ぶらぶら人生

心の呟き

10月の庭 (花水木の紅葉)

2012-10-30 | 草花舎の四季
 昨日、草花舎に出かけた。
 10月末の庭には、秋陽がぞんぶんに降り注ぎ、明と暗のコントラストが鮮明であった。
 花水木は、はやくも紅葉の盛りを過ぎようとしている。

 落ち葉を踏んで、庭を歩いた。
 晩秋というには不似合いな暖かさだったけれど、この好天は、そう長くは続かないだろう。
 風景の佇まいの中に、寒さの季節が潜んでいそうな気配であった。

        

   


 室内には、福田十糸子さんの作品が並んでいて、不思議な雰囲気が漂っていた。
 人が様々なポーズで佇んでいる。和紙と蝋で作られた人型だ。
 作者の意図を詮索せず、勝手に頬を緩めて作品に挨拶したくなる。
 造形芸術の世界は千差万別で、おもしろい。
 (室内にも、光が満ちて、写真が上手に撮れなかった。私のカメラと技術に問題があるのだけれど…。)

                
        
             

 思いがけず、伊豆から来られたYさんの姉上や義兄にお会いした。
 ご母堂の7回目の法要のために帰ってこられた様子。
 もう 丸6年が経ったのかと驚いた。
 年の暮れ近く、しかも、室内に夕暮れの迫る草花舎で、初めてお会いした日の記憶は新しい。
 その直後に、ご母堂は故人となられたことと併せて。
 ブログに、<草花舎の四季>というカテゴリーを設けて間もないころではなかったかしら?

 義兄は、退職後、焼き物をしたり、山城を巡る旅をなさったりしているようだ。
 折に、私のブログを読んでくださっているとのこと。
 お土産に、自作の花瓶をくださった。

 山城巡りの話から、伊豆の石丁場のことなど、お城に纏わる話を聞いた。
 やさしく書かれた<宇佐美江戸城石丁場遺跡>(パンフレット)も、いただいた。

 旅するとき、人々の関心は様々らしい。
 山城に、格別の関心をお持ちの、Yさんのお兄様は、今回、津和野城跡を初めて訪ねられたいう。
 「立派な城跡ですね」
 と、感心しておられた。

       

久々の歌

2012-10-29 | 身辺雑記
 今朝、朝日新聞の歌壇に、郷隼人氏の歌を見つけ、ご無事だったことに安堵した。

   わが詠みし短歌(うた)を待つ人居てくれる何て幸運(ラッキー)な奴なのだ俺 
                            (アメリカ)郷隼人 (佐々木幸綱選)

 選者評に、
 <昨年の四月以来の久々の郷隼人氏の投稿歌である。待望する声がアメリカの獄中にも届いたのだろう。新聞歌壇の原点を思い出させる一首。>
 とあった。

 郷隼人氏の歌歴は長く、それだけに、掲載歌の途絶えたことに、不幸な予感を抱いたりしていた。
 お元気で何より。

 同じように、歌壇で再びの登場を念じている歌人がもう一人ある。
 その名は、公田耕一。ホームレス歌人。
 2008年の暮れから9か月、鮮烈な印象を残して、忽然と消えた人。
 
 公田耕一氏と郷隼人氏の歌のお蔭で、歌壇を読む楽しみがより大きかったのだが…。

 先刻、団地を歩いてきた。
 ススキの穂花が、秋陽に輝いて揺れていた。
 季節は巡る。
 人の生涯のうえにも…。


   

月を眺める

2012-10-28 | 身辺雑記
     

 13夜の月であろうか。
 満月よりも、妙に親しみがわく。
 それに、流れる雲の動きもあって。

 10月も、残り少なくなった。
 忙しくはないのに、なんだか匆匆と日が過ぎる。

 一昨日、姉妹3人で食事をし、語らいのときを過ごした。
 74、77、79歳の老女の集い。
 74も77も、いまや老女の雰囲気。
 私が長女だから、さらにプラスαの老女であるはず。

 町内の班長として、第1回目の集金を始めた。
 昔ながらのしきたりで、町内会の運営がなされている。
 少々煩わしいが、こんな機会でないと、近所の人に会うこともない。
 半年、ことなく仕事を終えたい。
 ただ、スーザンさんの後に入居された若い人との連絡がとれず、困っている。
 何でも、すんなりとはゆかないものだ。 

鉢の花 (病院の…)

2012-10-25 | 身辺雑記
 夏の間は、病院の棚や窓辺に、鉢の花がなく、ちょっと寂しい気分だった。
 今日、受診に出かけてみると、また、患者さんの届けられる鉢が置かれ、季節の花が咲いていた。
 診察待ちの患者さんが多く、花の名前を確かめることはできなかった。
 出合いの花を載せておく。


       

       

        

   

   


 血圧は、まずまず。
 末梢神経の違和感は消えず、今日も薬をいただいた。

父の命日

2012-10-22 | 身辺雑記
 石蕗の花が咲いて、今日は父の祥月命日である。
 改めて、生前の父を偲び、老いても志の高い、不言実行の人であったことを懐かしんだ。
 鉄心石腸という言葉が似合う父であった。

 それに比し、私の意志薄弱ぶりはひどい。
 楽な生き方ばかりを選んでいる。
 父のプラス面を受け継ぐことができればよかったのだが…。
 しかし、仕方のないこと。

     


 追記。父の命日に、父の曾孫が誕生した。
 不思議な符合。
 父のいい血がわずかでも引き継がれるといいのだが…。
 姪にお祝いの手紙を書き、庭に咲いた石蕗の花を添えた。
 秋冷に耐えて咲く石蕗の花のように、強い子に育つことを念じながら。

山茶花咲いて

2012-10-20 | 身辺雑記
 先日来、隣家の山茶花がほの白く咲き始めている。
 今日の秋日和に誘われ、その木の下に行ってみた。
 蕾は鮮紅で、一木に彩を添えとぃる。

     


 帰宅して、『歳時記』を開いた。
 20句ばかり載っているけれど、気に入った作は特にない。

    山茶花や おさな子たちの声高し

 近所に、幼児が増えている。子どもの遊び声は甲高い。今日のように大気のすみきった日には特に…。
 花を眺めて佇んでいると、姿は見えないけれど、子供たちの声が聞こえてきた。
 俳句ならぬ俳句型式で呟いていた。

 歳時記を見ていて、柊にも、今の季節、花が咲くことを知った。
 柊の花? といぶかりながら、裏庭に出てみた。
 が、わが家の柊には、花も香もなかった。      

新井満著<自由訳『方丈記』>を読む

2012-10-15 | 身辺雑記
         

 過日、山口の文栄堂で、新井満著<自由訳『方丈記』>を求めた。
 学生時代に一度だけ通読して以来、もう一度読み返したいと思いながら、幾度か本を手にはしたが、完読することはなかった。

 再読の機を得た思いで、上記の本を買い求めた。

 新井満氏の<自由訳>は、今までに数冊読んでいる。
 本棚には、
    『自由訳 良寛』
    『良寛さんの愛語 自由訳』
    『楽しみは 橘曙覧・独楽吟の世界 自由訳・編・著』
    『自由訳 十牛図』
    『自由訳 般若心経』
    『自由訳 老子』

 以上6冊が並んでいた。
 すでに読み終えて、ブログにも感想を投稿したはずである。

 今回の『方丈記』は、<自由訳>の7冊目ということになる。
 この本には、原文も掲載されているので、まずは原文を読み、自由訳を読んだ。
 『方丈記』は、古典としては比較的読みやすいけれど、新井満氏の自由訳で、その奥行を広げていただいた。

 確かに、前半は<災害文学>の趣である。
 3・11を挟んで、その前にも後にも、自然災害は繰り返されている。加えて、人災も。
 が、鴨長明の生きた時代にも、現代と変わらぬ天災人災が人々を苦しめた。
 その様子が、克明に活写されている。
 今は、テレビ画面で、視覚的に惨状を目の当たりにすることができる。
 鴨長明は、自らの目で、テレビの迫力に引けを取らぬ描写で、往時の悲惨を描いているのだ。
 生きづらさは、いつの時代も変わらないらしい。

 『方丈記』の後半は、あらゆる拘束からの脱出を実践し、50歳での出家後、方丈の庵に晩年を過ごす様子が書かれている。
 それがいかにも楽しそうに描かれているのだ。
 <D・I・Yのシンプルライフ>(第十八章)を生きる鴨長明に、羨望さえ覚えるくらいだ。

  (D・I・Y とは、<do it yourself>=自分で作る  といった意味らしい。)

 『方丈記』と言えば、<無常感>の代名詞のように思っていたが、ただそれだけではない。
 いつの時代も変わらぬ、人の世の生き難さをありのままに描き、その世界を自分はどう生きたかを記しているのだ。
 そこのところが面白い。
 そうした自由への憧れはあっても、鴨長明のように、<自由への脱出>を実践するのは、容易なことではない…。

 『方丈記』(1212年)の成立から、800年が過ぎた。
 京都では、この秋、その記念行事も行われているようだ。

 数年前、桜の季節に、下賀茂神社の辺りを散策した。
 鴨長明の庵跡が、ごく近くにあることは知らないままに…。



 一冊の本を読み終えて、外に出てみると、薄暮となっていた。
 西の空に、一日の名残りがわずかに残って…。(下は、落日の景)

  

町内を歩く

2012-10-13 | 身辺雑記
 地区の文化祭が、11月に行われる。
 その際、今年も、うどんのお店が設けられることになっている。それに先立ち、班長は、各家庭に<うどん券>を持参し、予約をとりまとめることになっている。

 そこで私は、今日、18軒の家を回った。
 外で遊んでいた子どもたちが、物珍しそうについてきた。
 「今度は、どこへ行くの?」と尋ね、ゆき先を告げると、先回りしては、呼び鈴を押してくれた。

 些細なことにも興味津々、幼子の瞳は、何でも吸収しそうな輝きを放っている。
 その羨ましいほどの輝きを、頼もしく眺める。
 私だけでなく、大人が失ってしまったものが、幼子たちの瞳にはある。
 
 同じ団地に住みながら、平素の付き合いは、都会並みに希薄である。
 久々に近所を訪ねて、知らなかった情報や消息も得た。
 近年、幼子が増える一方で、団地ができたとき以来の住民は、例外なく30年を加齢したことになる。
 人々の身上に、いろいろな変化があっても、不思議ではない。
 

 帰途、道野辺に咲くコスモスを眺めながら、<年年歳歳花相似たり 年年歳歳人同じからず>の詩句を口ずさんでいた。

    

自らの出番を心得て

2012-10-11 | 身辺雑記
 それぞれの植物は、花の時期をたがえず、自らの出番を心得ているようだ。
 年ごと、多少の遅速はあっても、枯死しない限り、花を楽しませてくれる。

 金木犀の香に惹かれて、今朝も庭に出た。
 今日は、ホトトギスとムラサキゴテンの花が咲いた。

 ホトトギスが花をつけるのは無理だろう、と思っていたのだが…。
 実は、夏季、その葉を好む毛虫が止まっているのを幾度も目にしながら、見て見ぬふりをしてきた。
 ホトトギスのために、毛虫退治をする元気がなかった。
 帯状疱疹の後遺症を理由に、雑草は生じるにまかせ、毛虫にも、目をつぶってきたのだった。

 それでも、花は咲いた。
 毛虫との共棲をみごとに果たしたホトトギス!
 私は、この地味な花も気にいっている。
 ムラサキゴテンの花は、硬質な葉の重なりの中央に、ひそやかに、愛らしく咲いている。
 

      


 ツワブキの花も、目下、開花の準備を進めている。

              

秋の深まり

2012-10-10 | 身辺雑記
 急に気温が下がり始めた。
 夏嫌いの私にとってはありがたいことだが、いきなりの気温低下には、少々戸惑っている。
 心地よく眠るために、アンカーを使い始めたし、時間帯によっては、暖房機も必要になってきた。

 老人じみた話だが、年々、冷えが体にこたえる。
 血の巡りが悪くなってきたのであろう。

 それでも、夏よりは冬が好き。
 <天高く馬肥ゆる秋>にふさわしく、美しい秋空の眺められる日が続けば嬉しいのだが、自然現象は思い通りにはなってくれない。
 このところ、曇り日が多いし、折に竜巻注意報が出て、不安を掻き立てられたりもしている。

 今日、庭に出た瞬間、<秋の香>が漂ってきた。
 金木犀の香である。
 ふり向くと、いつの間にか、その枝々に、小さな花々が束生していた。
 金木犀こそは、香で季節を告げる代表格と言えよう。
 
 しばらくは、庭に降り立つのが楽しみだ。