

男から連絡があったのは、一昨日だった。四ヶ月ぶりの声だった。
「一寸、忙しかった。久し振りに飯でも」と男は云ひ、
「ええ」と女は曖昧に答へた。
即座に断はれなかった自分が嫌になって、急ぎの仕事を投げ出して事務所を出た。
「間に合ひますか?」といふスタッフの声が後を追った。

公園を囲ふ緑地に沙羅の花が咲いてゐた。
七月の強い日差しを浴びて、甲斐もなく変色して落花した花殻が根元を埋めてゐた。
ー何も、好んでこんな季節に咲くこともないのに。
女は、恨むやうな眼で花を見つめてゐた。

車のラジオが十一時を告げた。
女は、思ひだしたやうにギアをRに入れた。アクセルを強く踏むと、出口へ向かった。
入れ違ひざまに、驚く男の顔が見へた。

べにばな畑

2005-07-16 | やまがた抄

山形市高瀬地区のべにばな畑、です。

高瀬地区は、映画「おもひでぽろぽろ」の後半の舞台になった処です。
お客様が幾人か居られて、そちらへ行く途中に咲いてゐました。
ただ、映画の話は、地元のお爺ちゃんに聞いても、
「さう云へば、ほだな話もあったけな」といふ程度、です。

ただ驚くのは、その映画のシーンの背景に使はれてゐた克明な描写です。
山のかたち、橋の汚れ具合、坂の勾配の感じ、等々。
現地へ行くと、小生の車が、主人公が乗ったポンコツの軽自動車になったと
錯覚するほど、見事に調査されてゐます。

さて、紅花は、それにまつはる話は沢山ありますが、
ある意味、現在のサクランボの存在に近いやうなところがあって、
素朴に、その花だけを、夏を迎へるものとして楽しみたいものです。

花か月か

2005-07-15 | 花や樹や

我が家の駐車場の横で、この花が盛りと咲いてゐます。

紫陽花の一種だったか、特大のオオデマリだったか、
記憶が定かでありません。

遅くに自宅にたどり着くと、まるで、満ちた月が零れ落ちたやうに
夜の庭先に浮かんでゐます。

米沢のあぢさゐ寺

2005-07-14 | やまがた抄


                   



              

米沢市万世町にある、「善光寺」です。
以前、作家のT先生に「よい処だよ」と云はれ、
丁度、置賜方面へ用事が出来たので足を伸ばしてみました。

程よくまとまった境内が、紫陽花に埋もれてゐました。
お寺の方に「やはり、信州の善光寺のー」と尋ねたら、
「いへ、本山は奈良の長谷寺です」と即座に答へられました。
小生のやうな、迂闊な質問をする輩が多いのでせう。

境内には、石仏も多く、好きな小生にはたまらない場所の発見でした。
それと、このお寺様には「見返り阿弥陀如来尊」があります。

       

突然伺って、無理を云って見せて頂きました。
場内は写真撮影禁止ですので、お寺様で求めた写真を載せましたが、
見事な立像でした。

往生者を迎へに来た阿弥陀仏が、極楽浄土に誘ふ際に
ついてきたかだうかを確かめるために振り返った、といふ説明が
目の前で拝見させて頂くと、心から納得いくやうな優雅な姿でした。

場内には、背面の写真も展示されてをり、その肩からの美しさを
見ることが出来ます。

とまれ、本当に美しいものに出会ふと、人は全身の力が抜けるのを
改めて体感した、貴重な時間でした。

(※ も少し写真をご覧になりたい方は、サイドのアルバムをどふぞー)

藪柑子の花

2005-07-13 | 花や樹や

ヤブコウジの花が咲き始めてゐます。

お客様から頂いたものが、玄関先でずゐぶんと増へました。
俗に、十両と云はれたりしますが、センリョウやマンリョウよりも好きです。

この時期、接写もままならない程の花を付け、
小さな実をつけながら冬に向かひます。
師走をやり過ごし、新年を迎へても、一センチに満たない赤い実を
雪の中で楽しませてくれます。

草ではなく、これでも立派な樹なのですが、
決して五十センチや一メートルには成長しない定めのなかで、
まさしく、地を這ふやうに生きのびてゐるヤブコウジが好きです。

(気がつかなかったのですが、アリ達が登ってゐました)

田村一村の絵

2005-07-12 | 絵をみる
一度でよいから、田村一村の絵を見たいと思ってゐます。

首都圏では、時をり、展示があるやうですが、
今まで、その、数少ないチャンスに遭遇することはありませんでした。

彼の美術館へ行けば、その渇きも癒ゑるのでせうが、
悲しいかな、奄美大島へゆく時間も余裕もありません。

ずゐぶんと以前、デザインの先輩に彼のポストカードを貰って以来、
夢中で「この絵の作者は何者?」と調べてきました。

奄美大島の辺境で、バラックのやうな小屋、否、アトリエで
パンツ一枚で絵を描く彼の姿は、その端正な風貌とは裏腹に、
憑かれたやうな目をしてゐました。

タッチが美しいとか、構図がよいとか、そんな
瑣末なことに目もくれず、野たれ死んだ彼の絵は、
小生のやうな凡庸の人間には細い針となって刺さってきます。