rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

日独伊三国同盟とは何だったのか(2)

2017-01-02 00:29:31 | 書評

書評 ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟 高川邦子 著 芙蓉書房2015年刊 

第二次大戦中イタリアが降伏し、ドイツの劣勢も明らかになり始めた1943年晩秋、赴任先のハンガリーから天皇に状況報告のため、自らの職と命をかけて帰国した日本人外交官 大久保利隆の主に大戦中の記録を自身の孫にあたる高川邦子氏が種々の一次資料を当たりながらまとめた記録です。ハンガリーという枢軸国でありながらドイツとは異なる立ち位置で第二次大戦を戦った国からみた三国同盟やドイツとの関わりは非常に興味深く、前回の松岡洋右の記録で未解決であった部分の疑問に答える内容もあり、有用な書籍でした。

 

駐ハンガリー行使であった大久保利隆(1895-1988)についてまとめます。

 

氏は軍人一家で父は日露戦争時に「大久保支隊」隊長として奉天の会戦で活躍した家系であり、一高東大時代の同僚には岸信介や大佛次郎がいたということです。外務省に入りベルギー・イタリアや米国の大使館勤務をします。二・二六事件の時には辛くも暗殺を免れた岡田啓介首相を自宅から救出した迫水常久(首相の娘婿)は大久保の甥でもあり、反乱軍を騙して救出する際にも迫水に呼ばれて協力したということです。一方で反乱軍の中にも甥にあたる将校がいて、悲しい思いもしたという、時代を動かす人達というのは狭い世界だと思わせるエピソードです。三国同盟成立時には外務省の条約局第一課長として不本意ながら条約作成に参画し、その功績で松岡洋右からハンガリーおよびユーゴスラヴィア公使に任命されます。開戦後、独ソ線でドイツが苦戦する状況を本国に伝えようとしますが、ドイツ大使の大島浩は、ドイツが不利である状況の報告を許さないため、意を決して自ら帰国して「ドイツは1-2年の内に負ける、それまでに戦争を終わらせないと日本はソ連を含む全世界と戦争をすることになり滅亡する」という報告をするために大戦途中で帰国の許可を得てソ連経由で帰国、外務省初め天皇陛下にも欧州戦の状況について上奏を許されます。帰国後は軽井沢の外務省出張所でスイスなど中立国の大使との折衝を努め、戦後はアルゼンチン大使として戦後復興に尽力して外交官としての努めを終えたとされています。

 

第二次大戦におけるハンガリーの動き

 

ヨーロッパ唯一のアジア系民族の国であり、第一次大戦まではオーストリアハンガリー二重帝国として栄えていたものの、敗戦による「トリアノン条約」で領土の2/3を失い、小国となった上に共産党政権になって恐怖政治が敷かれていたのを旧体制に戻したのが海軍提督「ホルテイ」です。ホルテイはテレキやベトレンといった部下を首相につけて何とか国家を安定させるのですが、ハンガリーの領土を取ったルーマニア、ユーゴ、スロバキアなどとは敵対関係になります。それが後にドイツとの連携を結ぶきっかけになります。ドイツは進駐したチェコやルーマニアの一部をハンガリーに帰属させて領土を戻すことで恩を売って枢軸国参加に慎重であったハンガリーを参戦させます。基本的に衛星国の優等生ルーマニアもハンガリーもソ連には恨みがないので独ソ戦に気合いが入っていなかったことは否めません。スターリングラードの攻防戦も気合いの入らない枢軸衛星国の陣地をソ連が集中突破することで戦争の帰趨が変わって枢軸側の敗戦に繫がって行くのですが、ハンガリーも1944年8月にルーマニアが政変で連合国側に付いてハンガリーに宣戦布告45年2月にブタペストが陥落して降伏します。戦後は東側陣営に組み込まれて領土もトリアノン条約どおりの小国のまま現在に至ります。

 

何故ヒトラーは日独伊三国同盟を締結したのか

 

統一した戦略を持つでもなく、戦争遂行に役に立たない三国同盟を何故ヒトラーが締結したのかが謎であると前回のブログでも書きましたが、同書によると明確に書かれてはいませんが、松岡がドイツでヒトラーと会談した帰路にモスクワで「日ソ中立条約」を締結した際、ドイツ外相リッペントロップは大層困惑し、ヒトラーは激昂し、駐独大使でドイツの意図を一番理解していた大島浩は「全然解っていない」と激怒した、とあるようにドイツとしては独ソ開戦に際して東から日本がソ連に攻め込むことを期待していたと考えるべきだと思われます。しかし1936年に日独伊防共協定を結んでおきながら1939年にノモンハンで日本がソ連と死闘を繰り広げているにもかかわらず同年8月に突然独ソ不可侵条約を結んでしまい、当時の平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という有名な言葉を残して総辞職してしまうのですから、ドイツも日本の内情には無頓着で根回しも何も無く身勝手な外交を行っていたことは確かです。

 

何故ヒトラーは日米開戦を阻止しなかったのか。

 

1941年12月3日、日本は日米開戦に先立ってドイツ、イタリアに対して「日本と米英が開戦した場合に、独伊も宣戦して単独講和は結ばない」とする単独不講和協定を申し入れた、とあります。ムッソリーニは堀切大使の申し入れを即座に了解しつつも、正式にはドイツの了解を得てからという答え。ヒトラーは前線に視察に行って不在であったものの基本反対であり、外相のリッペントロップが「日本の英米開戦は英米の注意をアジアにそらす事になり、ドイツ軍の士気向上に貢献する」と言う詭弁とも言えるとりなしで渋々承諾、開戦後の12月11日にベルリンで署名したという経緯です。それでも本音は「ドイツが日本を助ければ日本もドイツを助けてソ連に宣戦布告するはず」という、独ソ線で苦戦している状況からの日本への期待がベースにあったことが本書に示されています。

 

「同床異夢」であった日独

 

前回のブログで記したように、日本は日独伊三国同盟に米国との戦争阻止、ソ連との共闘という夢を託したのに対して、ドイツはソ連を東西から挟み撃ちすることを期待していたことが解ります。つまり日独は「同床異夢」で同盟を結んでいたことになります。これはもっと高校の教科書などで強調されて教育されても良い事ではないでしょうか。日本は終戦間際においても中立条約を結んでいるソ連に対して米英との終戦の仲介を期待していた事実(1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。)があります。

 

国際条約においてこの同床異夢ほど厄介で後々取り返しのつかない禍根を生むものはありません。どうやら雲散霧消しそうですが政府がろくな説明も検討もなく締結したTPPは日米の思惑は一致していたと言えるでしょうか。他にも日本が勝手に良いように解釈している国際条約は本当にないのか、日本の国益を十分に叶えるものとして締結したものなのか心配になります。


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