雨が止んで西の空にまだ高く太陽が、少し顔を出してこの光りから虹も見えそうな、そうゆう状態のお天気で、雨が止むか、雲りになるかまた雨になるか、誰もわからない。きょうはこれからも雨は降りそうな気がする。せっせと雨も降ってくれて、と書きたいところだが大雨で災害にあわれている、そうゆう地域の方も、おられるわけで、なかなか雨一つのこともどう表現するか、むつかしい。
雨で、気温は比較的低めというのは、これはありそうで、きょねんの値というのも、5年日記の真ん中の年だから、きょねんもわかるし、一昨年もだが、明らかに朝の室温は、きょねんが高く、27℃とか28℃とか、そうゆう値で埋められて、24℃というのは、あまりない。それでも、この気温で湿度が90%以上あると、動くと暑いのはいつものことでわかっているけれど、しかし朝の気温なり、朝の室温は、きょねんよりは、2℃から4℃くらい低いようである。それでそれなりの汗が出て、それなりにムシムシもするというと、メタボがかっている、このことの証明をやっているようで、たしかに滅多に扇風機なども動かさない、そう決めている自分だけど。積極的に、この回転するプロペラを使う、風鈴はなく、それに似ている擬似電子音でドッキリすることも増えて、この寒さが風鈴の代わりをしてくれる、そうゆう風にも考えられる。
それにしてもTVの方がはっきりするが、あの音というのは昼でも夜で朝でも、やはり耳に響くからかよく使われる。それで疲弊するから、TVは消音するということにもなる。その逆はいりそうで、しかしラジオで代替も出来そうで、出来ない。
雨続きで、朝も今頃は、少し冷える?。夜の鬱陶しいジメジメがない。いいようなで、雨続きで、嬉しくもない。
少し前、それはたしか先週の土曜か、その翌日の日曜で、いやそれも違うかも知れない。きのうの午後の晴れ間かも知れないが、それはたしか遅い時刻だったから、やはり日曜か、晴れ間の出たときがある。木洩れ日の様子など、日ごろ考えもしない。何も考えないで、木々の枝の様子など見ることもある。雨で、枝垂れカエデにもなるものがって、これが邪魔にもなる。こんな言葉が出るから不思議だが、そうゆう枝垂れものもちょん切らないと、いけないと思えるときもある。
そうゆうものは、雨のときに枝垂れ、晴れると元に戻る。背か小さくて、届かない。雨のときの、枝葉切りは「はねっ返り」がある。木だってただでは切らしてくれない。申しわけない、と思いつつ、その木も切ることもある。なんでもそうだが、大体植物だって、ほとんど食べるし、虫はどうかわからないが、蜂蜜がある。虫がいないと、サクランボの実もならない。大好きなトマトだって、虫が花粉を運ぶから、なる。ありがたやと思いつつ、最後にトマトを食べるのは自分で、トマトはどう思っているか。
少し、話しがハチャメチャになってきた。それで、木漏れ日で日ごろ気にしないことがほとんどで、逆に木の隙間からこぼれ落ちる太陽光の危険性というものも、つい最近に知ったようだ。わずかな太陽の光も、強烈である。これはまーこれまでの体験でよくわかるが、気にするのは紫外線で、これももちろん恐ろしいものの一つで、それでも昔は、栄養の問題もあった。しかし今は違う。
あとは、コタツで馴染みの深い、これも人の目に見えない赤外線がある。可視光よりは、波長が長い領域で目には無論見えない。これが目を悪くするという、網膜はく離ということにもなるという。ここまでくると、これまであまり気にしないでやっていた、太陽のある風景、ヒマワリと太陽など、あまりお薦めできない被写体ということになりはしないか。私もよく、日没の光景などを見ることもある。反対の、日の出は今はあまりない。早過ぎる。それでも、太陽のある光景を見ることは多い。極力、太陽光を避けるようにしながら、これからはやっていかないといけない。また思いを新たにする。
長く、雨が続くからか、秋の菊のような花も咲く。
間の抜けた、気の抜けた感じのものもたくさんある。
木漏れ日。
なるべく、いやほとんど太陽を直接入れない、そう思いつつ、木漏れ日観察。
同じように、カエデの枝が幾重にも重なっている、そうゆうところを見る。
ときどきそれでもチラチラ、太陽光の破片が入ってくる。
上の枝で出来た、そうゆう木漏れ日が、次の枝葉で木漏れ日のスポットを
作る。これは自然と出来るものだが、思いも及ばなかった。
より大きな葉っぱの、この木漏れ日が同じように大きな葉っぱを照らす。
木漏れ日の明るさに注意もしつつ、木漏れ日の大きさとか、その切れ味の
いいものを探す。ときすでに遅しという感じでもあるが。
雨で、気温は比較的低めというのは、これはありそうで、きょねんの値というのも、5年日記の真ん中の年だから、きょねんもわかるし、一昨年もだが、明らかに朝の室温は、きょねんが高く、27℃とか28℃とか、そうゆう値で埋められて、24℃というのは、あまりない。それでも、この気温で湿度が90%以上あると、動くと暑いのはいつものことでわかっているけれど、しかし朝の気温なり、朝の室温は、きょねんよりは、2℃から4℃くらい低いようである。それでそれなりの汗が出て、それなりにムシムシもするというと、メタボがかっている、このことの証明をやっているようで、たしかに滅多に扇風機なども動かさない、そう決めている自分だけど。積極的に、この回転するプロペラを使う、風鈴はなく、それに似ている擬似電子音でドッキリすることも増えて、この寒さが風鈴の代わりをしてくれる、そうゆう風にも考えられる。
それにしてもTVの方がはっきりするが、あの音というのは昼でも夜で朝でも、やはり耳に響くからかよく使われる。それで疲弊するから、TVは消音するということにもなる。その逆はいりそうで、しかしラジオで代替も出来そうで、出来ない。
雨続きで、朝も今頃は、少し冷える?。夜の鬱陶しいジメジメがない。いいようなで、雨続きで、嬉しくもない。
少し前、それはたしか先週の土曜か、その翌日の日曜で、いやそれも違うかも知れない。きのうの午後の晴れ間かも知れないが、それはたしか遅い時刻だったから、やはり日曜か、晴れ間の出たときがある。木洩れ日の様子など、日ごろ考えもしない。何も考えないで、木々の枝の様子など見ることもある。雨で、枝垂れカエデにもなるものがって、これが邪魔にもなる。こんな言葉が出るから不思議だが、そうゆう枝垂れものもちょん切らないと、いけないと思えるときもある。
そうゆうものは、雨のときに枝垂れ、晴れると元に戻る。背か小さくて、届かない。雨のときの、枝葉切りは「はねっ返り」がある。木だってただでは切らしてくれない。申しわけない、と思いつつ、その木も切ることもある。なんでもそうだが、大体植物だって、ほとんど食べるし、虫はどうかわからないが、蜂蜜がある。虫がいないと、サクランボの実もならない。大好きなトマトだって、虫が花粉を運ぶから、なる。ありがたやと思いつつ、最後にトマトを食べるのは自分で、トマトはどう思っているか。
少し、話しがハチャメチャになってきた。それで、木漏れ日で日ごろ気にしないことがほとんどで、逆に木の隙間からこぼれ落ちる太陽光の危険性というものも、つい最近に知ったようだ。わずかな太陽の光も、強烈である。これはまーこれまでの体験でよくわかるが、気にするのは紫外線で、これももちろん恐ろしいものの一つで、それでも昔は、栄養の問題もあった。しかし今は違う。
あとは、コタツで馴染みの深い、これも人の目に見えない赤外線がある。可視光よりは、波長が長い領域で目には無論見えない。これが目を悪くするという、網膜はく離ということにもなるという。ここまでくると、これまであまり気にしないでやっていた、太陽のある風景、ヒマワリと太陽など、あまりお薦めできない被写体ということになりはしないか。私もよく、日没の光景などを見ることもある。反対の、日の出は今はあまりない。早過ぎる。それでも、太陽のある光景を見ることは多い。極力、太陽光を避けるようにしながら、これからはやっていかないといけない。また思いを新たにする。
長く、雨が続くからか、秋の菊のような花も咲く。
間の抜けた、気の抜けた感じのものもたくさんある。
木漏れ日。
なるべく、いやほとんど太陽を直接入れない、そう思いつつ、木漏れ日観察。
同じように、カエデの枝が幾重にも重なっている、そうゆうところを見る。
ときどきそれでもチラチラ、太陽光の破片が入ってくる。
上の枝で出来た、そうゆう木漏れ日が、次の枝葉で木漏れ日のスポットを
作る。これは自然と出来るものだが、思いも及ばなかった。
より大きな葉っぱの、この木漏れ日が同じように大きな葉っぱを照らす。
木漏れ日の明るさに注意もしつつ、木漏れ日の大きさとか、その切れ味の
いいものを探す。ときすでに遅しという感じでもあるが。