政治家や社会に強いリーダーシップを持つ人材が求められている、といったコメントがよく見られます。社会が混迷し、停滞してくると強いリーダーシップで組織をまとめあげてゆく人材が必要であると考えるのは至極当然の事のように思います。では具体的に「リーダーシップを発揮する」とはどのような事を言うのか明確に説明しているものはあまり見かけません。
私はリーダーシップとは「人(部下)に任せる能力」であると考えます。自分を支えてくれる人達の能力を信頼して仕事を任せ、その結果起こってくる事態には自分が責任を持ち、リーダーとして決断を求められた際には責任を持って決断する、というのが指導者として何時の時代においても求められる資質です。何でも自分で決めて他の人達を従わせる「己は無謬であるという独善に基づいて他人の意見は無視し、無理矢理周囲を従わせる事」をリーダーシップが強いとは決して言いません。しかしマスメディアの論調を見ると、時に後者の「独裁」のような状態を「リーダーシップ」と勘違いして論じているものがあるように見受けられます。なんとも見識の低い事だ、と呆れますが、マスコミを含むどこの社会においてもこのような事は共通の認識であるはずですが。
以前にも書きましたが、私は最も望ましい指導者、リーダーシップを発揮した人は西郷隆盛、西郷従道、大山巌といった明治の元勲の中に見られると思っています。それは事態を適確に処理しえるに足る能力を自分以外の人に見いだして「結果の責任は全て自分が負う」と約束してそれを任せ、困難な事態を解決していったからです。必ずしも自分自身が物事を処理する能力が高い必要はありません、他人に任せられる「眼力と懐の深さ」があるかどうかが問題なのです。またそのようなリーダーの周囲には能力の高い参謀型の人材が集まってきます。その能力集団が「リーダーが明確に示す原則や方針」にそって物事に当たった時には凄まじい力を発揮するのだと思います。だからリーダーたるもの「原則や方針は明確に示す」能力も必要になります。
同じ「維新・・」を名乗る今話題の集団がありますが、どうも私には「維新」を名乗る割りにそのトップとなる人の「リーダーシップのありよう」が明治の元勲に比べてあまりに貧弱であるように見えます。直接会ったことはないので断言しにくいですが、「原則がぶれない」「周囲の人材に任せた上で責任はしっかり取る」といったリーダーシップの基本に不可欠な要素が欠如しているように見えます。その程度の人達の集まりを第三極などといって持ち上げている(最近支持率が低下したとも報じられていますが)メディアがあるとすればそれは阿呆であり、物事を解説する知識もないメディアと断言できるでしょう。
今週最高の話題、iPS細胞の研究でノーベル賞を取られた山中教授については、以前のブログでも取り上げました(http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/2f2d831f4958b175ba9c6c25df58244d)が、実に喜ばしい快挙だと思います。氏の素晴らしい所は、本人の仕事が優れている事は言うまでもありませんが、周囲の人達を信頼して仕事を任せ、まるで「花咲か爺さん」のようにまわりにどんどん花が咲いてゆく事です。私も若い頃に医学研究を始めるにあたって、「後から誰もついてこないような研究は何の意味も無いものだ」と指導してくれる先生に言われました。それは日々の仕事においても同様で、自分のやってきたことや「ありよう」を継いでくれる人がいるという事が大事なのだと思います。
望ましい上司、とは求められるリーダーとも同意だと思います。やたらと個人主義や個人の利得に走り、社会への貢献というものが顧みられなくなってきた事、これは内田樹氏の言う自分のことしか考えない「子供」ばかりで、社会を維持する「大人」が減っていること、とも通じますが、そういったリーダーの欠如が現在の日本社会の閉塞感と関連しているのかも知れません。
表層的な理解かも知れませんが、マルキシズムに言う所の「類的存在」というのも、自分の利益のみを主観的に追求する動物的労働から解放されて自己を社会の一部として俯瞰的に捉えた上で「類的本質」に基づいて自己の生産的活動を位置づけるという「大人としての存在」を意味しているように思います。自己の労働を貨幣という物に置き換えることを否定し、財産の個人所有を否定した社会主義、共産主義というのは結局「物欲を否定されたら残るは権力欲を追求するしかない」状態になって、新左翼も共産党もやっていることは権力闘争だけという不毛の社会を生み出して20世紀の終わりに否定されていったのですが、類的存在を「人間のより高められたもの」と位置づけることは誤りではないと私は考えます。リーダーシップの話からやや脱線しましたが、物欲主義、拝金主義のグローバル社会や現在の中国の姿を見るにつけ、健全な社会には「大人の存在」が大事であることは古今東西変わらぬ真実だろうと思います。