「マスケラーデ」のお勉強を始めた。久しぶりに取り出すLPを資料にする。昔日本で中古で購入したモノであるがいつかは資料になるかなと思っていた。そして思いがけない機会となった。今でも楽譜を購入しようと思えば面倒だったかもしれないが、ありがたいことに無料でDL可能だ。LPであるからそれなりのテキストと解説がついている。嘗ては音を出しながら英語と原語デンマーク語の対訳を見ていたと思う。対訳を見るというのは小学生の時からの学びだった。
最近は、よって未知のオペラでも先日の「鼻」の様に対訳というものを見ることがなくなった。それでも粗筋だけは予め目を通しておく。細かな歌詞よりも音楽的に理解するためには粗筋とそこで生じるドラマテュルギーを押さえておいた方がよい。つまりロシア語なんかで苦労してキリル文字を捉えるよりも楽譜を追って、よさそうな録音で音を確かめておく方が価値がある。そもそもその言語を知らなければ単語を理解してもあまり意味がない。今回のフランクフルトの上演はドイツ語に新訳されて人気絶大のトビアス・クラッツァー演出で上演される。
音楽的には、一幕への序曲が個別に終結部をつけて演奏されることがあるように、手本とする「ドンジョヴァンニ」の序曲以上に凝縮されていて、音楽語法的にも緻密である。兎に角、長短システムの中での自由な扱いとそのデンマーク語のニュアンスが絶妙であって、外国人が歌えるようなものではないのと同じように演奏するのも難しいと思う。そこにリズムであり上の三度、七度の扱いが更にデンマーク音楽語法になっているのだからどうしようもない。指揮者ティテュス・エンゲルが若い時からの新作の歌付きの管弦楽曲での経験をどのように活かしてくるだろうか。作曲語法からすれば決して容易ではない課題だが、ドイツ語のニュアンスは流石のキリル・ペトレンコでもそこまで音楽に反映させることはできない。それだけでも対抗できるか。
収容制限があった時に真っ先に席を確保したので、結果二列目になってしまった。だから最終日には一列目を再購入した。しかし、この制作の内容を考えると、指揮が見えない席で視線が指揮者から解放される価値はある。どうしても気になる所を、舞台に集中できるので、個人的な依怙贔屓に無しに舞台を判断できるかもしれない。どうしても耳は奈落の音に行ってしまうだろうが、ドイツ語のニュアンスを楽しめるようならば、またテロップを読むことが可能ならば、一回目としてはとても為になる。
Einführung zu »Maskerade« von Carl Nielsen
金曜日には来週日曜日にバーデンバーデンで四回目の本番が演奏されて収録される予定のプログラム生中継を観た。先ずはそのメンデルスゾーンが素晴らしかった。「スコットランド」は数年前にヴィーンのニコライコンサートでフィルハーモニー定期公演デビューとして指揮されたものだが、似ては非なる演奏で、如何にヴィーナーフィルハーモニカーが何もできない三流管弦楽団かというのが改めて知らされる。よく言われるように超一流楽団は他所の楽団が終えた程度から練習を始めるというが、ヴィーナーフィルハーモニカは何度やってもその域に達さないから初めから練習しないという座付き管弦楽団である。
それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦のしなやかさと、折しもハイティンク逝去黙禱に続いて演奏された憂いのある歌の味わいのあること。そしてそのバランスの素晴らしさは、到底カラヤン時代のフィルハーモニカーの技術程度では不可能だった演奏実践である。パユを筆頭にあのような音は嘗ての名人でも出せなかった。
メンデルスゾーンの殆ど復権というようなものであって、それはヴィーンでの演奏でも感じられたのだが、そのバランスはお決まりの劇場のジンタのような重苦しいものであったが、こうした清澄さはこの作曲家たるものだったのではなかろうか。先日言及したカラヤンサーカスのサウンドの重い中低音の壁塗りのようなものは新フィルハーモニーが出来上がってからの新規のものであって、それ以前はアムステルダムのメンゲルベルク指揮コンセルトヘボーにしてもフルトヴェングラーは当然のこと、そのような単純な軍楽隊のような三和音の響きは芸術音楽には忌避されていたものなのである。
それにしてもこのコロナ禍でのフィルハーモニカーとペトレンコの活動は、こうして最初の頂点へと成果が表れてきた。ルツェルンでも進展は感じられたのだが、より進んできていると思う。火曜日のシューベルトプログラムも楽しみである。
参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女
最近は、よって未知のオペラでも先日の「鼻」の様に対訳というものを見ることがなくなった。それでも粗筋だけは予め目を通しておく。細かな歌詞よりも音楽的に理解するためには粗筋とそこで生じるドラマテュルギーを押さえておいた方がよい。つまりロシア語なんかで苦労してキリル文字を捉えるよりも楽譜を追って、よさそうな録音で音を確かめておく方が価値がある。そもそもその言語を知らなければ単語を理解してもあまり意味がない。今回のフランクフルトの上演はドイツ語に新訳されて人気絶大のトビアス・クラッツァー演出で上演される。
音楽的には、一幕への序曲が個別に終結部をつけて演奏されることがあるように、手本とする「ドンジョヴァンニ」の序曲以上に凝縮されていて、音楽語法的にも緻密である。兎に角、長短システムの中での自由な扱いとそのデンマーク語のニュアンスが絶妙であって、外国人が歌えるようなものではないのと同じように演奏するのも難しいと思う。そこにリズムであり上の三度、七度の扱いが更にデンマーク音楽語法になっているのだからどうしようもない。指揮者ティテュス・エンゲルが若い時からの新作の歌付きの管弦楽曲での経験をどのように活かしてくるだろうか。作曲語法からすれば決して容易ではない課題だが、ドイツ語のニュアンスは流石のキリル・ペトレンコでもそこまで音楽に反映させることはできない。それだけでも対抗できるか。
収容制限があった時に真っ先に席を確保したので、結果二列目になってしまった。だから最終日には一列目を再購入した。しかし、この制作の内容を考えると、指揮が見えない席で視線が指揮者から解放される価値はある。どうしても気になる所を、舞台に集中できるので、個人的な依怙贔屓に無しに舞台を判断できるかもしれない。どうしても耳は奈落の音に行ってしまうだろうが、ドイツ語のニュアンスを楽しめるようならば、またテロップを読むことが可能ならば、一回目としてはとても為になる。
Einführung zu »Maskerade« von Carl Nielsen
金曜日には来週日曜日にバーデンバーデンで四回目の本番が演奏されて収録される予定のプログラム生中継を観た。先ずはそのメンデルスゾーンが素晴らしかった。「スコットランド」は数年前にヴィーンのニコライコンサートでフィルハーモニー定期公演デビューとして指揮されたものだが、似ては非なる演奏で、如何にヴィーナーフィルハーモニカーが何もできない三流管弦楽団かというのが改めて知らされる。よく言われるように超一流楽団は他所の楽団が終えた程度から練習を始めるというが、ヴィーナーフィルハーモニカは何度やってもその域に達さないから初めから練習しないという座付き管弦楽団である。
それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦のしなやかさと、折しもハイティンク逝去黙禱に続いて演奏された憂いのある歌の味わいのあること。そしてそのバランスの素晴らしさは、到底カラヤン時代のフィルハーモニカーの技術程度では不可能だった演奏実践である。パユを筆頭にあのような音は嘗ての名人でも出せなかった。
メンデルスゾーンの殆ど復権というようなものであって、それはヴィーンでの演奏でも感じられたのだが、そのバランスはお決まりの劇場のジンタのような重苦しいものであったが、こうした清澄さはこの作曲家たるものだったのではなかろうか。先日言及したカラヤンサーカスのサウンドの重い中低音の壁塗りのようなものは新フィルハーモニーが出来上がってからの新規のものであって、それ以前はアムステルダムのメンゲルベルク指揮コンセルトヘボーにしてもフルトヴェングラーは当然のこと、そのような単純な軍楽隊のような三和音の響きは芸術音楽には忌避されていたものなのである。
それにしてもこのコロナ禍でのフィルハーモニカーとペトレンコの活動は、こうして最初の頂点へと成果が表れてきた。ルツェルンでも進展は感じられたのだが、より進んできていると思う。火曜日のシューベルトプログラムも楽しみである。
参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女
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