rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 歴史とは何か 岡田英弘 著

2008-05-02 19:33:04 | 書評
書評 歴史とは何か 岡田英弘 著 文春新書 2001年2月刊

中学高校と歴史を学び、受検のために一生懸命覚えても、では現在の世界情勢が理解できるかというと殆ど分らないのが真実ではないだろうか。私も含めて多くの日本人は日本の歴史教育の成り立ちについて知らされないうちにただ記憶することを強制されてしまい、そもそも歴史とは何なのかということを考えてこなかった。この本はこの根源的な問題を明快に解説した目から鱗の良書だと思う。受検が終わって大学に入り、国際問題に目を向けるようになったら全員目を通すべき本ではないかと思う。

世界において歴史とは中国の王朝史と地中海文明周辺の大国興亡史(西洋史)の二つしか存在しないという。中国王朝史は所謂天が支配者を決める「革命」の正当性を時の支配者が明確にするために司馬遷が紀元前二世紀に「史記」として記述したものが最初であるし、地中海文明はヘロドトス、ツキディティスを始祖に強者の対立盛衰をストーリイ(history)として記述したものがモデルとなっているという。これ以外の文明には所謂通史というものは存在せず、後付けで歴史というものが造られていったにすぎないという。

面白いのは日本文明(史)は7世紀に中国文明から独立する形で成立したと喝破していることである。つまり日本列島に住んでいた倭人は朝鮮半島の中国の直轄地と関係を結んでいたが、隋から唐にかけて中国の勢力が拡大して白村江の戦いに破れて日本列島に隔絶された段階で中国のアンチテーゼとして皇帝と対等の天皇を作り上げて中国からの独立を保ったとする説明である。聖徳太子が送ったという「日出ずる所の天子云々」の書簡も日本という中国と対等の国ができましたという宣言と考えれば「史記」の立場からすると日本史が成立したと言えるのである。しかしこの辺りの記述は日中の歴史的前後関係が不明瞭な所が多く、著者もあえてここでは詳述していないようだ。

また著者はペルシア文明のゾロアスター教による明「善」暗「悪」の葛藤の末、最後は明が勝った後救世主が現れ、その後世界は滅ぶという思想が後のユダヤ教、勿論その分派であるキリスト教、イスラム教に影響しているという記述など興味深い話題を提供しながら歴史という考え方の広がりを解説してゆく。

著者は最終的に歴史を考える上で「国民国家」の概念の複雑さを述べている。日本は幸運にして1500年以上国土と住人と政治が概ね一つにまとまっていたから明治以降の近代国家の成立における国民という概念がすんなり理解できる。その反対軸としてアメリカ合衆国は合衆国憲法に従い米国の国民になることを誓った人間は誰でも基本的にはアメリカ人になれるから分りやすい。しかも憲法成立以前のアメリカ古代史は存在しないので単純である。問題はそれ以外の国である。国と民族の境が一致していないところの方が多い現代世界において国史と呼ぶ物が国民にどのような意味を持つか実に難しい。著者が「歴史とは何か」という題で最も強調したかったのはこのことではないだろうか。特に「国民国家」においては現代の政治に利用するため、歴史の解釈上自分たちに都合の良いことを「善」悪いことは「悪」という善悪の判断をかませていることが多い。

歴史を善悪で考えるのは対立の当事者以外は何の意味もないと著者は言う。その通りである。日本の世界史教育において、ローマ帝国や元の制覇、ナポレオンの遠征などなどいちいちこれは良い事、悪い事と規定して教えたりはしない。しかし突然明治以降の近現代史になると日本や枢軸国は悪として教えられ、戦後は再びどの戦争も善悪の判断が下されず事実の羅列として教わる事になる。これは占領軍の戦後政策の賜物なのだが、これでは現代世界が理解できないのは当たり前である。

中国の史書は政権の正当性を表わしているにすぎないはずであるが、現代中国はどうも「国民国家」の成立を目指しているらしい。「ワンチャイナ」という合言葉や「北京語」を標準語にするために広東語や少数民族の言語を公教育から締め出している事実。またチベットを始め地方の文化や習慣を弾圧し、漢人を多数支配地域に移住させて民族の統一(有り体に言えば民族浄化)を計っている。本来共産主義には国家という枠組みはあり得ないはずなのにやたらと「国家」のアイデンティティを強調するのは日本型の国民国家を目指している証拠である。それは日本型の国民国家が戦争や国力の競争という場ではとても強力であるからだという。

歴史認識の共有などと言う定義も定かでない言葉が市中を賑わせている。「国民国家」における歴史というのは極めて政治的意味合いを持つ物であり歴史上の事実の確認程度なら良いが、それをどう意味付けるかまで共有する事は100%できないのであり、危険なことである。なぜなら同じ「国民国家」内でなければ過去に起こった事象に対する認識を共有することはできないからである。

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