ぶらぶら人生

心の呟き

『ひとり暮らし』の中から

2018-07-30 | 心に残る表現・味わいのある言葉
 谷川俊太郎著『ひとり暮らし』より

  (一)文体について

 <スタイルという言葉は、分かっているようでよく分からない言葉である。美術のほうでは様式といい、文学のほうでは文体という。例えば一篇の小説を読むとき、私たちはその筋を追い、描写を楽しむ。だが同時に私たちは意識するしないにかかわらずその文体をも読み取っていて、それは筋や描写よりもずっと曰(いわ)く言い難いものである。だが私は一篇の小説の真価はその文体にこそ表れると信じている。ではその文体に表われるものとはいったい何なのだろう。うまい言葉がみつからないが強いて言葉にするなら、それはその作家の生きる態度とも言うべきものだろうか。>(「私」中の<私の「ライフ・スタイル」>)

  (二)社会に潜む「寂しさ」について

 <私はこの時代を理解するキーワードの一つに、「寂しさ」があるのではないかと密かに思っている。日本はかつてなかったほどに、一人一人が孤立し始めているのではないか。大家族はもう昔話だし、核家族という言葉さえ聞かれなくなったくらい家族は崩れかかっている。私もその一人だが独居老人が増えているし、結婚を願わない若者も多い。会社もすでに擬似家族としての機能を失いつつあるし、都会では隣近所も見知らぬ人ばかり。私たちは帰属出来る幻の共同体を求めて携帯電話をかけまくり、電子メールで埒もないお喋りに精を出し、ロックコンサートに群がり、居酒屋にたむろし、怪しげな宗教に身を投じる。………> (「ある日」中の<十一月三日[金]>)


 私は読書中に、付箋をつけたり、傍線を入れたりをよくする。
 特に、付箋をつけた部分は、再度読み返すことにしている。
 『ひとり暮らし』を読んだ際にも、たくさんの付箋をつけた。その中で、私も同じ思いを抱きつつ、この著者のように理路整然とは伝えきれないことを、私のメモとして、また私のブログを読んでくださる方にも紹介したくて、二点について引用した。
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日曜に思う(朝日新聞より)

2017-04-18 | 心に残る表現・味わいのある言葉
題名「平和への扇動者」古びない

(その最終段落の言葉

歴史に学べば、なにごとも始まりの小さな芽の中に結末が包摂されているのに気づく。
むろん他国だけの話ではない。


日常生活の些細なことから、国の運命に関わることまで、<始まりの小さな芽>は無視できないことであり、軽んじてはならないことである、と私も強く同感する。

昨日、帰宅後、16日・17日の新聞を読む。
その中で、特に、上記の、朝日新聞編集委員・福島申二氏の論説に心打たれた。


庭の薇(ゼンマイ)の芽
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生き方の名言

2017-01-03 | 心に残る表現・味わいのある言葉
おのれを励ます最後の言葉はこれしかあるまい。
「この地球に、オレはこのオレだけだ。がんばれよ、オレ」

自分を救うものは自分であって、他の誰でもないと誰も気付く。
気付く日が必ず来るけれど、遅すぎる。

むのたけじ[99歳一日一言]<1月3日>より

そうだ。自分を救うものは自分。すなわち私。

私の考え方・人生への姿勢は変わらず一貫しているということだ。昔も今も全くブレていない。まっすぐ、まっしぐら、人は何と思おうと私は私の信念をもって書き、且生きてきたという姿勢を通している。そこでタイトルを「楽天道」とつけた。楽天は私の人生を支えてきた主義だ。

ここに楽天主義でなく楽天道とつけたのは、ノホホンと楽天的でいればいいというのではない、それは人生修行の一手段、悲運を克服しそれなりの幸福をめざすための修行として、楽天に向う道である、と考えてのことだ。

九十嫗・佐藤愛子「楽天道」の<まえがき>より

真似たい生き方なのだが、容易なことではない。
私はとぼとぼと、私の隘路を辿るだけなのだろうか。
息苦しさを感じながら。
死までの、残された短い時間だけでも、もっと達観した生き方をしてゆければと思う。
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むのたけじさんの言葉

2016-11-25 | 心に残る表現・味わいのある言葉
 むのたけじ 『詞集たいまつ Ⅰ』 
(むのたけじ 1915~2016 8月21日 101歳で死去 ジャーナリスト)

シルバーセンタの方3人が、朝から、庭の草取りをしてくださった。
その間、上掲の本を読み、タブレットを使って、心に残る至言を書き留めた。

 (しかし、タブレットの表記法にはまだ戸惑うことが多く、時間ばかりかかって、頭が疲れる。
   むきになって、習得に努めようとするので、疲れは限界を超えてしまう。
   私の悪い癖である。) 




<まえがき>より

 コトバを語るにせよ書くにせよ、人それぞれに自分のコトバに自分の全体重をかける態度が
  大切であって、そのように努力してこそコトバは人と人とがかかわり合うための道具となり、
  種子となり、人間のくらしの中に生きるだろう。 
(略)

<いきる章>より

 夜のおわりに朝がくる。しかし、夜明けの直前の闇は最もくらい。

 芝草の一本を思い浮かべてごらん。足に踏まれ、火に焼かれ、雪につぶされて
  姿を消してしまう季節があろうと、やがて青々と頭をもたげている。


 サカナは、海中にいても店頭におかれてもサカナである。人間は死ねば「故人」あるいは
  「遺体」である。生きているから人間である。しんじつ生きていないなら、しんじつ人間ではあり得ない。  


 木の葉は古くなると、それだけで散るのではない。翌春に萌え出る芽のいのちが葉柄の
  根もとに満ちてうずくとき、枯れ葉は風がなくとも散っていく。

 
 脱皮しない蛇は死ぬ。脱皮しない人間は他人を死なせる。

 白蓮は泥の沼に咲き、ナマズは沼の泥を呑んでふとる。泥を恐れると、清く咲くことも、
  たくましくふとることもできない。泥を見くびると、泥になってしまう。


 ねむるなら目をつぶりなさい。考えるなら目を開けなさい。目をつぶって考える
  中身は大概くだらない。ごらんなさい、決断に向かって思考するとき、目は必ず見ひらかれて輝いている。


 言うのはたやすく、行なうのはむずかしいだけではない。行なうのはたやすく、言うの
  はむずかしい場合だってある。言うのはむずかしく、行なうのもむずかしい場合は、もっとザラにあるのではないか。


 きのうは去った。あすはまだ来ない。きょうというこの日に、全力を注ぎこもう。
  どんなにつまらなく思われる一日であろうと、どんなにつらい一日であろうと、きょうがなければあすはない。


 絵画はどんなに人世を描写しても、人世そのものとは対立している。絵画には許され
  る省略の手法が、人世では少しも許されない。


 人それぞれの一生に自分らしい花や実を望むなら、自分の生活の中の平凡なカスと見
  える部分をカスと見えない部分と同じように大切にしないといけません。 
(略)中国の文学者が
  述べたように「枝葉を取り除いてしまう人は、絶対に花や実を手に入れることができない」のです。 
(以下略)

 顔は正直な名刺である。人はめいめいの顔に責任をもたなければならない。

 花の出る前と後とでは、ずいぶんちがって見える。穂がみのったときと苗のときとでは、
  全く別のものに見える。けれども、むろん同じイネである。ふだん見なれている目ほど、変化を見のがしやすい。
  本質の変化とは、そのようなものである。見ちがえるように進むのではなく、見定めがたく平凡に休みなく進むものである。
  人間の自己変革もそうである。 
(以下略)


    ★ 一つ一つ引用文に、私見を添えたいのだが…、今、少々気力が萎えているので省略する。
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