ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

05/04/24 映画『真夜中の弥次さん喜多さん』おもしろかった~

2005-04-25 16:03:36 | 映画(映画館、DVD、TVを含む)
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さて、昨日も娘と出かけ、私の方がサイフを忘れてとりに帰ったりいろいろと悶着はあったが、池袋のサンシャインシネマで『真夜中の弥次さん喜多さん』を見てきた。一昨日、本屋で漫画や小説の特設コーナーができていて、そこでチラシをもらってきて観ることになったのだった。
大体、クドカン(宮藤官九郎)は苦手だったのだ。TVで映画『木更津キャッツアイ』をやっていて娘と見た時、娘は大笑いしているのに私はだめだった。もっと丁寧に人物の気持ちを追いたいのに転換が早くて軽すぎるのだ。原作のしりあがり寿の漫画は手塚治虫漫画賞をもらっているが、読んだことはない。昨日買った小説版を読んだ時に巻末の解説で漫画と小説は全く別物とあった。小説は結末がかなり暗~い感じで、映画どうしようとちょっと腰がひけたのだが、娘と約束しているので仕方がない。
だがしかし、観てみたら、おもしろかった~。映画は小説とは別物だった。もちろん、設定は同じなのだが、タッチがめちゃめちゃ明るい。最後は、ほろっとくるし、「愛」で終わるし、観終わったあと爽快感が残った。これは見て得した。そしてクドカンも見直した。軽さだけでなくて、ちゃんと深い世界も描けるヤツなのだと思ったら、パンフにもそんなことが書いてあった(宮藤官九郎が深いテーマに初めて真っ向から挑戦)。現代の若者は、そういうのをちゃんと取り上げることには照れてしまって茶化すことが多い。若者文化の代表のようなクドカンの今までもそういうことだったのだろう。私のような前の世代の人間は、今回の映画くらいは描きこんでくれないと満足感が得られないのだ。
そしてハチャメチャだという原作の漫画をサイケデリックな映画にしているのだが、それがまあ、おかしくて楽しくて・・・。こんなにおかしいのは私は『少林サッカー』以来だ。冒頭は白黒映画のように始まるが、お伊勢参り勧誘のハガキのみがキラキラの彩色で浮き上がり、ふたりが江戸を出発するシーンでは送り出す人達がまるで予告編で見た『踊るマハラジャ』のような派手なミュージカルの群舞。旅をすすめる中で「笑の宿」「喜の宿」「歌の宿」「王の宿」「魂の宿」とすすんでいくのだが、そこここにえっ、この人がと思う人が登場人物で出てくる出てくる。そのお楽しみもすごいものがある。
さて、キャスト評(といっても、ほんの数人にとどめるが)
弥次郎兵衛=長瀬智也
同じTOKIOの松岡くんが大河ドラマの佐々木小次郎で新之助の武蔵よりも凛々しくかっこよかったので松岡くんばかりに気をとられていたが、長瀬くんもこれでかっこよさがわかった。娘がかっこいいと連呼していたが、同感です。小池栄子が死んだ女房役だったが、男に寝取られているのが悔しくて痴話喧嘩の刃物沙汰で死んでも愛し続け、最後は許してしまうのが無理もないと思うイイ男。
喜多八=中村七之助
ヤク中毒の歌舞伎役者という設定で、イっちゃっているような七之助の目、彼の中性的な美しさを活かした役。男らしい長瀬くんと並ぶとなんとも魅力的なゲイカップルができあがり。女子高生グループ(喜び組!)の中に入っていってもその可愛さに違和感がない。彼がいなかったらこの映画は成り立たなかったと思う。
アーサー王=中村勘九郎
初の映画親子共演だが、この人はどうしてこんなアヤシイ役を魅力的にやってしまえるのだろか。
岩に突き刺さったエクスカリバーを引っこ抜けと言いながら商売をしていて、引っこ抜いてしまうのは喜多さんで、そこからまた大騒動になっていくのだが、その騒動はそ知らぬ顔を決め込んで...というトボケぶりがまたいい。勘三郎になってからもアヤシイ役を外部でやってくれるのだろうか。そういうのが杞憂なのが新しい中村屋なのかもしれない。
  
写真は、映画パンフレットの表紙より。