生のものが腐るという、そうゆう時間になって、久しい。悲しいかな、そうゆうものを食べて生きているので、これが腐るとよろしくなく、泣く泣く処分をする。どうゆう風にするかというと、なかなか詳しくは書けない。そのまま土に帰るものは、ポイ捨てみたいなことをやる。それからそれ以外だと生ゴミとして出さざるを得ない。
この点でいうと、例えば床の上の綿ゴミというものは、これは腐るというか、微生物によって、より細かいもの、よりエネルギの小さなものに分解されるということは、なかなかない。ほぼない。最近は、綿100%などという、タグというかロゴを見ることもあまりないけれど、どうゆうわけか綿でも、綿ゴミでも、特に異臭もせず、そこにあっても問題は起こしそうでなく、安心している。何が違うのか、考えてみるが、それもあまり意味はない。
いつもゴミとともに生活をしていると言っていいくらい、不要のものと一緒にいる。歴史とかはある。しかし、ゴミに、綿ぼこりとかにそれはない。ないが、本などとは、綿ゴミは非常に仲がよく、もともと似たもので出来ているからかと思うが、このゴミをかぶる本というのはなかなか曲者で、もう読まれないままそこに眠るしかない。そうゆう運命にある。古本とかに出すのも大変で、まー売れないと思う。
何度か引越しをして、いい本だったというものを捨てた。こうゆうことがあると、ものもなかなか捨てがたくなり、最後には開き直って、そこに病原菌はいないなど、考えたりもする。それ以外のじゃまなゴミというのも、昔は仲良しだった。これを捨てるなんて。出来っこない。いくつか自分を擁護する、そうゆう考えもすでに成熟している。
しかし問題は、食べ物、小さな冷蔵庫は、あるものでいっぱいであって、それもいっぱいでありながら、さほど変化なく、時間が過ぎた。少し大きなものに変えたのは、これは2005年である。ちゃんと、そのときのレシートとか、それに説明書とかが残っていて、それを見ると、大して時間はたっていないこともわかって、なんだか奇妙である。もっと昔のはずだが、違う。いってみるとつい最近でもある。
食べ物が減らない。たしかになー、体重は増えるが、それと冷蔵庫の中身とはまた違うし、また体重も減らないどころか増えているようで、また冷蔵庫も減るものは減る、しかし減らないものは減らない。これが冷蔵庫だ、という感じだがいくらかんばっても、病気とかになると自分が困る。
それでである。ついに、もう冷蔵庫はもの置き場にしない、という決断をしたというと大袈裟で、いかんせん入ったままのものもありすぎて、この限定された空間の中の、もう食べないというものを捨てることにした。なんという変わりようか。
まずはすぐに、汚くて申し訳ないが、目で見てカビが生えているというものをパックごと取り出す。なぜか、納豆などあるが、もう理由も要らない。賞味期限を半年も過ぎている。他にだと、飲まないもらいものの紅茶みたいなもの、だろう、それから、だんだんと見た目はきれいだが、パック入りでも完全密封タイプのもの。こんなものは、酸素さえ遮断されていれば、缶詰と同じで、まずはいつ食べても大丈夫だと思うが、食べないのである。目で買ってるようだ。
こうしていくつかの、書かないものもある、そうゆうものを捨てるなり、ゴミ袋に入れることは終わった。すると、少し冷蔵庫の中は、明るくなり、しかし、なんかベタベタしている。原因はほぼわかっていて、それが危険でもなさそうで、もし近くの薬局かで、無水のエタノールくらいあれば、いくらするかってそんなに高くはないだろう、もう少しきれいにという気もするが、そこで一応は、きのうは止めた。だからきょうは疲れているのか。
これ以外に、野菜がある、この足の早さはどうだろうか。使わない野菜も買ってくることがある。あー食べないのに何で、それはもういいが、ときに季節というか、滅多にないが、これ食べて頂戴とか、ありがたく葱とかインゲンとかももらう。でもなかなか、これも食べきれずである。野菜というのも足の早いものは早すぎて、それこそ買ったその日に使うくらいの気でないといけないようだ。
こんなこともあまり考えなかったけれど。いろいろ時代は、時間は前へしか進まず、これまでどうにかなっていたものが、どうしようもなくなってしまう。しばらく買わないと当然食べるものはなくなる。しかし買い出すと溜まるようで、この調節も、自分でもうまくゆかないと思うものは多い。
で、これからは冷蔵庫の中だけでもきれいにしてと思うけれど、それにしても冬が懐かしいというか、冬はもう少し楽だったなど今も思うから、この先もまた「溜まった」ということになるという予感はある。
汚い話しで申し訳ありません、愚痴でした。
きのうは雨の後だからか、あるところ木々の小さな花などに、アブか蜂かというものがブンブンいいながら、止まって蜜を吸っている光景がある。
天敵というと、ニジュウヤホシテントウ!。このテントウも、少し大きく、よく動いて、またそれが他にもいてという状態。ナスもこれではいけない。
マメコガネ。も、同じような虫で、なんでも食べる。
よくわからない、新しい花が出ている。何かが咲くのだろう。
様子が変わって、コスモスの花も、早いものは早いが、普通だと思えるものにも、花が少々。この絵だと、もう夏も終りな感がある。
秋ではないが、寂しいような気持ちにもなれる。
コンクリートのその上の咲く、ヒメジョオンは決まって美しく、
しばらくの間、ヒメヒオウギズイセンはあちこちで見られることになる。
この点でいうと、例えば床の上の綿ゴミというものは、これは腐るというか、微生物によって、より細かいもの、よりエネルギの小さなものに分解されるということは、なかなかない。ほぼない。最近は、綿100%などという、タグというかロゴを見ることもあまりないけれど、どうゆうわけか綿でも、綿ゴミでも、特に異臭もせず、そこにあっても問題は起こしそうでなく、安心している。何が違うのか、考えてみるが、それもあまり意味はない。
いつもゴミとともに生活をしていると言っていいくらい、不要のものと一緒にいる。歴史とかはある。しかし、ゴミに、綿ぼこりとかにそれはない。ないが、本などとは、綿ゴミは非常に仲がよく、もともと似たもので出来ているからかと思うが、このゴミをかぶる本というのはなかなか曲者で、もう読まれないままそこに眠るしかない。そうゆう運命にある。古本とかに出すのも大変で、まー売れないと思う。
何度か引越しをして、いい本だったというものを捨てた。こうゆうことがあると、ものもなかなか捨てがたくなり、最後には開き直って、そこに病原菌はいないなど、考えたりもする。それ以外のじゃまなゴミというのも、昔は仲良しだった。これを捨てるなんて。出来っこない。いくつか自分を擁護する、そうゆう考えもすでに成熟している。
しかし問題は、食べ物、小さな冷蔵庫は、あるものでいっぱいであって、それもいっぱいでありながら、さほど変化なく、時間が過ぎた。少し大きなものに変えたのは、これは2005年である。ちゃんと、そのときのレシートとか、それに説明書とかが残っていて、それを見ると、大して時間はたっていないこともわかって、なんだか奇妙である。もっと昔のはずだが、違う。いってみるとつい最近でもある。
食べ物が減らない。たしかになー、体重は増えるが、それと冷蔵庫の中身とはまた違うし、また体重も減らないどころか増えているようで、また冷蔵庫も減るものは減る、しかし減らないものは減らない。これが冷蔵庫だ、という感じだがいくらかんばっても、病気とかになると自分が困る。
それでである。ついに、もう冷蔵庫はもの置き場にしない、という決断をしたというと大袈裟で、いかんせん入ったままのものもありすぎて、この限定された空間の中の、もう食べないというものを捨てることにした。なんという変わりようか。
まずはすぐに、汚くて申し訳ないが、目で見てカビが生えているというものをパックごと取り出す。なぜか、納豆などあるが、もう理由も要らない。賞味期限を半年も過ぎている。他にだと、飲まないもらいものの紅茶みたいなもの、だろう、それから、だんだんと見た目はきれいだが、パック入りでも完全密封タイプのもの。こんなものは、酸素さえ遮断されていれば、缶詰と同じで、まずはいつ食べても大丈夫だと思うが、食べないのである。目で買ってるようだ。
こうしていくつかの、書かないものもある、そうゆうものを捨てるなり、ゴミ袋に入れることは終わった。すると、少し冷蔵庫の中は、明るくなり、しかし、なんかベタベタしている。原因はほぼわかっていて、それが危険でもなさそうで、もし近くの薬局かで、無水のエタノールくらいあれば、いくらするかってそんなに高くはないだろう、もう少しきれいにという気もするが、そこで一応は、きのうは止めた。だからきょうは疲れているのか。
これ以外に、野菜がある、この足の早さはどうだろうか。使わない野菜も買ってくることがある。あー食べないのに何で、それはもういいが、ときに季節というか、滅多にないが、これ食べて頂戴とか、ありがたく葱とかインゲンとかももらう。でもなかなか、これも食べきれずである。野菜というのも足の早いものは早すぎて、それこそ買ったその日に使うくらいの気でないといけないようだ。
こんなこともあまり考えなかったけれど。いろいろ時代は、時間は前へしか進まず、これまでどうにかなっていたものが、どうしようもなくなってしまう。しばらく買わないと当然食べるものはなくなる。しかし買い出すと溜まるようで、この調節も、自分でもうまくゆかないと思うものは多い。
で、これからは冷蔵庫の中だけでもきれいにしてと思うけれど、それにしても冬が懐かしいというか、冬はもう少し楽だったなど今も思うから、この先もまた「溜まった」ということになるという予感はある。
汚い話しで申し訳ありません、愚痴でした。
きのうは雨の後だからか、あるところ木々の小さな花などに、アブか蜂かというものがブンブンいいながら、止まって蜜を吸っている光景がある。
天敵というと、ニジュウヤホシテントウ!。このテントウも、少し大きく、よく動いて、またそれが他にもいてという状態。ナスもこれではいけない。
マメコガネ。も、同じような虫で、なんでも食べる。
よくわからない、新しい花が出ている。何かが咲くのだろう。
様子が変わって、コスモスの花も、早いものは早いが、普通だと思えるものにも、花が少々。この絵だと、もう夏も終りな感がある。
秋ではないが、寂しいような気持ちにもなれる。
コンクリートのその上の咲く、ヒメジョオンは決まって美しく、
しばらくの間、ヒメヒオウギズイセンはあちこちで見られることになる。