Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

工学における「遊び」とは

2008-04-03 23:48:25 | Weblog
本日,プロジェクトの申請に向けて,同じ大学のコンピューティング,ロボット,デザイン評価等々の研究者たちと打ち合わせること3時間。その論点をぼくなりに要約すれば,工学を突き詰めるだけでは iPod は生まれない,じゃあ,エンジニアあるいはマーケターはどうすればいいのか,研究者は何ができるか・・・という問題意識になる。

それに対する答えはない。だから研究課題として提案すべきなのだ。だが,見通しのない研究テーマには予算がつかない・・・というジレンマがあって,みんな呻吟している。こういう難問をうまくくぐり抜けないと,研究プロジェクトは立ち上がらないのだろう。しかし,焦らずじっくり取り組むべきかもしれない。問題意識自体は,心ある人なら誰でも納得してくれるはずだから。突破口は待っていても開けない。試行錯誤あるのみ。

議論のなかで面白く感じたのが「遊び」ということばの多義性だ。エンジニアが作る人工物における何らかの隙間は,日本語では「遊び」といわれる。英語でどう呼ばれているかわからないが(allowance? slack?),play とか entertainment ではないだろう。日本人がこれらを一緒くたに「遊び」と呼ぶのは,概念が未分化だからか,それともより深い洞察に基づいているのか。後者だと思いたい。

遊びは工学の対象になるのか? そうした途端に,遊びは遊びでなくなるという自覚は,少なくとも今日議論した工学の研究者たちには共有されているように思える。だから,昨日聞いた妹尾さんの議論に従えば,それは科学や工学を超えた「実践的知」になるべきかもしれない。しかし,そこであえて「バカになって」科学や工学にこだわってもいいのではないか・・・。とりあえず,それしかないわけで。

昨日読了したばかりの『時計じかけのハリウッド映画』によれば,米国で1980年前後に「脚本学」が集大成され,各大学の映画学科で教えられているという。ルーカスもスピルバーグもそれを学んだ。観客を entertaining するストーリー進行,時間配分,配役等々がフォーマット化され,ハリウッド映画は大なり小なりそれにひねりを加えつつ,基本的には踏襲している。

時計じかけのハリウッド映画―脚本に隠された黄金法則を探る (角川SSC新書 30)
芦刈 いづみ,飯富 崇生
角川・エス・エス・コミュニケーションズ

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フォーマット化それ自体が,エンタテイメントの価値を損なうことはない。ジャズ・プレイヤーたちは,好んでスタンダードを演奏し,お決まりのフォーマットを踏襲する。ただし,そこには必ず即興による崩しが入る。だから,二度と同じ演奏はない。フォーマットを崩しすぎると,一時のフリージャズのように,あまりに特殊な世界に陥ってしまう(それはそれで好きな人はいるが)。

そのような反復性がある限り,科学や工学の出番はある。そして,そこに汲み尽くせない部分は,ありがたいことに人間の特権として保持されている。何と幸せなことか・・・。