ぶらぶら人生

心の呟き

秋の気配 4 (国道の女郎花)

2007-07-19 | 散歩道

 女郎花も咲き始めた。勿論、秋の七草の一つである。だが、撫子のように多くは咲いていない。萩の花もまだ数が少なく、互いに出番を待ちつつ、控え目に咲いていた。(写真)
 自然の姿には、昨日に等しい今日はなく、刻々と変化する様がよく分かる。
 人間もまた同じことなのだろう。ただ、若返りが不可能だとの自覚はあるけれど、日々の衰えは目に見えにくい。それをいいことに、のうのうと暮らしている。が、すべてを見通す神様の目からすれば、さぞ滑稽至極なことだろうなあ。

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秋の気配 3 (国道の撫子)

2007-07-19 | 散歩道
 久しぶりに国道を散歩して、撫子の花がたくさん咲いているのに驚いた。一つ二つではなく、群れて咲いているのだ。(写真)
 これから猛暑に入ろうというのに、ちょっと気が早すぎるのではあるまいか。
 わが家の裏の崖にも、先日来、撫子の数が増えている。
 秋の気配の立ち込める空気にこそ、撫子は似合う花のように思うのだけれど。
 
 今、山上憶良の歌を諳んじようと試みたが、なめらかに出てこない。そこで、また本を開いて確かめた。昨年のブログにも書いたというのに……。

   秋の野の花を詠む二首(山上憶良)

 秋の野に咲きたる花を指(および)折り
           かき数ふれば七種(ななくさ)の花
 萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花
           女郎花また藤袴朝顔の花

 (注 朝顔の花が何をさすかについては諸説があった。が、現在は桔梗説が有力とされる。)        
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秋の気配 2 (大きな萱)

2007-07-19 | 散歩道
 海辺の近くに、大きな集団を作って生い茂る萱の類がある。あちらにもこちらにも、といった感じで、目にすることができる。萱にもそれぞれ名前があるのだろうけれど、私はその名を知らない。ただ、穂の姿が美しく、見とれてしまう。他の萱に先駆けて、高々と穂を風になびかせる姿がいい。(写真)
 ふと、秋の気配を感じた。萱の穂の色や形が、秋を潜ませているように思えた。
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秋の気配 1 (ススキの穂)

2007-07-19 | 散歩道
 家を出て国道を歩き始めたところに、大きな萱のひと塊があり、穂を出していた。
 こういう瞬間もあるのかと、小さな感動を覚えながら足を止めた。というのは、萱の穂先が、まるで、毛筆の穂先を糊で固めた状態になっているのだ。(写真)
 すでに先端の部分がほどけて、ばらばらの穂になったものもある。その状態を、ごく当たり前の姿だと思い込んでいた。

 初めて見る穂先の姿が、すべてのことには、プロセスがあるのだということを思い出させた。穂が、一度にほどけるのではないという事実!
 その寸前の姿が見られたのは、今朝サボらずに散歩に出かけたおかげであった。明日の朝には、大方の穂先がばらばらにほどけ、いつもの見なれた姿に変わっていることだろう。
 草木の変化するテンポは、実に速いのだから……。
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純白の木槿

2007-07-19 | 散歩道
 純白の木蓮が、早朝のさわやかさに和して、清楚に咲いていた。(写真)
 海に向かって下る坂道に……。前回歩いたときには、花が咲いていなかった。かなり散歩の空白があったということだろう。
 花の、汚れのない白さが、少々淋しすぎる。
 待宵草を見たあとなので、余計そう思われたのかもしれない。
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早朝の待宵草

2007-07-19 | 散歩道

 久しぶりに朝の散歩に出かけた。
 南九州の梅雨明けは報じられたが、中国地方はまだ梅雨のさなかということなのだろう。しかし、昨日今日と、雨の気配はない。
 早朝の、陽の昇らぬ野辺に、黄色い花が咲いていた。近寄ってみて、<あッ、宵待草!>と思った。と同時に、竹久夢二の「宵待草」を思い出した。
 三行の短い歌を、歩きながら口ずさんだ。

    待てど暮らせど来ぬ人を
    宵待草のやるせなさ
    今宵は月も出ぬそうな

 恋の、切なさを詠った歌である。
 恋しい人は、早この世の人ではない。歌えば、一層やるせなさが募る思いだ。
 
 広辞苑で、「宵待草」を引いてみたら、「オオマツヨイグサ」の異称と出ていた。「宵待草」は夢二の造語で、植物の名前としては存在しないとのことだ。
 なお、歳時記には「月見草」の名で出ている。「待宵草」「大待宵草」は、「月見草」の別の言い方として挙げてある。
 「月見草」についての説明を読んでみると、
 <アカバナ科の多年草。北アメリカの原産で、19世紀の半ば頃わが国に渡来した。夕方、細い茎に清楚な白い四弁花を開き、朝方には閉じる。待宵草のような逞しさがないので野生化せず、今日では植物園や園芸愛好家の手によって栽培されているにすぎない。夏の夕方、川原や浜辺の草地に黄色い四弁の美しい花を開く待宵草や大待宵草を月見草と呼んでいるが、これは花の咲き方が同じためか、月見草と混同した誤称である。[星野麦丘人]>
 とあった。

 私は、月の色のイメージと重ねて、月見草は黄色い花だと思い込んでいた。今朝見た花は、花の大きさから推察して、雌待宵草(メマツヨイグサ)ではないかと思う。昔、よく見かけた大ぶりの花が、大待宵草なのだろうと思う。
 白色の月見草を見たという記憶が蘇らない。見たことがないのか、ぼんやりと見過ごしたのか、どちらであるかもよく分からない。
 白い月見草を見るチャンスがあるといいのだが……。

 「富士には月見草がよく似合う」と言った、太宰治の見た花は、本物の、白い月見草だったのだろうか。黄色い待宵草の方だったのだろうか。
 なんとなく、後者のような気がするけれど、どうだろう?

 「宵待草」を作詞した竹久夢二は、<1884~1934年>の人。
 作曲は大正7年、多 忠亮(おおのただすけ)<1895~1929年>によるもの、と初めて知った。 

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