Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

情報管制下の娯楽番組

2005-11-05 | 歴史・時事
グッバイ・DDRという番組の三回目を観た。ドイツ民主共和国の崩壊を描いた小シリーズである。余りに悲惨で非人間的なエピソードが語られるので、宣伝放送ではないかと思うほどである。三回目はスポーツ行政を中心にカテリーナ・ヴィットなどが紹介されていた。東のアイドルで広報であった彼女の話は飽き飽きしているが、それ以外のエピソードなどは面白かった。

最高の喜劇は、シュミット首相を案内するホーネッカー総書記一行である。通り道に警察の盾を作り、窓から覗くことを防ぎ、そこにいる全ての市民は仕込まれた党関係者だったという。なるほど町中からニックネームが叫ばれる。クリスマス市も全てエキストラ総出演というから恐れ入る。それでも為政者は不慮の事態を恐れて、ライヴTV放送は15分のディレーを使って放送していたというから、完全に民衆との間には埋められない溝があったことになる。オーウエンの小説そのものというから驚く。

勿論背景には経済的失策と行き詰りがあったのだが、*食事を与えられない民衆ほど始末の悪いものはないらしい。経済的行き詰まりは共産主義の産物であったとしても、トロッキストの主張通り思想的行き詰まりではなかったといえるのだろうか?

情報管制だけは、偽らざる事実を語る。夜のゴールデンタイムには、美しいショーが繰り広げられる。瑞々しい女性の肌やその華やかな夢の一時は、健全で精気に満ちたプロレタリアート独裁の社会である。お茶の間のTVの前の視聴者は、その背後にあるものに仮令感づいていていたとしても、自らを騙し続けていたのではないだろうか。何れにせよある種の憧憬を誘うような言葉は、厳しく禁止された。籠の中に閉じ込められて生きるのは、何も家畜だけの習性ではない。たとえ閉じ込められても民衆には娯楽がある。

寧ろ西ベルリンでは、陸上封鎖に対抗して米軍の空前絶後のエアー・ブルッジをもって、全ての食料や燃料が運ばれたのは有名である。さて、その数年以内には、東側では全ての西側をイメージさせるものは一掃された。

ベルリンには、立派な郵便チューブ網が存在した事を紹介したが、そこで聞いた話もこれを裏付けている。つまり、党の指導部にとっては、西側ゾーンへのコネクションを切り去る事は当然であった。そのように局に指示したのだが、現場ではその後数年間も故意にそのままにして置いたということだ。流石に切られる事にはなるが、今度は西側を思い起こす痕跡は全て消し去れなければならなかった。しかしそのように処分しなかった証拠が上の写真である。つまりベルリンの全地域へのコントロール盤は、使用出来ないに関わらずそのまま残されたという事である。実際に、プロレタリアートの大会の宣伝看板で隠して党幹部のコントロールを逃れたかどうかは知らないが興味ある話である。

特にこの話で個人的に興味を持ったのは、初めて東ドイツを通って西ベルリンへと入った1986年の国連世界平和年の看板が飾られていたからだ。なるほどゴルバチョフ氏登場以降末期症状を示していた東ドイツであることは当時から分かっていた。デンマーク発モスクワを初め東欧行きの夜行寝台列車に乗って、カーテンの隙から東ドイツの曙の出勤風景を眺めたものである。見学した郵便局から僅か数百メートル先のフリードリッヒシュトラーセ駅で、西ベルリンに入るには長い停車を余儀なくされた。ナチのドイツ軍そのものの制服の皮ジャンバーの東独軍人が遣って来てプラットホームで監視する。そして今まで寝ていた寝台を根こそぎ引っくり返して、シェパードを連れた軍人が列車の内と外を同期しながら誰かが潜んでいないかと虱潰しに調べる様子は忘れる事が出来ない。

*食の不足は、末期である1980年代の東独には当てはまらない。



参照:空気配送郵便チューブ [ テクニック ] / 2005-10-28
コメント (4)
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