Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

クロンベルクの皇后陛下

2006-02-02 | 
タウヌスのクロンベルクには、芸術家の植民地だけで無く、ドイツ皇后の隠居の城が君臨する。現在も高級ホテルとして存在する。これは、ヘッセン家がヴァイマール憲章時に国家接収を避けるために創立した財団の所有であり、フランクフルトのヘジッシャー・ホーフなどと共に管理されている。

プロイセン国王妃ヴィクトリア・フリードリッヒは、ザクセン・コブルク・ゴータのアルベルトとヴィクトリア英国女王の娘である。ロンドンのヴァッキンガム宮殿に第一子として1840年に生まれ、ロンドン万博の際にそこを訪れたプロイセンのプリンス、プロイセン王継承権第三位のヴィルヘルム・フリードリッヒと知り合う。他の兄弟に比べて幼少の頃から才気溢れた少女は、プリンス・ヴィリアムスとザクセン・ヴァイマールのアウグスタの子息であるこのプリンスと結ばれる。1856年の婚約の反響は否定的で、タイム紙がプロイセンの貧相な王室とは合わないと言い、ドイツでは英国王室の影響が危惧された。ヴィクトリア女王の希望でロンドンのセイント・ジェームス教会で婚礼が行われた。

跡取りの無い伯父さんのフリードリッヒ・ヴィリアム四世の死を以って父親がプロイセン王となったので、このプロイセン皇太子夫妻はプロイセンと北ドイツ同盟の顔となった。政治的にリベラルで英国寄りの皇太子夫妻は、宰相オットー・フォン・ビスマルクの政治的権威を後ろ支えする事になる。ヴィクトリア女王の欧州と化した親戚筋のデンマークなどを武力で統一した伯爵ヴィリアム一世のお陰で、通称フリッツと呼ばれるこの皇太子は、1888年の父親の死を以ってプロイセン王とドイツ皇帝の座に着く。しかし戴冠99日後には癌で世を去り、皇后フリードリッヒ通称ヴィッキーは未亡人となる。

後継ぎの長男のヴィルヘルムとの縁りが大変悪い事もあり、タウヌスのクロンベルクに亡き皇帝を記念してを築き、内装など全てを思いのままに整えさせた。こうして出来上がったのが現在のクロンベルク・ホテルである。

皇后は、既に1850年代から芸術家植民地に活動していた画家アドルフ・シュライヤー宅の傷痍軍人を見舞い、この土地を知る事となる。未亡人となると早速此処に土地を購入している。ベルリンで肖像画家として有名で、既に自らを描かせているノルベルト・シュレーデルのクロンベルクの家を訪問する。そして自らの城が1894年に完成すると、極近所のシュレーデルのアトリエへと日参した。

娘であるギリシャ国王夫妻を訪ねたり、親戚筋を訪ねて、イタリアなど南国へと足を伸ばし、様々な風景を描いている。旅行の期間を除いては、午後は自らのアトリエのある部屋で絵画や細工物やデザインに勤しんだ。そこのバルコンから見えるクロンベルク城の鋭塔は、特にお気に入りの素材だったようである。

幼少からの読書家で、歴史書はモムセン、ランケ、グレゴロヴィウスを贔屓に、エドワルド・ツェラー、ルドルフ・グナイスト、ハイムホルツ、デュボワー・レイモン、ヴィルショウ、ダヴィット・シュトラウスやエルンスト・レナンなどを幅広く読み。夫と共に嘗て勉強したベンサムなどの英国の貴重な本の所持を自慢にしていたと言う。そのような知的欲求から、古城クロンベルクへの日々の「発掘調査」では多くの発見を楽しんだ様で、これを基に現在のように手入れされたらしい。手紙などの収集家でもあり、エリザベス一世とマリア・スチュワートの手紙やマリー・アントワネットの手紙などの多くを所持していた。自らの母親ヴィクトリア女王との六千通に近い手紙の数々も後に公表されると考えていたのだろうか。

この未亡人の居城には、毎日の様にロシア皇太子を初めとする貴族から植民地の芸術家を含めた町の者までが、滞在したり訪れており、娘や息子達を引き連れての謁見が日課であった。こうして、1901年の死が訪れるまで、少女の為の学校や病院の設立の等の社会活動を行いながらここに暮らした。



参照:
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01
並行した空間からの響き [ 音 ] / 2006-02-03
葡萄の地所の名前 [ ワイン ] / 2006-01-21
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