人から教えて貰い独第一放送のチベット特集を観た。座談会部分は見なかったが、少ないラサの映像に加えて、中国国内での報道映像に独自に取材した街でのインタヴューを交えて、十分ほどにまとめていた。
その視座は、中国国内でのネット報道規制が示す中国社会の現実と中国人の教育やその報道規制から生まれる飼いならされた社会性を如実に映す事で、我々がこうした人民とどのように付き合えば良いかを問い掛けるものであった。
親中派を自認する者としては、その実態の示し方は誤りではないと思い、また我々の問題として捉える場合の参考になる視点であったように思う。
特にその中華思想は、攘夷でもある民族主義でもあるが、それが情報操作というソフトな情報鎖国にあるとき、その進む方向はコソヴォなどにみられるもしくは第三帝国に見られるようなジェノサイドに至るのではなく、ダライ・ラマが呼んだような「文化的虐殺」に繋がるのだろう。
お馴染みのマルク・ジーモンスが、これを中国最初の「反近代主義への反乱」と呼んでいる ― 暴徒化した若者達が破壊する信号機や自動支払機などのこそがその対象なのだ。つまり、五億七千万人民元に及ぶ中央政府のチベット振興策は、ラサを中心とした経済成長を齎し、嘗てないほどに鉄道のみならず仏教寺院などが観光の対象として整備されて来たようだが、その実は元来そうした近代化にそぐわない密教文化を破壊するものであって、これに対する蜂起こそが中国で最初になされた反近代主義の事件とする意味である。
TVに映された恐らく北京であろう街角の漢民族の反応は、「野蛮人の反乱は大きな中国の中で大した意味はない」とか「オリンピックボイコットなどは、スポーツの政治化で受け入れられない」とか、その与えられている情報のみならず与えられた教育のなせる技で、サファリパーク化したチベットどころか中国大陸の人民が共産党一党支配の下で上手く飼いならされていることを映し出していた。
我々の視点も、その与えられた情報を吟味することなく容易に判断すれば、こうした檻の金網の内側にいるのか外側にいるのか直に定かでなくなるが、少なくとも公に声を上げて議論する素地がある限り、その立ち位置を確認することが出来る。
各地でのデモンストレーションは、その意味からも自由民主主義度の一種の確認作業に違いなく、特にインドにおけるチベット亡命政府筋のそれは、対中国関係からも慎重を期されていて、ダライ・ラマ自身もその政治生命を懸ける必要に迫られている。
チベット入りを禁止されている登山家ハンス・カメランダーは、「破壊のチャンピオン」と中共を呼ぶ。旅行者との個人的な接触を規制され奴隷のように扱われるチベット人を語る。そうした前近代的な植民地政策こそは、毛沢東自らが「宗教は麻薬」と断言していたダライ・ラマ支配の封建社会から、チベット人民を解放した統治政策の結果なのである。
しかし、それは拡張主義的で人種主義に彩られた中華思想そのものであり、そこに米国風の市場原理主義のグローバリズムが加わったことで、文化大革命の残照を残したかのようにイスラム原理主義よりも明らかに文化破壊を推し進める危険思想となっている。
北京政権のダライ・ラマ攻撃はかなりのレヴェルに達しているように見えるが、対話相手として彼以外の人物がいないことからすれば、北京がその影響力を恐れるダライ・ラマの首を替えることで、チベットの運動はいよいよ過激化暴力化して本格的な独立運動になるのではないか?
参照:
Museum des Hasses, Mark Siemons, FAZ vom 18.3.2008
青藏鉄道 (私は日本映画が大好きです)
軽視されるチベット文化 (月山で2時間もたない男とはつきあうな!)
思いを巡らす (うたた寝の合間に)
今日も風邪気味 (日々雑録 または 魔法の竪琴)
それはチベットから始まった (アヴァンギャルド精神世界)
チベット平和の為の署名を!! (Hodiauxa Lignponto)
チベットでの暴動について (Die Sorge)
チベット自治区暴動への対応 (ポラリス-ある日本共産党支部のブログ)
言論統制してもいいことないのにね。 (Famiglia Nera[ 妖婦の日常劇 ])
不愉快な北京オリンピック開催 (ドイツ日記 Les plaisirs et les jours)
麻薬である信仰-2008? [ マスメディア批評 ] / 2008-03-18
その視座は、中国国内でのネット報道規制が示す中国社会の現実と中国人の教育やその報道規制から生まれる飼いならされた社会性を如実に映す事で、我々がこうした人民とどのように付き合えば良いかを問い掛けるものであった。
親中派を自認する者としては、その実態の示し方は誤りではないと思い、また我々の問題として捉える場合の参考になる視点であったように思う。
特にその中華思想は、攘夷でもある民族主義でもあるが、それが情報操作というソフトな情報鎖国にあるとき、その進む方向はコソヴォなどにみられるもしくは第三帝国に見られるようなジェノサイドに至るのではなく、ダライ・ラマが呼んだような「文化的虐殺」に繋がるのだろう。
お馴染みのマルク・ジーモンスが、これを中国最初の「反近代主義への反乱」と呼んでいる ― 暴徒化した若者達が破壊する信号機や自動支払機などのこそがその対象なのだ。つまり、五億七千万人民元に及ぶ中央政府のチベット振興策は、ラサを中心とした経済成長を齎し、嘗てないほどに鉄道のみならず仏教寺院などが観光の対象として整備されて来たようだが、その実は元来そうした近代化にそぐわない密教文化を破壊するものであって、これに対する蜂起こそが中国で最初になされた反近代主義の事件とする意味である。
TVに映された恐らく北京であろう街角の漢民族の反応は、「野蛮人の反乱は大きな中国の中で大した意味はない」とか「オリンピックボイコットなどは、スポーツの政治化で受け入れられない」とか、その与えられている情報のみならず与えられた教育のなせる技で、サファリパーク化したチベットどころか中国大陸の人民が共産党一党支配の下で上手く飼いならされていることを映し出していた。
我々の視点も、その与えられた情報を吟味することなく容易に判断すれば、こうした檻の金網の内側にいるのか外側にいるのか直に定かでなくなるが、少なくとも公に声を上げて議論する素地がある限り、その立ち位置を確認することが出来る。
各地でのデモンストレーションは、その意味からも自由民主主義度の一種の確認作業に違いなく、特にインドにおけるチベット亡命政府筋のそれは、対中国関係からも慎重を期されていて、ダライ・ラマ自身もその政治生命を懸ける必要に迫られている。
チベット入りを禁止されている登山家ハンス・カメランダーは、「破壊のチャンピオン」と中共を呼ぶ。旅行者との個人的な接触を規制され奴隷のように扱われるチベット人を語る。そうした前近代的な植民地政策こそは、毛沢東自らが「宗教は麻薬」と断言していたダライ・ラマ支配の封建社会から、チベット人民を解放した統治政策の結果なのである。
しかし、それは拡張主義的で人種主義に彩られた中華思想そのものであり、そこに米国風の市場原理主義のグローバリズムが加わったことで、文化大革命の残照を残したかのようにイスラム原理主義よりも明らかに文化破壊を推し進める危険思想となっている。
北京政権のダライ・ラマ攻撃はかなりのレヴェルに達しているように見えるが、対話相手として彼以外の人物がいないことからすれば、北京がその影響力を恐れるダライ・ラマの首を替えることで、チベットの運動はいよいよ過激化暴力化して本格的な独立運動になるのではないか?
参照:
Museum des Hasses, Mark Siemons, FAZ vom 18.3.2008
青藏鉄道 (私は日本映画が大好きです)
軽視されるチベット文化 (月山で2時間もたない男とはつきあうな!)
思いを巡らす (うたた寝の合間に)
今日も風邪気味 (日々雑録 または 魔法の竪琴)
それはチベットから始まった (アヴァンギャルド精神世界)
チベット平和の為の署名を!! (Hodiauxa Lignponto)
チベットでの暴動について (Die Sorge)
チベット自治区暴動への対応 (ポラリス-ある日本共産党支部のブログ)
言論統制してもいいことないのにね。 (Famiglia Nera[ 妖婦の日常劇 ])
不愉快な北京オリンピック開催 (ドイツ日記 Les plaisirs et les jours)
麻薬である信仰-2008? [ マスメディア批評 ] / 2008-03-18