腹の虫は、わかりやすい。自分は自分自身に、それを感じる。こんなはずではなかった。虫の音というのは、虫の鳴き声のようで、虫の息が息絶え絶えであった。虫の知らせは、ない。腹の虫のおさまらぬというように使うのがいいようだが、そう細かいことは今はわからない。
腹の中に虫、考えられないこともないが、あれが虫かというのはある。そんなものは、もういないことになっているが、それがあると免疫力が上がるとか、うわさというか、ものの本の紹介というか、その他で聞いたことがあるようだが、免疫と関係があったか、よくはわからない。またよく、生き物の免疫と関係なく比喩的にもこの言葉は使われるようで、そうゆう風に考えると、永久に免疫にはならないものがありそうで、簡単なことだと「死への恐怖」というものだろう。これは免疫にはならず、また免疫になる必要もない。理屈ではそうなる。しかしやっぱり人は死を考える。考えることが出来ないことを考える。止めた方がいい、自分でもわかっているが、その恐怖というのはある。ときに増幅もされる。これは逆に生きている証左で、また生きたいという強い希望もあることを示している。これに気が付かず、しょうもないことに悩んだりもする。
が、これが「ばか」に出来ないのも事実で、難解で、解決策もないが、時代時代に、それなりの安寧への考えかたというものも考えられてきて、そっちの方が今の時代のそれよりもよかったりもする。昔というと、きっと人生は短かった。それゆえ、救いを求めるのも当然だった。きっとそうだろうな。少し出っ張ったお腹をどうしたら、へこませることが出来るか、考えると方法はなく、で、お腹を緊張させる運動というのも、いくつもあるようで、簡単なのはラジオ体操だろう。一人ラジオ体操は、悲しい。ときにラジオから、第一の音楽が流れたというときが、そう遠くない昔にあった。この理由はしかし思い出せない。
のども大切だが、体の柔軟性も大切で、しかしその運動とか言うもの、あるいはストレッチ。これ、やらなくなった。もう少し前だと、今に比べるとやっていた。足のアキレス腱側を延ばす。前に体重をかける。足を後の方向高くまであげる。そうゆう風なこともやっていたようだが、最近はまったくといっていいほどやらない。そうゆうものはどこかへいってしまった。それでは、足腰も弱るのは当たり前かも知れない。
問題の一つはお腹の出っ張り。これは笑えない。そうはいかなくなってくる。今は夏、そうじろじろ見る人もいないと思うけど、これはもういないに等しいが、しかしたまに、大きなガラスとかに映る自分の姿を見る。あー、ため息も出ないとなる。これは昔からあった。一体なんでこんなことになってしまった。ため息も出ない今は、呆れるだけ。腹の虫か。そういえば、脂肪も、脂質ともいうが、これも溜まったが、腹の虫のおさまらないものも、溜まったようで、これももしかしたら本当かも知れない。いろいろ気になることも多い。気にしないでいられないことも多いもので、それが自分以外のものでそうなる、という場合と、自分が原因でそうなる、というものも考えられる。
先ほどから、大きな雨粒が落ちてきて、あわてて窓を閉めたりもした。調子が狂うものも増える。これの一つに自然災害も入れていいようだが、そうゆうひどい目というのも、まる4年前かの大きな台風以外は、地震ではびっくりしたが、それを除くと、まー平穏である。お腹の脂質は溜まる一方で、お腹を引き締めるゆるい運動というのも、きのうから始めた。この辺りが笑えるところ。ゆるい運動を長く続けるのが負荷もひどくなく、いいようだ、というのは本当の気がする。これだけは続けてみようと思う。ゆっくり緊張、持続する、休んでもう一回。おしまい。
虫の音というと、最近は聞かない。虫の鳴き声というと、これにセミがある。虫の音というと秋鳴く虫というイメージが強く、早いもので春ゼミもあるという、そういうセミの鳴き声は虫の音かというのは、ちょっとわからない。りりリーン、とかいうと虫の音。また風鈴もいい音色を出す。これはしかし、ここにはない。昔はあったようだが、気がきかないのか風情もないのか、風鈴はない。
音色というのも人の耳で聞こえないといけない。また人の一般に聞こえるとされる、波長の範囲も大体決まっていて、これはよかった。だから、夜に飛ぶ、コウモリなどの鳴き声も聞こえる?けれど、彼らがその方向を探るとか、ものがあるかどうかの判断に使う超音波というのは、人には聞こえない。あーよかった、このようなものが聞こえるとなると、騒がしい、あるいは寝苦しい夏の夜も大変になってくる。今どきの話題というのは、若い人に聞こえる、ある波長の音波らしい。そんなものは聞こえなくていい。
セミの鳴き声は今はないが、もうセミの鳴き声も何度か聞いている。これはいいのか悪いのか、たまにアブラゼミ以外のものが混じるといいようなで、アブラゼミだけとなると、うるさいと思うかも知れない。これと腹の虫は関係があるか。多分ないのではないか。
きょうは暑く、汗だく。
夏のバラ。真っ赤なバラが目に入ってくる。バラもいろいろで、どう見てもどの辺りに合焦しているのか不明。
まーこれだけよく赤くなれるものだ、と感心することしきり。
淡い紅色の、アジサイの装飾花はそっくり返って、そうしてこの色を強くしてゆく。
空気の色が水色になるそうゆう露光時間があって、これはいいと自分で思っている。
アジサイのトンボも、これで最後。
翅を休めるシジミチョウ。このチョウは以外とおとなしく、しばらくの間じっとしていた。よくいる、ルリシジミか、ヤマトシジミかというところ。
明るすぎて、ファイルの色ではどちらか不明。しかし肉眼だと、ルリシジミ。
腹の中に虫、考えられないこともないが、あれが虫かというのはある。そんなものは、もういないことになっているが、それがあると免疫力が上がるとか、うわさというか、ものの本の紹介というか、その他で聞いたことがあるようだが、免疫と関係があったか、よくはわからない。またよく、生き物の免疫と関係なく比喩的にもこの言葉は使われるようで、そうゆう風に考えると、永久に免疫にはならないものがありそうで、簡単なことだと「死への恐怖」というものだろう。これは免疫にはならず、また免疫になる必要もない。理屈ではそうなる。しかしやっぱり人は死を考える。考えることが出来ないことを考える。止めた方がいい、自分でもわかっているが、その恐怖というのはある。ときに増幅もされる。これは逆に生きている証左で、また生きたいという強い希望もあることを示している。これに気が付かず、しょうもないことに悩んだりもする。
が、これが「ばか」に出来ないのも事実で、難解で、解決策もないが、時代時代に、それなりの安寧への考えかたというものも考えられてきて、そっちの方が今の時代のそれよりもよかったりもする。昔というと、きっと人生は短かった。それゆえ、救いを求めるのも当然だった。きっとそうだろうな。少し出っ張ったお腹をどうしたら、へこませることが出来るか、考えると方法はなく、で、お腹を緊張させる運動というのも、いくつもあるようで、簡単なのはラジオ体操だろう。一人ラジオ体操は、悲しい。ときにラジオから、第一の音楽が流れたというときが、そう遠くない昔にあった。この理由はしかし思い出せない。
のども大切だが、体の柔軟性も大切で、しかしその運動とか言うもの、あるいはストレッチ。これ、やらなくなった。もう少し前だと、今に比べるとやっていた。足のアキレス腱側を延ばす。前に体重をかける。足を後の方向高くまであげる。そうゆう風なこともやっていたようだが、最近はまったくといっていいほどやらない。そうゆうものはどこかへいってしまった。それでは、足腰も弱るのは当たり前かも知れない。
問題の一つはお腹の出っ張り。これは笑えない。そうはいかなくなってくる。今は夏、そうじろじろ見る人もいないと思うけど、これはもういないに等しいが、しかしたまに、大きなガラスとかに映る自分の姿を見る。あー、ため息も出ないとなる。これは昔からあった。一体なんでこんなことになってしまった。ため息も出ない今は、呆れるだけ。腹の虫か。そういえば、脂肪も、脂質ともいうが、これも溜まったが、腹の虫のおさまらないものも、溜まったようで、これももしかしたら本当かも知れない。いろいろ気になることも多い。気にしないでいられないことも多いもので、それが自分以外のものでそうなる、という場合と、自分が原因でそうなる、というものも考えられる。
先ほどから、大きな雨粒が落ちてきて、あわてて窓を閉めたりもした。調子が狂うものも増える。これの一つに自然災害も入れていいようだが、そうゆうひどい目というのも、まる4年前かの大きな台風以外は、地震ではびっくりしたが、それを除くと、まー平穏である。お腹の脂質は溜まる一方で、お腹を引き締めるゆるい運動というのも、きのうから始めた。この辺りが笑えるところ。ゆるい運動を長く続けるのが負荷もひどくなく、いいようだ、というのは本当の気がする。これだけは続けてみようと思う。ゆっくり緊張、持続する、休んでもう一回。おしまい。
虫の音というと、最近は聞かない。虫の鳴き声というと、これにセミがある。虫の音というと秋鳴く虫というイメージが強く、早いもので春ゼミもあるという、そういうセミの鳴き声は虫の音かというのは、ちょっとわからない。りりリーン、とかいうと虫の音。また風鈴もいい音色を出す。これはしかし、ここにはない。昔はあったようだが、気がきかないのか風情もないのか、風鈴はない。
音色というのも人の耳で聞こえないといけない。また人の一般に聞こえるとされる、波長の範囲も大体決まっていて、これはよかった。だから、夜に飛ぶ、コウモリなどの鳴き声も聞こえる?けれど、彼らがその方向を探るとか、ものがあるかどうかの判断に使う超音波というのは、人には聞こえない。あーよかった、このようなものが聞こえるとなると、騒がしい、あるいは寝苦しい夏の夜も大変になってくる。今どきの話題というのは、若い人に聞こえる、ある波長の音波らしい。そんなものは聞こえなくていい。
セミの鳴き声は今はないが、もうセミの鳴き声も何度か聞いている。これはいいのか悪いのか、たまにアブラゼミ以外のものが混じるといいようなで、アブラゼミだけとなると、うるさいと思うかも知れない。これと腹の虫は関係があるか。多分ないのではないか。
きょうは暑く、汗だく。
夏のバラ。真っ赤なバラが目に入ってくる。バラもいろいろで、どう見てもどの辺りに合焦しているのか不明。
まーこれだけよく赤くなれるものだ、と感心することしきり。
淡い紅色の、アジサイの装飾花はそっくり返って、そうしてこの色を強くしてゆく。
空気の色が水色になるそうゆう露光時間があって、これはいいと自分で思っている。
アジサイのトンボも、これで最後。
翅を休めるシジミチョウ。このチョウは以外とおとなしく、しばらくの間じっとしていた。よくいる、ルリシジミか、ヤマトシジミかというところ。
明るすぎて、ファイルの色ではどちらか不明。しかし肉眼だと、ルリシジミ。