昨日、
山川彌千枝著『薔薇は生きてる』
を読了。
この本は、2008年に創英社から刊行されたもの。
326ページの本。
(最初に刊行されたのは、1933年、火の鳥社から。
以来、他の幾社からも刊行されている。)
この本との出会いは、すでに、以前のブログに書いた。
どこまでも空を見ながら駆けていった、なんていいきもち、でもゆめだった
大岡信さんの『折々のうた』で、少女の歌に出会い、その遺稿集のあることを知ったのだった。
美しいばらをさわって見る、つやつやとつめたかった、ばらは生きてる
遺稿集の題名は、この歌から採られたものだろう。
1917年1月8日に生まれ、1933年3月31日に逝去、という薄命だった少女が書き残した命の呟きや叫びが、[小品(散文)・短歌・日記・手紙]に区分され、まとめられている。
特に、日記を読むと、大変な読書家であり、感受性が豊かで、文才にも恵まれていることが如実に伝わってくる。
絵を描くことも好きで、画才の面でも秀れた少女だったようだ。
小児結核という不幸な病が少女を襲い、長い闘病生活の中で、そうした才能や感覚をいっそう花開かせた一面もあるだろう。
恵まれた家庭環境に育った少女である。(父親は、本人が6歳のとき逝去されてはいるが、9人兄妹の末っ子として、伸びやかに成長。)
少女の母は、歌人の山川柳子さんで、『火の鳥』の同人だったという。
少女の夭逝を悼み、少女の書き留めていたものが、遺稿集として『火の鳥』に掲載され、衆目を集めることになったようだ。
病魔に苦しみ、短い生涯のなかで、心に行き来する思いを書き残した山川彌千枝さん。
その思いが、後世に伝えられたことは、亡き彌千枝さんにとっては関わりのないことである。
が、利発な少女を失った家族にとって(そして、多くの読者にとっても)、活字や絵を通して、後世に伝えられることは、彌千枝さんの魂が永劫に生きることであり、ありがたいことである。
母親の影響であろうか、歌もたくさん詠まれている。
上掲の歌のほかで、印象深く読んだ歌を引用しておく。
落ちるよにすばやく鳥の大空を斜めに飛んでゆくすばらしさ
ほそいしんの鉛筆で書くきもちよさ細いきれいな線が出てくる
先生の聴診器がゴムくさい、カーネーションの花がゆれてる
ベッドを窓ぎわに寄せて空を見た、私は空の大きいのを忘れていた
はきたる血、目の前にして看護婦のおどろいた顔じっと見つめる
現代は現代で、医学の力の及びがたい難病も多いようだが、昭和20年代までは、肺結核が人を死に至らしめる怖い病気だった。
明治から昭和にかけて、結核に倒れ、薄命だった著名な作家や歌人は、枚挙にいとまがない。
思い浮かぶままに列挙すれば、石川啄木、正岡子規、樋口一葉、国木田独歩、立原道造、八木重吉、堀辰雄、北条民雄etc。
私も、昭和26年に、肺浸潤(結核の序の口のようなもの)を患い、半年以上病臥した。
パスという新薬が効いて、命永らえることができた。
私の子供時代には、結核で隔離されている人は珍しいことではなかった。
それだけに、怖さを覚える病であった。
そして、肺浸潤を患ったことは、若き日にも、その後の私に、かなりの影響を与えた。
5年先の人生を想像することができない人生を生きてきた。
しかし、区切り目を絶えず予想しては、それを通過し、今は84歳。
笑止千万。
今では、終わりの見えないことに、かえって不安を覚える始末。
前回、家に帰るため、朝、施設の前でタクシーを待っていた。
そこへ、デーサービスに出かけられるYさんが、ヘルパーさんと一緒に4階から降りてこられた。
「気をつけて、いってらっしゃい!」
と声をかけると、Yさんはニコニコしながら、ヘルパーさんに、
「この人、(ここで)一番幸せな人」
と、紹介された。
私は、その言葉に、ふと、わが身をふりかえさせられた。
杖もつかず、自由に行動できるのは、<一番>は別にして、幸せなことなのだろう。
山川彌千枝さんの死の年(1933)に始まった私の人生は、脆弱なまま、いくばくもない余命をなお保っているのだ。
明日のことはわからないけれど。
(書く文章も、あっちへいったり、こっちへきたり、よろよろである。)