ぶらぶら人生

心の呟き

西瓜

2006-07-31 | 身辺雑記
 七月最後の今日、ブログはお休みにしようかと考えていた。
 珍しく働く気になって、先日来取りかかっている書斎の片付けに興が乗ってきたからである。今までも、作業に備えて身支度はするものの、さてと、意を決して取りかかるのが大変で、書斎に入っても、能率が上がらない。
 捨てるべきか、残すべきかに迷って、久しく手にすることのなかった書籍のページをくっているうちに、座板に座り込んで、読みふけってしまったり、これは神田の古本屋で求めた本だと、遠い日を懐かしんだり、アンダーラインを眺めて、こんな厄介な本をよく読んだものだと、若き日の自分に感心したり、献呈本には、関わりのある人の思い出を絡ませたり、片付けるのは簡単そうで、容易なことではない。

 今日は少しばかり、作業がはかどり、昨日は残す本として山積みしていたものも、とにかく身辺身軽になることを優先し、思い切って<お別れする本>の部類として、紐でくくった。愛着には眼をつぶることにして。
 そこへ電話がかかってきた。
 「西瓜を召し上がりますか」と。
 お隣からの、うれしいプレゼントだ。今年は出来がよかったとのこと。西瓜に、長雨のたたりはなかったらしい。
 私にとっては、初物。冷蔵庫に入れる前に、写真を撮った。
 そして、ブログにひとこと西瓜のことを書いておこうと、パソコンを開けた。
 折角今月は、昨日まで、一日も休まずに投稿し続けたので、七月最後の今日も、ひとこと書き止めておくことにしよう。
 一日も休まず、ひと月書き続けるなど、今後そんなにあることとは思えないので。 

 冷蔵庫に西瓜を入れようとして、ふと子どもの頃を思い出した。
 冷蔵庫などなかった代わりに、天然の、趣のある井戸や冷水場のあったことを。
 祖父母の家の裏背戸の光景が、眼に浮かんだ。
 筧から流れくる水の涼しそうな音。柄杓に汲んで飲んだ水の清涼感。屋根のある井戸の傍に佇んで、外界を見たとき、日向と陰とが、鮮明な明と暗に区切られて、いかにも夏らしい風情だったこと。そして、筧の水の溢れる水槽には、西瓜やトマトなどが、常に冷されていたことなど。
 お盆の墓参で、祖父母の家に行くことが多かったので、思い出は、すべて夏の色を帯びている。
 「ツクツクホーシ」の声も蘇る。声をふり絞るように鳴く法師蝉の声が、子供心にも、もの悲しかった。
 海辺の町から、山深い祖父母の家に行くと、同じ井戸でも特別な仕掛けがあるように思えたものだ。筧の水を柄杓で飲めるという、そんな些細なことさえも、妙に楽しかった。

 戦前と戦後を生きた私たちは、現代の便利さの前にあった、貧しいながら、自然で素朴な、今では失われたよさを懐かしめる、世代ということらしい……。
 そういえば、涼み台、蚊帳、団扇なども、日常の生活から消えてしまったが、みな夏の風情として懐かしい。考えてみると、涼み台の周りには、人々が集まり、蚊帳の中にも、幾人かが一緒だった。
 そこには、絶えず人と人との交わりがあった。
 今ほど、個の時代ではなかったようだ。

 歳時記から、西瓜を詠んだ句を、一句。 

 刃を入れて鬱を払はむ冷し瓜   清水基吉

 
 

 
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クモ 二題

2006-07-30 | 身辺雑記

 二週間ほど前のことだった。
 思いがけず、少年時代を知るNさんに会った。四十余年ぶりの出会いだったのに、一目見て、Nさんだと分かった。
 温厚で、聡明な少年が、そのまま大人に変身して、私の前に現れた感じだった。
 Nさんの方には、私に対して具体的な思い出があるらしいのに、私の方の思い出は、随分漠然としたものである。先にも述べた<温厚で、聡明な>、頼もしい少年としての記憶である。
 Nさんと話しているうちに、私にとっては、ショックなことを耳にした。
 かなり前の話だが、私に電話したところ、私が、Nさんのことを思い出しかねている様子だった、というのだ。
 私は、「えっ?」と思った。
 Nと名乗られて、私が思い出せなかったというのも不思議な話なのだが、それよりも、私にとってのショックは、電話を貰ったこと事態が、記憶から抜け落ちていることだった。私は、自分の頭の内部に何か異常が生じているのではないかと、薄気味悪くさえあった。
 Nさんにとっては、実に失礼なことだっただろう。
 だが、Nさんは昔のままの温厚さで、そんなことなど問題ではない、といった振る舞いであった。
 そのとき、私は不思議な迷路に迷い込んだ思いだったが、後日、失礼を詫び、再会できた喜びを記した手紙を送った。
 昨日、Nさんから、折り返し詳細を記した返事が来た。定年退職までの人生を叙し、昔、私が褒めたという一編の詩が添えられていたのだった。
 それが「クモ」という詩である。

   ク モ

 赤ク染マッタ 夕空ニ向カイ
 クモハ一心ニ巣ヲ作ッテイル
 コケノ生エタ樋トツツジノ木トノ間ニ
 クモハ一心ニ 巣ヲ作ッテイル
 マルデ
 アノ空全部ヲ
 網デウズメヨウトシテイルカノヨウニ

 中心から
 樋トツツジノ木ノ枝々ニ
 数本ノ放射状ノ糸ヲハリ
 ソノマワリニ クモハ一心ニ 網ヲ張ッテイル
 クモハ最後ノ地点ヲ求メツツ
 タダ一筋ニ
 ダレノ手モ借リズ
 自己ノ力(チカラ)デ築イテイク

 アミハ ダンダン大キクナッテイク
 一重 二重 三重 ……………
 アノ小サイ力 体カラヨクモアレダケノ糸ガ
 デルモノダ

 口カラ出ス糸一本一本ニ
 自分ノ全生命ヲソソイデイルヨウダ
 クモハ ツイニハリメグラサレル限リノ網ヲハリ
 アスノ日ヲ期待シテ クモハ
 日ガシズミ ウス暗クナッタ空ニ
 スイコマレルヨウニ消エテイッタ

 
十五歳の少年が、赤く燃える夕空に眼を向けたとき、その空間に巣を張っているクモを発見し、凝視している光景が眼に見えるようだ。そして、クモの不思議な生命力に感動して、この詩は生まれたのだろう。
 今読み返しても、いい詩だと思う。片仮名書きなどして、ちょっと気取ったところも、少年らしい。
 私は、この詩を見ても、N少年からこの詩を見せられたときのことを思い出せない。勿論、褒めたということも。しかし、Nさんの心には、思い出として残っているのだという。
 記憶とは、どうしてこうも曖昧なのだろう。
 私にあるのは、総合的なN少年の記憶だけなのだ。

 「クモ」を読んだ後、私も、その昔、クモのことを書いたことを思い出した。
 それは、Nさんが私に電話したことがあるという、その時期だったかもしれない。
 私は、当時、晩年の老父母の世話をしていた。時間のゆとりが全くないほど拘束される生活でもなかったので、退職時に求めたワープロで、暇があれば、随筆、エッセイなどを書いていた。
 新聞にしきりに投稿したのもその頃である。Nさんは、その中のいずれかを読んで、電話をくださったのだろう。
 「一匹のクモと私」は、<日本随筆家協会>が1992年度分の随筆集として編集した『もう一つの愛』に採用、掲載されたものである。
 Nさんの詩との不思議な符合を感じ、書き記すことにした。

   
一匹のクモと私

 
軒下の大がかりなクモの巣の存在に気づいたのは、夏のある日のことだった。
 犬走りを通り、最短距離をたどって、ごみ焼き場に行こうとし、頭のてっぺんをその巣の下部に引っかけてしまったのだ。
<人の通り道に巣をかけたりして……>
 私はいまいましい気分で、頭髪に絡まった粘っこい糸を取りはずした。
 その愚かしい失敗を、私は幾度かくり返した。少し回り道をすれば、問題はないのだと分かりながらも。
 台風の季節が過ぎたころであった。
 気をつけていたはずの私は、またしても、クモの巣に頭をくっつけてしまった。
 性懲りもなく同じ失敗をくり返す自分に、私は腹を立てた。
 気づいてみると、ほうきを手にしていた。クモの巣を取り払うつもりだったのである。
 が、巣の下にたたずんで、造形的にみごとな美しい巣と、その真ん中に鎮座している、思いのほか体型のスリムなクモを見上げているうちに、私の闘争心が揺らぎ始めた。
 小規模ではあったが、わが家にも被害をもたらした台風19号を、この巣もまともに受けた。それでも、クモの巣は壊れなかったし、一部の破損さえもなかった。
 ただ、か細い糸を張りめぐらせただけの巣なのに、なんという強靭さなのだろう。
 小動物の生の営みに感動した私は、巣を壊さずに、季節がめぐりゆく中で、このクモがどうなってゆくのか、友人になり、観察者になって、つきあっていこうと思い直した。
 早速、いたずら心を起こし、一枚の枯葉を巣に投げてみた。クモは異物に気づくと、そこに自分の体を運び、慌てる気配もなく、長い足をうまく使って枯葉をみごとに払い落とした。私はさらに、これには参るだろうと、長さ三十センチはあろうと思われるシオンの枯れ落ちた下葉を巣に引っかけてみた。
 クモは、糸に絡まった細長い葉を、端から順々に放してゆき、やはり巧みに払い落としてしまった。
 私はひとり、クモの利口さに感心して眺め続けた。
 そのとき、私は何者かの気配を感じた。辺りを見回すと、隣家の大きな猫が庭の隅に身をひそめて、私の稚気をあざ笑うように凝視しているのだった。
 私は人にいたずらを見つけられたときのようなきまり悪さを感じながら、秋陽の差すしんとした裏庭に、偶然、居合わせた一匹のクモと猫とに、孤独を寄せ合っているような親しみを覚えた。

 勝手口を出ると、必ず目に止まる位置に巣はあった。
 私はもう、同じ失敗をくり返すことはなかった。クモのために、私の通行路を変更し、可能なかぎり生存を見守るつもりであった。
 日に幾度も巣を眺め、クモの健在を確かめて、日を重ねた。
 季節は晩秋から初冬へと移り変わったが、クモのうえに変化は起こらなかった。
 師走に入ってからも、幸い暖かな好天が続いた。しかし、そのうちに雪の舞う季節が訪れることは確かである。山陰の厳しい冬をどうしてしのぐのだろうかと、気になり始めていた。
 クモは、あいかわらず巣の真ん中にいて、じっとしている。
 そんなある日、私は一度だけ、自分の居場所を離れ、小さな羽虫を捕らえて食べるところを目撃した。
 ささやかな食事を終えたクモの動きを、さらに見つづけていると、クモは巣の中央に引き返すや、お尻をぴんと上げて、脱糞した。
<やってるな!>
 私は、ひとりほほえんだ。
 私に見られていることなど、全く無視の体で、クモは平然としている。生理現象を充たした後は、なにくわぬように、逆さの姿勢で、じっと巣に納まっているだけであった。
 生きているさだかな証の行動を見かけたのは、そのとき、一度だけだった。

 ついに巣の主が姿をくらますときがきた。
 十二月二十日過ぎの暖かな日であった。
 巣の中央に、ぽっかり穴が開いて、私の友はいなくなった。何者かにやられたのか、自ら冬ごもりを始めたのか。
 私の想像を拒否し、非情にも、主のいない空き巣は、あるともない風に揺らいでいるだけであった。
 巣に開いた穴以上に、私の心には、大きな空白ができた。
 そういえば、このところ、庭の隅に、身をひそめている猫の姿も見かけない……。

 
加筆したくなる表現もあったが、そのまま書き記した。さっぱり忘れていた、十五年前の晩秋から初冬の光景を思い出した。本の発行年が、母の他界した年なので、この文章は、その前年の作ということになる。

 創作を勧めてくれたのは、大学の師であった。かつての文学少女は、文学中年になり、いまや文学老年になった。
 小説に取り組み、幾編かを書いたが、成功しなかった。残生に、一編だけ、いい作品を書き、師の墓前に捧げたい気持ちはあるのだが、怠け者の私には、多分無理だろう。
 師の教えとして、文章を書く趣味だけが残った。
 今はパソコンに向かって、稚拙な文章を書いている私を、幽明界(さかい)を異にして、師はなんとおっしゃるだろう? 「それでいいんだよ」と、慰めてくださるのか、「命を削って、専念せよ」と、叱咤激励なさるのか……。
 私には、時により、両方のお声が聞こえてくる。
 

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風鈴の音

2006-07-29 | 身辺雑記
 梅雨は明けていないのに、今日も猛暑!
 家中に熱気がこもるので、在宅の日は、あちこちの窓を開ける。
 裏庭から入る風に、風鈴が鳴る。
 昨年、洋服を買ったお店が、くれた風鈴。
 特別風情があるわけでもない。
 だが、音色は涼やかだ。
 暑気を少しはやわらげてくれる。

 一大決意して、今日から書斎の片づけをすることにした。
 片付かないこと、片付ける気にならないこと、
 それが、私を脅迫し続ける……。
 心の平穏をかき乱す。
 乱雑さに安住もできず、
 かといって、几帳面に処理することもできず。
 草取りのように、人手にゆだねることはできず。
 書斎は私の城なのだから。

 先日、母子ともにお世話になった知人が来て、
 「奥様は、いつも綺麗に整理整頓なさっていましたが……」
 と、言った。奥様とは、私の母のことだ。
 私も自覚している。
 母のようには、うまくゆかない、と。
 「父に似てしまって」
 と、言い分けする。
 片付け下手は、父からの贈り物。

 ビデオテープが、夥しくたまっている。幾年も見ることなく。
 片付けの手始めに、一々点検もせず、袋に詰めた。
 埋め立てゴミの収集日に備えて。
 それでも三つ四つ、
 捨てがたくなって、元の位置に返した。
 こうして愛着の品がたまりすぎ、身動きできなるのだと分かっていながら。
 本来無一物の境地に生きたいが、
 なかなか難しい。

 本だけが財産、と買い込んだ本が書棚をはみ出して溢れ、
 今は身動きできなくなっている。
 物置場と化した書斎を、
 書斎として使えるように片付けよう。
 秋には、明窓浄机を居場所にして、
 本が読めるように。
 片付けるとは、思い切って捨てることだと心得て。

 風鈴の音が心地よく聞ける間に。
 秋が訪れる前に。
 ビデオテープの片付けほど、簡単ではないが、
 手をつけなければ、永久に片付かないのだから。

 「きちんと整理することを、
 子供のとき、
 ちゃんと教えてあげたはずだけどねえ」

 遠くから、母の嘆きの声が聞こえる。
 今日は、母の祥月命日。
 
 
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ウィキペディアの便利さ

2006-07-28 | 身辺雑記

 昨日から、朝日新聞が、第一面に、「ウェブが変える」という特集を始めている。
 その第一回は、<ネット百科事典>と題して、ウィキペディアを取り上げた。

 私が、インターネット上の無料百科事典「ウィキペディア」のことを知ったのは、つい二月前のことだった。薬局へ薬の購入に行き、店主と雑談していた折のことだった。私がインターネットの便利さを話したとき、彼がその辞典の存在を教えてくれたのだった。
 店頭へパソコンを持参して、ウィキペディアを検索し、「調べたいものを言ってみて」と促されたので、私は、その日のブログに書いた牧野富太郎の名を挙げた。
 彼は、“ほらッ”とばかり、そのページを開いて見せてくれた。そして関連事項を次々にクリックしては、
 「便利でしょう!」
と、言ったのだ。
 舌縺れしそうな、その事典名など、私は知らなかった。
 ほとんど使うこともないのに、私の書棚にあって、場所を大きく占めている、あれは「ブリタニカ大百科事典」だし……、など思いながら、耳なれない、その事典名だけは覚えて帰ろうと思った。そして、「お気に入り」に入れておこうと。
 「メモして帰るから……」
と、私が言うと、彼は、パソコン画面に「百科事典」と文字入力して検索し、
 「大丈夫。こうすれば、出てくるから」
と、教えてくれた。さすがにパソコン暦10年のキャリアを持つ人は違う。
 私は、それ以後、必要に応じてウィキペディアを利用してきた。
 使うにつれて、便利ではあるが、未完成部分もかなり多く、多数の人の書き込みによって記事が加えられてゆく、そんなシステムになっていることが分かってきた。 

 昨日の朝日新聞を読んで、もっと正確な知識を得ることができた。次のように説明されている。

 ウィキペディア   インターネットを使う不特定多数の自発的執筆者が、
            共同制作する無料百科事典

 
ネット上で誰でもどこからでも自由に文章を書き換えられるシステム「Wiki」と、百科事典(Encyclopedia)との造語、との解説もあって、語の由来を知ることもできた。

 
 
今日も、この原稿を書き始める前に、歌人について調べたいことがあり、ウィキペディアを開いた。「芸術と文化」をクリック、更に「文学」をクリックすると、まず「今日は何の日/文学編」という記事が眼に飛び込んできて、そこで立ち止まってしまった。
 1866年の今日は
、絵本作家のビアトリクス・ポターの生誕日であり、1965年の今日、江戸川乱歩死去、2001年の今日、山田風太郎死去、と続いている。
 関心もあり、ついそれぞれの作者名ををクリックして、予定外の読み物をし、おまけにポターの絵本まで検索して、有名な「ピーターラビットのおはなし」の表紙絵を眺めたり、記事を読んだりもした。
 今日、ウィキペディアを開けたのは、過日、「柴生田稔の歌」についてブログを書いたとき、資料が乏しかったことを思い出し、そうだ、ウィキペディアには出ているかもしれない、と思ったからだった。
 が、だめだった。今回に限らず、検索しても出ていない場合がある。柴生田稔の場合も、「編集中」とあり、「投稿したい場合には~」、執筆要項を見るようにという指示が出てくる。
 開いた短歌の項で、興味のある記事には眼を通し、次々クリックを繰り返していたら、百人一首の項に到達、更には歴代天皇の一覧表まで出てきた。
 私は、思わずその表に見入った。
 小学校のとき、<ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、……>と、声高に、競争しながら、今上天皇に至るまで、みんなで天皇の名を諳んじたことを思い出した。
 くだらないことに精力を費やしたものだが、暗記力や集中力を高める効果ぐらいはあっただろうか、など考えながら、ウィキペディアを閉じた。
 この事典に限らず、インターネットの記事を読むのは、とても楽しいが、適当なところで終止符を打たないと、際限がない。
 

 
 


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精霊蜻蛉

2006-07-27 | 身辺雑記
 今朝のことだった。
 近所に在住のOさんの訪問を受けた。老いた父母がお世話になった方で、私はOさんのお陰で、仕事を続けることができた。私にとっては、恩人でもある。
 父母の死後も、お盆と暮れの二回は、感謝の気持ちを贈ることにしている。
 義理堅いOさんは、私の気持ちを黙って受け取ってはくださらない。今朝も、海の幸を届けにきてくださったのだ。
 家に住み込みでお手伝いをしていただいたこともあり、昵懇の間柄である。
 一緒にお茶を飲みながら、暫くお話した。
 そのとき、私が、昨朝、家の庭を群れ飛んでいた蜻蛉の話をした。
 と、Oさんは、すかさず、
 「精霊蜻蛉ね」
 と、言われた。
 「……?」
 私は昨日、歳時記を調べて、赤蜻蛉の中でも、「夏茜」と呼ぶ種類のものだと判断し、納得したばかりだったのだ。
 今度は、精霊蜻蛉? 私が不審そうな顔をしたらしく、
 「湧くように、飛んでたでしょ? 胴がオレンジ色の……」
 「そう。庭に何の異変が起きたかと思いました」
 と、答えると、
 「精霊蜻蛉に間違いありません」
 と、自信たっぷりな答えだった。
 Oさんは、句作の経験を持っている人であるし、田舎住まいも私より更に長く、自然界のことについては、詳しいに違いない。
 私は、近所のタケシさんから聞いた話や、昨日歳時記で調べたことを一通り話した後、
 「精霊蜻蛉、ね。後で、また調べてみます」
 と言って、話題をかえた。

 昨日、私が調べた歳時記は、<夏の部>であった。その中に、「夏茜」はあったのだ。が、そもそも「蜻蛉」は、秋の季語なのかもしれないと思い、歳時記の<秋の部>を取り出してみた。
 後ろの索引で引くと、Oさんの言葉通り、「精霊蜻蛉」があった。そのページを開いてみると、独立した語としては出ていなかったが、「蜻蛉」の項の中に、それを見出すことができた。
 <秋の部>の中には、「蜻蛉」と「赤蜻蛉」の二項が設けられている。

 「蜻蛉」
 蜻蛉…鬼やんま…銀やんま…ぎん…ちゃん…渋ちゃん…腰細やんま…黒やんま…更紗やんま…青蜻蛉…塩辛蜻蛉…塩屋蜻蛉…塩蜻蛉…麦藁蜻蛉…麦蜻蛉…猩々蜻蛉…虎斑蜻蛉…高嶺蜻蛉…こしあき蜻蛉…胡黎(きやんま)…精霊蜻蛉…仏蜻蛉…赤蜻蛉…赤卒(あかえんば)…秋茜…深山茜…眉立茜…のしめ…のしめ蜻蛉…八丁蜻蛉…蝶蜻蛉…腹広蜻蛉…昔蜻蛉…あきつ…えんば…えんま…とんぼう…蜻蛉釣
 
 「赤蜻蛉」
 
赤卒…秋茜…深山茜…のしめ…のしめ蜻蛉…猩々蜻蛉…姫茜

 蜻蛉の名前だけで、物語が綴れそうなほど、さまざまな呼び名が並んでいる。書き写しながら楽しくなった。知っている呼び名もあれば、知らないものもある。

 結局、私が川掃除の日に川原で見た蜻蛉も、昨日我が家の庭を群れ飛んでいたそれも、同種のものなのだろう。
 同じ蜻蛉を、人によって、あるいは句作の過程で、「夏茜」とも「精霊蜻蛉」とも、表現上使い分けている、ということではないだろうか。
 そして、更に大雑把な言い方としては、タケシさんの言った「赤蜻蛉」も、間違いではないと。
 私の類推が正しいかどうか、よくは分からないけれど。

 とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな   中村汀女

 
この有名な句の蜻蛉は、私が見た蜻蛉と同種のものかもしれないと、勝手に想像している。
  

 
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猛暑到来!

2006-07-26 | 身辺雑記

 蓋あけし如く極暑の来りけり   星野立子

 夏空になった。もう梅雨は明けたと言っていいのだろう。気象庁からの発表はまだないけれど。(追記 夜のニュースで、九州・四国・山口県の梅雨明けが発表された。当地の梅雨明けも、間もなくだろう。)
 外に出てみると、どこまでも深く、青い、夏の空が広がっている。そして、まぶしい日差しだ。黒い屋根瓦も赤い屋根瓦も、発光塗料を撒き散らしたように、チカチカと眩い。
 長く続いた梅雨の後だけに、酷暑は激しい勢いで到来した感じだ。
 上句の比喩は、突然訪れた猛暑の感じをよく表している。今日は、そんな日だ。

 今朝、鉢の水遣りに、外に出たとき、庭に蜻蛉の群れが乱舞していた。先日、川掃除のとき、川原で見た蜻蛉と同種らしい。しかし、なぜこんな水もないところに? と不審に思った。生活水や山からの水の流れる側溝は、家の横にもある。雨が続くと、結構水嵩を増し、音を立てて流れる。が、こんな汚水同然のところでも、蜻蛉は羽化するのだろうか?
 季語では、「蜻蛉生る」というらしいが、長く田舎に生活しながら、蜻蛉誕生の瞬間を見たこともないし、「やご」と呼ばれる期間、水中にどんな形で棲んでいるのか、それも知らない。
 
 そこばくの風にきらめき蜻蛉生(あ)る  北光星

 
この句を読んだとき、生命誕生の瞬間を自分の眼で見てみたいと思った。
 それを知らないからといって、何の不都合もないことではあるが、きっと感動があるだろう。昆虫の生態に限らず、もっと知っておくべきことも、知らないままに生きてきた。無知蒙昧も甚だしい、と思うことが多い。
 生きる時間に暇ができて、初めての発見のように、知らぬことを一杯抱えていることに気づかされたのだ。そして、今は、知らなくても支障のないことまでも、無性に知りたくなっている……。もう余生はそう長くないというのに。

 私は赤蜻蛉は秋のものと思い込んでいた。川掃除の日、近所のタケシさんから目の前を乱舞しているのが赤蜻蛉だと聞いて、納得しがたい思いだった。
 今しがた、つれづれに歳時記を眺めていて、私の思い込みも間違いではなく、タケシさんの言い分も正しいことが分かったので、書き記しておこう。。
 今朝見た蜻蛉も、川原で見たのも、季語上では「夏茜」というのだそうだ。

<赤蜻蛉の一種で、秋茜とよく似ているので、胸側斑で区別するしかない秋茜は夏の間は涼しい高原や山にいて蚊などを食べ、体が黄色から赤くなると、秋風とともに平地の水辺へ戻ってきて交尾、産卵する。夏に平地などに飛んでいる赤蜻蛉が夏茜である。[檜紀代]> (注・下線の挿入は私)

 
赤蜻蛉にも、「夏茜」「秋茜」と、異なる種類があるということ。
 これが今日の学習!
 夏茜、秋茜、いずれも美しい言葉だ。
 
 朝のひととき、私の眼を楽しませてくれた夏茜は、「炎昼」の今は、どこかへ身を潜め、休憩中なのだろう。
 猛暑・酷暑・極暑・溽暑など、いかにも暑そうな字面を眺めて、うんざりしていても仕方がない。
 私もクーラーの部屋に身を潜め、たまった手紙や暑中見舞いの返事を、今日は書き終えることにしよう。なすべきことを果たせば、気分だけでも爽やかになるだろう。

 
[余禄]
 ① 今日の「折々のうた」の説明文の中に、<みな親を知らずに育ち蝌蚪の国 原尚久>という句があり、先日「蝌蚪」のことをブログに書いたので、眼にとまった。そういえば、親を知らずに育つ動物もいるのだ、と改めて首肯したり、「蝌蚪の国」という巧みな表現で、水中に群がるオタマジャクシの世界をよく言い表していると感心したりして……。
 ② この頃、「歳時記」をよく眺める。身辺に関わりのある事象が多くて面白い。私は昔から辞書を読むのが好きで、暇な時は辞書を読んできた。ただ最近は、持ち重りするのがだんだん苦痛になり、電子辞書に頼ることが多い。こちらは薄型なのに、広辞苑・漢字源・英和、和英・中日、日中辞典などの機能を揃えていて、便利さ、この上なしである。
 したがって、最近の余暇の楽しみ方は、「辞書(電子辞書)」+「歳時記」を読むこと。

 

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「森鴎外と美術」展

2006-07-25 | 旅日記
 昨日は、住み慣れた街を、旅人の気分で歩いた。
 午後には雨が上がると、予報では言っていたが、朝から同じ調子で夕方まで降り続いた。
 その日オープンしたばかりのホテル「モーリス」に行き、宿泊の手続きを済ませて荷物を置くと、「グラントワ」へ向った。
 「島根県立美術館」で開催中の「森鴎外と美術」展を観るために。

 森鴎外については、かなり知っているつもりでいた。が、私の知る鴎外は、小説家としての鴎外、詩歌、評論などでも活躍した文学者としての鴎外であった。本業は医者で、軍医として活躍したことも知っていた。そして、やたらに沢山の肩書きを持った人であるということも。その実質を深く考えることもなく。
 今回は、鴎外の多才な一面として、美術との結びつきを、非常に分かりやすく展示した展覧会を観て、森鴎外観が大いに変わった。
 鴎外の器の大きさ、人間としての味わいの深さを改めて認識させられた。
 文学作品には、以前から敬意を払っていた。が、写真の雰囲気がかもす森鴎外その人を、私は恣意的に好きになれなかった。なんだか尊大ぶった印象を受けていたのだ。やはり軍人さんだな、と。まさしく偏見である。
 今回の展示を見ながら、私は、浅学菲才からくる私の鴎外像に、訂正を強いられた。驚きもし、敬服もした。鴎外とは、こういう一面も持った人だったのかと。
 国粋主義が主流になろうとした時代に、日本洋画の援護者として矢面に立ったり、この展覧会の主力画家、原田直次郎が画壇から非難を浴びれば、力強い味方となったり、無名画家を公私にわたって庇護したりするなど、気概のある人物であったのだ、と。
 写真の鴎外の内面にあるものが、今回の展覧会で、見えてきた気がした。

 メインは森鴎外原田直次郎であろう。広告類にも、二人が登場する。鴎外らしさは原稿用紙で表し、その上に「森鴎外と美術」および「石見人 森林太郎、美術ヲ好ム」という文字が赤字で記され、会期や場所が黒字で表記されている。その横に原田直次郎の「風景」と題された絵をあしらっている。
 展示室の、表示の垂れ幕にも、原稿の升目が使われていて、鴎外に関わる展覧会として、いいアイディアだと思った。Ⅰ~Ⅵのセクションに分かれており、作品には数多くの大作もあり、知らなかった画家のものもあって、見ごたえがあった。
 空調が効き過ぎている感じでもないのに、途中から、特に下半身に冷えを感じ、脚も疲れてきたので、二時間で鑑賞を終わった。いつでもまた、会期中に観にこられるという安心感もあって。
 受付でいただいた「おてがるポイントガイド」の解説が、なかなか要領よく、気負いのない言葉で書かれていて、読みやすい。やはり受付でいただいたメモ帳も、気に入った。小さな原稿用紙が、一枚ずつ剥ぎ取れるようになっているのだ。

 ミュージアム ショップに寄って、本を二冊求め、グラントワを出た。
 相変わらず、小ぶりながら、しつこい雨が降っていた。
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小さな旅

2006-07-24 | 旅日記

 今日M市駅前に、新しいホテルがオープンした。
 名前は「モーリス」。
 早速、旅人となって、初日の客となる。
 日常からの脱出! 場所を替えるだけで、気分も旅人。
 自分を束縛するもののない空間は、それだけで自由である。
 ここには、すぐ開きたくなるパソコンもない。
 手に取りたくなる書籍もない。
 自分とかかわり合うものが、皆無に近いということは、心の解放につながる。
 片付けを脅迫する雑物、雑事もない。
 ここに在るのは、持参した一冊の本と、ルームのテレビ。
 旅は、須臾の自由、たまゆらの解放を与えてくれる。
 
 いつもとは異なる空間で、一夜を愉しむことにしよう。

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大暑 土用の丑の日

2006-07-23 | 身辺雑記
 今日は、暦の上では、「大暑」「土用の丑の日」
 歳時記によると、土用の入りの今日は「土用太郎」、明日は「土用次郎」あさっては「土用三郎」というのだそうだ。古来、土用三郎の日のお天気の如何で、その年の豊作の善し悪しを占ったのだとか。

 午前中は曇り、午後は小雨が降ったり止んだりの一日で、一向に大暑らしくない。
 九州地方では、18日以来の総雨量が1200ミリを超えるところがあるという。川の氾濫や土砂崩れなどの被害が相次ぎ、相変わらず不安な状況が続いている。テレビで濁流や浸水被害の光景を見るたびに、心が落ち着かない。
 暑い夏は好きではないが、そろそろすかっと晴れて欲しい。
 現在のところ、私の周辺は、危険な状況にはない。
 家では、今日、庭木の剪定をしてもらった。雨で作業ができないような大降りにはならず、無事に終了した。庭師の夫妻が一緒に仕事をしてくださるので、能率がいい。
 だが、家の周辺に人がいて、絶えず電気音や鋏の音がしていると、ひとりでいる時とは勝手が違い、自分の居場所を失ったような気分になる。
 時には外に出て、こちらの希望を伝え、思い切り木を切ってもらったり、はびこりすぎた草花を抜き取ってもらったりする。
 木の下には、落ち葉もあり、草も伸びている。日ごろ、細やかに草取りや掃除をしないので、庭師さんが、ついでにきれいにしてくださる。ありがたい。
 電気の器械で、落ち葉や剪定の葉っぱなどを上手にかき集めて。
 「それはお庭の掃除機ですか」と尋ねると、「これは送風機です」と、教えてくださる。確かに掃除機のように吸い込むわけではない。単に強風で、不要物をかき集めるための道具なのだ。だが、便利なものがあるものだと、妙に感心する。
 掃除の嫌いな私は、ボタン一つで、掃除完了、というわけにはいかないだろうかと、しばしば思うことがある。必要なものと不必要なものとを識別して、塵だけを吸収する機械が発明されたら、どんなにいいか知れない。
 掃除機だって、洗濯機だって、子どもの時にはなかった道具だ。あんなものを考え出した人は実に偉い! そのうち、ひとりの偉大な発明家か、共同研究の成果か、いずれかにより、私の夢のかなえられる日が来るかもしれない。が、それは私の死後のことになるだろうけれど。

 家にいても、なんだか落ち着かないので、画集を開く。
 「原色日本の美術」小学館)の18巻<南画と写生画>に、伊藤若冲の「群鶏図襖絵」や「池辺群虫図」など数点が載っていたので、画集鑑賞に時間を費やした。
 実は今朝、新日曜美術館で、「若冲と江戸絵画」をやっていて、伊藤若冲の絵画のすばらしさに改めて感動した。先日、萩美術館でも、「薔薇に鸚鵡」という一枚の絵を観て心を惹かれたので、今日も熱心に観たのだった。

 若冲の絵にも感動したのだが、いまひとつ、ジョー・プライスという美術収集家にも感心した。若くして、若冲の絵に惹かれ、ヨットで来日したという。
 プライスの目の確かさに驚く。今回の「プライス・コレクション展」に際しても、絵画鑑賞のあり方として、ガラスケースのない、露出展示を試みたり、照明の当て方を工夫するなど、常識にこだわらず、あるべき鑑賞の方法を取り入れているのだという。いまだ直接絵画を見ることのできる展覧会に巡り合ったことがない。貴重な作品だから、美術館側からすれば、ガラスケース入りやロープを張って見せるやり方は当然のことだが、コレクター自身があえて、露出展示を主張するというのだから、姿勢が違う。美術鑑賞以外のところでも、今日は感動した。
 また、プライスの、若冲をはじめ江戸絵画への開眼には、石油関係で財を成した父親の知人で、建築家のフランク・ライトとの出会いが関係するという。帝国ホテルの設計者でもあるライトは、浮世絵を愛した人らしい。ライトと古美術を観て歩くうちに、プライス自身が、若冲、更には江戸絵画に惹かれて、収集することになったという。
 人間の出会いが、人間の運命と関わる、不思議な縁を思った。

 伊藤若冲は、「具眼の士を千年待つ」と言ったそうだ。自分の絵の本当の理解者を、後の世に期待した言葉だろう。1800年の死から200年後の今、若冲の魅力は、改めて見直されているようだ。

 大暑の今日、私は剪定師に付き合いながら、一方で画集など眺めて、あれこれ考える一日となった。
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武満徹の音楽

2006-07-22 | 身辺雑記

 昨日、NHKのBS放送で、N響の演奏を聴いた。
 (6月14日、サントリーホールで演奏されたもの。)
 その中に、武満徹の一曲「セレモニアム」があった。宮田まゆみの演奏が中心となって、オーケストラと共演。(写真)
 武満徹の、この曲も初めてだし、この雅楽器演奏を聴くのも初めてだった。思わず引き込まれるように聴いた。初めてのものへの、もの珍しさもあったが、武満徹の曲も、笙という楽器の醸し出す音の世界も、なかなかいいと思った。
 宮田まゆみという人は、笙演奏の第一人者らしい。
 この番組では、モーツアルトピアノ協奏曲25番ハ長調 K503(ピアノはスティーヴァン・コワセヴィチ)とセザール・フランク交響曲ニ短調の演奏もあり、聴き始めたら最後までテレビの前を離れられなくなった。
 指揮者は、いずれの曲も、準・メルクルだった。

 演奏を聴き終わった後、私が一枚だけ持っている武満徹のCDを取り出し、久々に聴いてみた。
 ジャケットに、「春」という文字が記されているディスクである。
 「サクリファイス~武満徹作品集」とあって、7曲18楽章が収めてあるが、ほとんどが、ギターやフルートのため、あるいはギターとフルートのための曲である。
 改めて聴いて、そのよさをどう表現したらいいか、うまく言えないが、心が、荘厳で、静謐な世界に誘い込まれるように思った。
 解説には、<武満徹の音楽は、色のうつろいに命がある。沈黙の中から立ちのぼった音が弾けたり微妙にゆらいだり、残照のように輝きながら、再び、沈黙へとかえっていくといった、時間の推移とともに変容していく響きの姿が、彼の楽譜からはみえてくる。(以下略)[白石美雪]>と、美しい言葉で、その音楽性が、記されている。
 参考にはなるが、私には十分理解し納得する力がない。
 この際、暫くこのディスクを聞いてみようと思った。

 今日はかつて職場を共にした女性三人が集まって食事をしながら、歓談した。話が尽きなくて、喫茶店に場を移して更に歓談。四時間おしゃべりをした。
 最近特に感じることは、おしゃべりの後の疲労感である。人と話すことは、莫大なエネルギーを要することのように思う。日ごろ、本を読んだり、パソコンに向かったり、ひとりの時間を気ままに過ごすことが多いせいだろうか。
 楽しい時間なのに、妙に疲れる。

 そこで、今日もまた深夜、武満徹の音楽で、ひとときを過ごした。
 ミカエル・ヘラスヴォのフルートも、ユッカ・サヴィヨキのギターも、それらの楽器が奏でる音とは異なる音色を聴いている感じがする。武満徹の作曲の特徴でもあり、演奏者の技術でもあるのだろう。
 
 

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