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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

孤独な噴水 吉村 昭 52

2019-03-10 | 吉村 昭
初の長編小説「孤独な噴水」 吉村 昭

常見耕二は21歳。おもちゃ工場で働いている。
凶暴な父や、障がいを持つ姉、夜間高校へ通う弟。ガード下の一間のアパートで暮らしながら、ボクシングジムへ通い、この生活からの脱却を夢見ている。

恋人の強奪や病に倒れた母親の登場。ジムのファイトマネー問題や、さまざまな理由で挫折し拳闘の世界を去る先輩たちなど。戦歴を重ね、夢の実現に一歩一歩近づく一方で、襲い掛かる難題。

この「孤独な噴水」は、昭和39年(1964)、吉村昭が37歳の時の作品。次の長編は昭和41年(1966)の「戦艦武蔵」である。若さ溢れる文体が読み手をぐいぐいと引っ張る。また、このころよく見ていたというボクシング界を、綿密な取材できちんと構築するあたりはさすが。

この頃の吉村は、1959年、62年と4回の芥川賞にノミネートされながら、受賞を逃し、次兄の営む繊維会社に勤めていたという。そこで、出版社から初めての長編小説のお誘いがあり、半年で書き上げた作品。
平成7年(1995)に文庫化するにあたり、あとがきの中で吉村は、若かりし頃のこの作風を、衒気(げんき)と表現し、自分をよく見せかけようとする気持ちがあり、気恥ずかしさを覚えたと表している。


朱の丸御用船 吉村 昭 51

2019-02-03 | 吉村 昭
江戸時代の海事に興味を持った吉村昭が平成9年に出した「朱の丸御用船」。

幕府領から年貢米を輸送する御用舟。この船尾に立てられていたのが朱色の日の丸の旗印である。

この頃、廻船の積荷の密売を隠すため、海難事故の偽装があった。

遭難を偽装して御用米を横流しした天神丸。また、その遭難により、米などのおこぼれをいただいた志摩国(三重県)波切村の人々。
この2つの出来事を結びつける幕府の役人。追い詰められた村の人々は・・・。

資料に基づいて構成する吉村の淡々とした文体は、平凡な毎日から、徐々に破滅への道を転げ落ちる村人を際立たせる。

事実は小説より・・・。


わたしの引き出し 吉村 昭 50

2019-01-06 | 吉村 昭
平成もいよいよ最後となる。今から10年以上にもなる2008年(平成19年)から2009年(平成20年)にかけて激読(造語です)していた吉村昭の数編をアップする。

1980年代を中心に雑誌や文芸誌、新聞などに掲載された66のエッセイからなる「わたしの引き出し」(文春文庫)。平成4年(1996)刊。

6つの引き出しを用意し、氏らしい幅広いジャンルからウィットに富んだ見識が興味深い。

最初の引き出し「小説の周辺」
戦史小説から歴史小説へ。その取材の中で出会った人たち。
2番目の引き出し「歴史のはざまで」
維新での出来事、医術の題材、先の大戦、沖縄、心臓移植、胃カメラなど。氏の小説の裏話を読むのもまた、楽しみ。
3番目の引き出し「街のながめ」
正月の過ごし方、癌の告知、不意の死、病気、涙、食、東京の変貌
4番目の引き出し「遠い記憶」
性格、母の思い出、お医者さん、リヤカー、米兵、空襲の日暮里、自分の学歴
5番目の引き出し「書斎を出れば」
ボクシング・野球・大相撲、ソフトボールチーム、仮釈放とラーメン、禁酒、家出娘、講演会
6番目の引き出し「お猪口と箸」
酒談義、立ち食い、食事の途中、卵とバナナ、講演と美味


はじまりの物語 吉村 昭 49

2013-04-07 | 吉村 昭
久々の吉村昭です。48冊目となる今回は、執筆のため氏が収集した膨大な資料から、その事始について触れた『事物はじまりの物語』。2005年1月刊。
何事にも始まり、それを起こした人がいる。日本に伝わり、今を作り上げた。もう見ないものもあれば、現在まで息づくものもある。取り上げたのは、解剖、スキー、石鹸、洋食、アイスクリーム、傘、国旗、幼稚園、マッチ、電話、蚊帳・蚊取り線香、胃カメラ、万年筆の13品。氏のクールでタイトな文体がなつかしく、足で稼いだ氏の地道な取材が思い浮かばれる。各編ごとに挿入された挿絵も楽しみ。江戸から明治にかけて、まさにフロントランナーが起こした文化の一端。

ぎっくり腰と津村節子『紅梅』 吉村 昭 48

2011-10-02 | 吉村 昭
ここ2年、毎年春になるとぎっくり腰をする。サポータで腰を固定し、シップと投薬で治療する。何か、根本的な治療はないのか。大学病院へ紹介状を書いてもらい、9月に受診した。結論は「このくらいの頻度の腰痛なら良しとしなさい」というものだった。
レントゲンでは、背骨の様子が丸みから尖ったものに変わり、一部、骨と骨の間が隙間が無くなっている。ドクターは「30歳から老化は始まっていますからね。毎月、ぎっくり腰になり、就労にも支障があるくらいなら手術しますが、年に1度なら、開業医さんで見てもらえばよし。腰痛とお付き合いください」という。老化、つまり死へのカウントダウンは、もう始まっているわけだ。そして、最後にお決まりの減量と運動のススメである。
そういえば、テレビではアンチエイジング商品の花盛り。化粧品から、健康食品やサプリメントまで、ほんとうに個人の感想が映し出される。不老不死は、まさに夢。

その死と向き合った日々を描いたのが、津村節子。夫で作家の吉村昭との闘病記『紅梅』だ。2011年7月刊行。

吉村昭は、平成18年に79歳でこの世を去る。最後は自宅で闘病し、「もう死ぬ」といって、自ら点滴のチューブを抜く。それまでの平成17年(2005)から翌18年7月までを描く。がんと糖尿病の夫と付き添い、作家としての日々も暮らす津村。一日一日、夫と病に立ち向かう壮絶な日々。
吉村は、若いころ結核の大手術をしているので、命の大切さを切に感じるとともに、生きながらえていることの負い目、幸福感を常に持っていた。吉村の几帳面さを物語るように、死の直前まで日記を書き続けていた。さらに、死後の妻の生活を案じ、葬儀のことまで遺言を残していた。
最後まで家族への思いやりと感謝の心を忘れない。
しかし、人は夫婦といえども、心の中は覗けない。真にわかりあえることはない。まさに生まれるのも一人、死ぬのも一人である。だから看病とは常に後悔を伴うものなのだろう。そういう意味で、この本は妻、津村節子の悔恨の記でもある。そして、自らの死まで生き抜く、決意の書なのだ。吉村の死後3年は看病の本を書くなという遺言は守られた。

吉村 昭 47 「伝えたかったこと」

2011-10-01 | 吉村 昭
文芸春秋は、9月の臨時増刊号で、吉村昭を取り上げた。「吉村昭が伝えたかったこと」である。版を重ねているらしい。もちろん、先の東北大震災で、吉村の著書『三陸海岸大津波』『関東大震災』が、見直されたことに触発されてのことだ。

巻末の著作一覧や、作品の魅力を語る人々、旅・酒・肴に触れるエッセイの数々など、この1冊に吉村の魅力が凝縮されている。そして、妻であり、作家である津村節子のインタビューを掲載し、夫吉村との闘病記『紅梅』のPRもきっちりとしている。そういえば、今日、テレビ朝日系列でドラマ「光る壁画」を放送する。2008年の8月1日に17冊目としてブログ掲載した。

何よりも、巻頭のグラビアが魅力だ。氏の仕事やプライベート、書斎の様子などが盛り込まれ、若かりし頃から晩年までが偲ばれる。しかし、人の顔は、加齢とともに、こんなにも変わるものなのか。考えてみれば、生まれてから、毎年のように人は変貌するのだということに、今更気付く。

吉村 昭 46 終戦の日「深海の使者」

2011-08-15 | 吉村 昭
8月15日は終戦の日。「深海の使者」は吉村昭が昭和48年(1973)に発刊したいわゆる戦争文学の一つ。題名からわかるように太平洋戦争に突入した昭和17年、日独両国の関係強化のためその行き来の手段とし採用された潜水艦の物語。

陸地はもちろん、制空権も限られた中、日本とドイツの道は海の下しか無かった。太平洋からインド洋、そしてアフリカの南を通り、大西洋へ。敵の襲来と海流の恐怖。病気や深海での厳しい生活の様子も。往復に4ヶ月の行程、滞在時間も換算すると204日もかかった。ましてや国際的にも戦局は悪化の一途をたどる中の出来事である。19年には英米軍のフランスノルマンディー上陸、米軍のサイパン上陸と日独を取り巻く状況はますます悪化してくる。

ドイツに向かった5つの潜水艦のうち、1隻が往復。ドイツからの潜水艦も2隻の内1隻が到達できた。

吉村の綿密な資料分析がそこに生きる人々の生き様を映し出す。終戦時の欧州在住の日本人の動向、終戦後の潜水艦の末路がむなしさを誘う。

大黒屋光太夫 吉村 昭 45

2010-11-14 | 吉村 昭
昨日からアジア太平洋経済協力会議(APEC)が、横浜で始まった。尖閣諸島の中国と北方4島のロシア。日本をめぐる諸外国の動向は、東洋の隅にあるこの国が、パワーバランスの中にあることを思い知らされる。

吉村は7編の漂流物といわれる江戸時代に起きた漂流事件を取り上げた。
江戸時代に起きたロシアへの漂流物が「大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)」である。平成17年〈2005〉3月刊行。

天明2年(1782)12月、32歳の沖船頭の大黒屋光太夫を含め、17名の乗った回米船は、伊勢の白子浦を出航した。
途中大しけに遭い、7ヶ月、漂流する。このシーンも壮絶であるが、その後、漂着したカムチャッカ半島の東に浮かぶ、アリューシャン列島のアムチトカ島での原住民やラッコ商人との生活も凄まじい。
さらに、船を作り、到着する。その間、漂流中に1人、島で7人が死を迎える。
体験したことのない寒さと食生活は、これまで温暖な日本の地で過ごしてきた者たちには、まさに死への試練であった。

さらにカムチャッカ半島で3人が死に。残りの6名がオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクへの旅へ。しかし、ロシア本土に着いても寒さは押し寄せる。
イルクーツクでまた1人が死を迎えるが、さらにむごいのは、日本に帰れる望みが絶たれることであった。

当時ロシアは、温暖な日本に注目し、さまざまな情報を手に入れようとしていた。その情報源の一つが漂流してきた日本人であった。

光太夫らも、その2世たちと面会する。日本語を学ばせるべく日本語教師となった漂流者たち。帰国は許されず、埋葬してもらうために、キリスト教徒となり、また、ロシア人の妻と結婚し、生計を営んだ多くの人々がいた。

残った5人のうち、2人がその選択肢を選ぶ。しかし、光太夫は、ロシアの友人の手助けにより、女帝エカテリーナと面会の機会を得、3人が日本への帰国を現実のものとする。それが現実になったのは漂流から10年経った寛政4年(1792)のことであった。

しかし、この蝦夷の地で1人が死亡。日本へ帰った光太夫ら2人は江戸へ留め置かれ、故郷へ帰れたのは52歳、漂流から20年後の享和2年(1802)であった。

異なる気候風土に投げ出され、政治に翻弄された光太夫たち17名の人生。肉体的にも精神的にも、極限の中で、ある者は死を、ある者は生活を選ぶ。それにしても20年は長い。人間はもろく、弱く、しかし強い。


プリズンの満月 吉村 昭 44

2010-08-29 | 吉村 昭
吉村昭の「プリズンの満月」は、平成7年(1995)6月発行である。

敗戦後にA・B・C級戦犯を収容していた巣鴨(東池袋)にあった、巣鴨プリズンを舞台にした小説。刑務官の鶴岡の目から見た施設の様子を通し、戦後の歴史の一ページを垣間見る。

20歳で刑務官になり、40年勤め上げ、60歳で定年を迎えた鶴岡は悠々自適の生活を妻、紀代子とともに日々送っていた。そこに一通の手紙が舞い込む、かつての上司が、建築現場の責任者に頼みたいと言ってきた。その現場とは、かつて鶴岡が勤務していた巣鴨プリズンの跡地に建築中の地上60階、地下3階の高層ビルであった。

刑務所・拘置所としての機能を持っていた施設は、敗戦後の昭和20年(1945)11月、GHQに接収される。

鶴岡は、朝鮮戦争の激化とともに巣鴨に日本人の刑務官を配置することになり、昭和25年に熊本の刑務所から配転される。巣鴨では戦犯が1,600名も収容され、60人が処刑されたという。戦勝国が敗戦国を裁くという特異な状態の中で、日本人が日本人を監視するという役目を担うことの苦痛と、管轄していた米兵との軋轢も。

昭和27年、9月に連合国と日本の間の平和条約が締結される背景とともに、昭和27年には運営が日本に移管される。その間、歌手や落語家など芸能や、大相撲の慰問や、後楽園球場でのプロ野球観戦なども行われていたという。

吉村はそのあとがきで、「時間の経過によって物事はよく見えてくるというが、この小説を執筆しながら私もその観を深くした。巣鴨プリズンが刑務所としての姿を急速に失っていったことに戦犯というものの問題を解く鍵があると思っている」と。

昭和33年(1958)に巣鴨プリズンはGHQから変換され、東京拘置所となった。昭和48年(1973)~昭和53年(1978)に建設された池袋サンシャインシティが今、その地に建つ。

陸奥爆沈 吉村 昭 43

2010-08-22 | 吉村 昭
昭和18年(1943)6月8日、戦局が深刻化していた頃、正午過ぎに日本が世界に誇る戦艦「陸奥」(39,050トン、全長225m、全幅30m)が呉近くの瀬戸内海で爆沈する。乗組員1,474名のうち1,121名が死亡するという大惨事が出来する。時の軍は機密事項として対応し、原因究明にあたる。吉村はある取材でこの事実を知り、丹念に粘り強く、資料収集、取材を始める。

「陸奥爆沈」は、「戦艦武蔵」(昭和41年・1966)と並び称される戦史文学の傑作である。昭和45年(1970)5月刊行。

その原因は潜水艦による雷撃か。調査を進めると、昭和においていくつか起きた軍艦の爆発事件に人為的な原因があることを突き止める。果たして陸奥は・・・。

吉村は「私が戦争を書く理由は、自分を含めた人間というものの奇怪さを考えたからにほかならない。350万人の生命を死に追いやった悲惨事は、この島国にはなかった。たまたまその時代に接触し生きた私は自分なりの眼でその事実を見つめ直してみたいともう」と。
しかし一方で、「だが、私は最近多分に悲観的になっている。それは、とかく過去を美化しがちな人間の本質的な性格に災いされているからで、あの戦争も郷愁に似たものとして回顧される傾きが強い」とも。