各温泉宿の下駄が奉納されているのであった。(写真)
看板には、与謝野寛の歌、
<手ぬぐいを下げて外湯に行く影の
旅の心を駒げたの音>
を記した横に、
<城崎温泉では、毎年、古下駄を供養おたきあげし
新下駄を奉納することによって 訪れていただいた
お客様の安全とご健康を祈念しております>
と書かれていた。
その近くには、足湯もあり、飲泉場もあった。
お湯を飲んでみると、昨夜感じたとおり、塩分を少々含んでいた。
城崎温泉の宿<三木屋>で、志賀直哉関連の資料を見せていただいた後、散歩に出かけることにした。
2月20日、京都発の特急きのさき1号が、城崎駅に到着したのは、2時前であった。が、散歩に出かけたのは、三時前にはなっていただろう。
途中、快晴に恵まれ、残雪の照り返しもあって、車窓に差し込む日差しはまぶしいほどだった。ところが、城崎近くなり、列車の進行する右手方向に、円山川がゆったりと流れているのに気づいたあたりから、空模様が急に怪しくなってきた。
折りたたみの傘を持って外出しようとすると、宿の人から、宿の傘をどうぞと言われ、お借りすることにした。
目的は、文学碑めぐりと城崎文芸館を訪れることだった。
宿でいただいたマップを頼りに歩いてゆく。
宿の人から、歩くコースについても説明を受けていた。
三木屋の隣にある旅館<つたや>は、桂小五郎潜居の地ということで、この宿で『竜馬がゆく』を執筆した司馬遼太郎の文学碑が、玄関先に立っていた。
折角<まんだら湯>の前を通りながら、吉井勇の歌碑は見落としてしまった。何しろ案内マップの印字が小さく、小降りの雨の中、傘をさしながらの碑めぐりは快適とはいえなかった。
温泉街を流れる大谿川沿いを歩いて、まずは城崎文芸館に入った。そこには、城崎温泉にゆかりの文人墨客たちが詳しく紹介されていたし、前回書いた<北但地震>と温泉街復興の経緯も説明してあった。
一番見ておきたかった志賀直哉の碑は、<城崎文芸館>の前に立っていた。が、碑文を確かめるには至らなかった。黒々とした銅版?の文字は、離れた位置からは読みづらかった。文芸館に引き返して、確かめることをしなかったのが悔やまれる。(写真)
志賀直哉と城崎といえば、『城の崎にて』が有名である。その作品の背景にある体験が城崎に関係があるからだろう。
実は、『暗夜行路』の一節にも、城崎は出ている。その部分を引用しておくことにする。(<三木屋>の名も出ているので…。)
<城崎では三木屋という宿に泊まった。俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼(注 小説の主人公・時任謙作)を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。又温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼、そういう店々が続いた。殊に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電灯の下に美しく見えた。
宿へ着くと彼は飯より先ず湯だった。直ぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽(ゆぶね)の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に彼は気分の和らぐのを覚えた。……>
(付記 城崎温泉の雰囲気は、ここに記されているのと、ほとんど変わらない。
しかし、『暗夜行路』という小説は、前編は大正10年から書き始められ、出版は大正11年。後半が完成するのは、昭和12年。随分長い歳月をかけて完成された作品である。)
城崎温泉は三度目である。
が、前、前回はかなり昔のことで、勿論、宿泊した宿も覚えていない。その時々の鮮明な記憶はあるのに、それがどこであったかなどは記憶から抜け落ちている。古い日記帳を繰れば分かるのだろうけれど。
今回は、志賀直哉が宿泊した宿ということで、<三木屋>に電話で予約をし、一泊させていただいた。
申し分のない、古びたよさのある宿であった。
古風さは、城崎温泉街に建つ宿のすべてに共通する特色であり、三木屋も、その他の宿も、いかにも湯の町らしい風情を留めていた。
通された部屋は、五人は泊まれる広い部屋であった。
一階なので、裏の扉を開ければ、庭に降りられるようになっていた。まだ雪を残したお庭が、雪の好きな私を楽しませてくれた。
まずは、志賀直哉にまつわる資料を見せてもらった。
案内役は、宿の女主と思われる、教養のある人であった。
私の無知は、完全な思い違いをしていた。
<三木屋>には、志賀直哉が執筆した当時の部屋が、そのまま実在している、と。
志賀直哉が、電車にはねられて重傷を負い入院、退院後に、療養をかねて城崎温泉に赴き、三木屋に宿泊したのは、大正2年のことであった。そこに滞在中に体験したことと、自らの生死にかかわる体験とを重ね合わせて書かれた、有名な短編小説『城の崎にて』は、大正6年に発表されている。(志賀直哉は丁寧に推敲を重ねる作家であったと、その昔習った覚えがある。)
その後も、志賀直哉は、幾度か三木屋に逗留している。その証しに、直筆の葉書も残されていた。
大正14年5月23日11時10分に、当地を襲った北但地震について、私は全く知らなかった。それは近年でいえば、阪神大震災に匹敵するほど大きな規模の地震だったようだ。城崎の温泉街はひとたまりもなく壊滅したのだという。
一時は阿鼻叫喚が、温泉街を埋め尽くしたのだろう。
山側に逃げた人は命を失い、川側に逃げた人が命拾いをしたのだとか。
今ある温泉街の佇まいは、その震災後に復興した姿である。
したがって、志賀直哉が宿泊した在りし日をそのまま偲ぶ術はないのであった。
その上、大正2年といえば、志賀直哉30歳。後に小説の神様と称された直哉も、『城の崎まで』に先立つ作品としては、『網走まで』や『大津順吉』『清兵衛と瓢箪』などが発表されている程度で、確たる作家の地位を築いていたわけではない。
後世、名を成した志賀直哉の、かつて泊まった宿ということで、執筆当時を偲んで机など配された部屋のようで、当然在りし日のままではなかったのだった。
宿泊の部屋も、ここの間と、決まっていたわけでもないようだ。
説明を受けて、私の勘違いを訂正した。
宿の人は、みな親切であった。
私が志賀直哉に関心を持っていることを知って、出生から大正時代末までの年譜をコピーしてくださった。特に大正2年、三木屋に滞在中の日記を添えて。
<三木屋>に置いてあるだろうとの勝手な判断で、<城崎文学館>に売っていた『城崎文学読本』を買わなかったことを伝えると、三木屋所有の本を貸してくださった。
薄い冊子なので、夜、メモを取りながら読み終えた。随分多くの文人たちが城崎を訪れ、作品を書いているのだ。
夕食では、<カニづくし>を堪能した。カニの鮮度がいいのだろう、その美味なことは言葉に表しにくいほどであり、ひとり食すにはもったいないほどの料理であった。
カニは、あちこちで賞味してきたが、特に美味であった。遠い昔、根室で花咲ガニを食べたとき、こんな美味しいものもあったかと、舌鼓を打った思い出は忘れられない。が、それに決して劣らぬ美味しさであった。
かなり満腹感を覚えたころ、
「これは当館、オリジナルな料理です」
と、蓋物が出された。その名を聞くと、<具足煮>とのことだった。
カニという食材が、ありとあらゆる調理法で、食膳を賑わせた。
日々、飢餓を生きる人も世界に沢山あることを思うと、どう考えても贅沢すぎる食事である。私とて、たまのご馳走ではあったのだが……。
城崎温泉は、外湯めぐりを楽しむのが旅行者の習いらしい。それぞれ宿泊先の浴衣を着て、その宿の下駄を履き……。しかし、私はついに外には出なかった。その夕、小雨が降って寒々としていたせいもあったが、その日の心境としては、宿の内湯にひとり浸るのがいいように思えたのだった。
翌朝は、驚くほど空の青さの際立つ好天となったが、やはりひとり、内湯を楽しんだ。少々塩分を感じる湯だったが、よく暖まる気持ちのいいお湯であった。
<三木屋>の近くには、「御所の湯」「鴻の湯」「まんだら湯」があり、少し足を伸ばせば、「一の湯」「柳湯」があり、さらに行くと「地蔵湯」「さとの湯」と、それぞれ趣の異なる温泉を楽しむことができるようになっていた……。
宿の人たちは、旅立つ私を丁寧に玄関に送り、宿の車で、城崎駅まで送ってくださった。応対の仕方に、単なる接客術とは思えない親切を感じた。この宿なら、またの機会、是非訪れたいと思った。
前々から出石や玄武洞に行ってみたいと思いながら、それを果たしていない。
できれば城崎に二泊ぐらいして、ゆっくり近辺を歩いてみたい。温泉周辺にも、まだまだ楽しみがありそうだ。夏であれば、大谿川をもう少し遡って、志賀直哉ゆかりの、桑の木のあるあたりまで散歩もしてみたい。
午後3時過ぎ、京都文化博物館に着いた。(写真 別館)
煉瓦造りの重厚な、均整の取れた建物は、かつては日本銀行京都支店として使われていたもの。日本銀行本店や東京駅など、当時の代表的建築の設計を手がけた辰野金吾氏の作風がここに存在しているのであった。
三条通に面した建物の前に立って、カメラに収めようとしたが、立つ位置があまりにも建物に接近しすぎて、全体の姿は捉えにくかった。数枚撮った写真の中で、やはり中央の上部を収めた写真が雰囲気を最もよく捉えているように思い、このブログに添付した。2月19日の、京都の空も写し取っている。
天井の高い、凝った意匠の建物の内部も見学して、本館の特別展の会場に移動した。
小説家・川端康成と画家・東山魁夷との交流については、ぼんやりとしか知らなかった。が、今回の展覧会を見て、その交流の深さの有り様を知った。二人の交わりは、凡人同士の親しみ方ではなく、美を共通の関心事として、ピンと糸の張り詰めたような交流だったのだろう、と思われる。
川端康成(1899~1972)73歳没
東山魁夷(1899~1999)91歳没
二人の略年譜を見ると、1955(昭和30年)の、
川端/五十六歳 『東京の人』『雪国』『千羽鶴』を東山に贈る。
京都・兼素洞の「東山魁夷新作展」に行く。
東山/四十七歳 『虹いくたび』(河出新書)を装丁。
川端邸を初訪問。川端より所蔵美術品を見せてもらう。
という交流に始まったようだ。
二人の交わりは、川端康成自死による永訣までの17年間であった。芸術家同士のつき合いは、美の探究者として全く平等というより、川端康成の存在は、東山魁夷にとって、絶対的な敬意の対象であったように思われる。年齢が9歳年下だからということに関わりなく、魁夷の人柄も影響しているのだろうけれど、川端康成は仰ぎ見る存在であったように思われる。
家族ぐるみの交際もあったようだが、いわゆる馴れ合いの親しさではなく、美を介しての、何か緊張を感じるような交流だったような気がする。
100通を超える往復書簡が見つかり、多くの書簡が展示されていたが、会場でそれを読むのは難儀だった。
川端康成が氏の審美眼、炯眼で蒐集した作品と、川端康成と係わりのある東山魁夷の絵画を鑑賞するだけでも、十分な展覧会だった。
会場では読めなかった説明や書簡をゆっくり読むために、少し分厚すぎる本だったが、『川端康成と東山魁夷』<響きあう美の世界>(求龍堂)を求めて帰った。
その夜から旅の車中、その一冊を大いに楽しんだ。
絵画を見直したり、文章を読んだり……。
二人のうち、どちらかといえば、川端康成について知らなかった部分を、改めて知ることが多かった。展示会でも、本の中でも。
川端康成の小説で、読み直してみたいと思った作品もある。
(いくら時間があっても足りないなあ、と思う。
今回は、旅から帰っても、疲れを感じることはなかった。
翌日には、強風の吹く日だったが、同じ市内に住む妹の宅へ、ささやかな土
産を届けたりした。
帰宅の二日後、一緒に展覧会を見た大阪の妹が、旅の疲れは出ないかと電
話してくれた。
「全く疲れていない」
と言った後、
「旅のカバンは、まだ居間に座っているけどね」
と話すと、
「することの優先順位は、人によって違うからね」
と、笑っていた。
旅から帰れば、まずは旅カバンの片づけなどから始めるのが普通だろう。私
は、それができない。パソコンへ写真を取り入れたり、お土産を届けたりが優
先する。
残生において、できることは限られている。
川端康成を読み返すという順位は、どのあたりに繰り込まれることになるのや
ら? と、ぼんやり考えている今日である。)
前回、草花舎を訪れたとき、私が京都に行くことは話していた。
今日、草花舎に入ると、Tちゃんから、
「私たちも、京都に行きました」
と聞いて、驚いた。
22日から23日にかけて母子で出かけられたのだという。
京都で見てこられたものの一つが、「セツローのものつくり展」だった。
セツローとは、私の知らない芸術家である。
そこで、求めてこられた本を見せてもらった。
私が食事を終えたあたりから、お客が急に増えたので、私はひとり、自分の世界、セツローの世界に、ひと時浸った。
食後のコーヒーの後、さらに黒豆茶とTちゃん手作りのトルコ風クッキーの、特別サービスを受けて憩いながら……。
画家の名は、小野セツロー。
私の読んだ「セツローの ものつくり」という本は、<木を削る><土で作る><画を描く>といった項目で、作品の紹介がしてあった。作品はみな小さいが、手づくりの作品にこもるセツロー氏の心が温かいのだ。なんという、心にしみいる芸術だろう!? と感動した。
うまく作ろうという意図の働かない作品。童心が生み出したかのような作風。
実物に接すれば、もっと感動は高まるだろう。展示会の会期は、19日から25日、事前にセツローの世界を知っていれば、会場に足を運ぶ時間を生み出すこともできたのにと、少々残念でもある。
思わず、私もまねて作品作りをして見たいと思わせる一面もある。しかし、セツロー氏のようにはいかないはずだ。描くにしても作るにしても、あのように無心にはなれないだろう。
あの資質は、生まれながらのものであろうか。後に習得可能なものであるのか。
もう一冊、「セツローさん」(写真と文)という本が置いてあった。
次に訪れたときに読もうと思った。が、家に持ち帰っていいとYさんに言われ、お借りして帰った。
さらに、「セツローさんのスケッチブック」というポストカードを束ねた本をプレゼントしてもらった。心がほのぼのとして、心優しくなれるような画集である。
セツローさんの子息は、小野哲平という<器をつくる人>であり、その妻なる人は早川ゆみという<服をつくる人>として、共に有名だということも、今日初めて知った。
生活スタイルも注目されているのだそうだ。高知県の田舎に居を構え、仕事が暮らしであり、暮らしが仕事でもあるような生き方をしている芸術家のようだ。それを紹介した本も数冊、草花舎に置いてあり、写真を眺め文を読んだ。
この世には、その名を知らないだけで、魅力的な人は数知れずいるものだと、今日も感心した。
(写真は黒豆茶とおいしいトルコ風クッキー。丸っこい形も面白い。)