一昨日、施設の移動図書が、4階に移動してきた。
私の読みたい本は、もうないかもしれないな、と思いつつ本のボックスを覗いた。
手にとってみたのが、下掲の本であった。
作者・三宮麻由子(さんのみや まゆこ)さんの『空が香る』。
目次を見ただけで、読んでみたくなり、借りてきた。
昨日から今日にかけて読了。
作者は、1966年11月27日の生まれ。
私からすれば、ずいぶんお若いエッセイストである。
<第49回日本エッセイスト・クラブ賞>を受賞された著名なエッセイストであると知る。
33歳も違えば、生きた時代がかなり異なり、生活感覚も相当異なるだろうと思った。
が、まったく違和感なく、春夏秋冬の季節について書かれたエッセイを、それぞれ共感をもって味わうことができた。
この本では、冬・春・夏・秋の順に、四季が描かれ、「聴く」「食べる」「触れる」「匂い」に焦点を当てて、それぞれの季節感が描き出されている。
このエッセイの表現上で欠けているのが、五感の「見る」(視覚)である。作者は、幼くして視力を失っておられる。<幼くして>という時期が、いつであるかは記されておらず、記憶の底に、多少でも明暗や色彩感覚が残っているのかどうか、私には分からない。
文章を読んでいて、なるほど視覚障害のある人の文章だなどとは、全く思えない。
盲学校で学んでおられるし、点字を表現の手段としておられるし、白杖のことも出てくるから、かなりの視覚障害の方なのであろう。しかし、その行動力には驚嘆する。見えないはずの世界が、筆者の行動力と他の感覚を通して、視覚の確かな人の描写以上に描き出されている。豊かな才能と人並み外れた知力や探究心をお持ちの方なのであろう。作者が視覚障害者であることなどは、微塵も感じさせない文章力である。
一番好きなエッセイをあえて選べば、冒頭の「冬を聴く 冬の夜の音」であろうか。寒柝の響きが、懐かしい遠い日の思い出を伴って、私の耳に聞こえてきた。
この本の題名『空が香る』は、<夏>のなかの一編「夏の匂い 空が香る」から採られたようだ。
とにかく、作者の俊才が煌めいているエッセイである。視覚障害を他の感覚が見事すぎるほど補っている。真似のできない生き方でもある。
『そっと耳を澄ませば』も読んでみたく、Amazon へ注文した。
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[余録]
妹からシルバー人材センターへの支払いを済ませたと電話があったので、ついでに点字について教えてもらった。私は、点字に関して全く無知であり、上掲の本を読みながら、点字や点訳のことなど想像してみるが、頭に思い描けないことがたくさんあった。
視力障害者である三宮さんは点字でエッセイを書かれるようだ。今日読んだ本も、誰かが点訳して出来上がったのであろうかと、そのプロセスを想像したりした。
妹は長年、点訳の奉仕をしている。
そこで、読んでいる本の作者が視覚障害であることや本の題名などを伝えた。
私の言った題名を、妹が聞き直した。
『空が香る』の「香る」の部分を、私が「かおる」と言ったらしい。私が漢字で伝えると、妹は、「あっ、かおる ね」と言った。
『アクセント辞典』で調べたところ、私のアクセントが間違っているのに気づいた。
私が、日本語のアクセントを意識し始めたのは、国民学校の5年生であった。
転校してきて、間もなくのことであった。
担任の先生が休まれた日のこと。代わりに来られた先生が私を指名され、数学の問題を読まされた。
果物の梨の発音を「なし」と言ったところ、先生から、<「なし」ですよ>と、注意された。
同じ石見地方でも、住む場所によって、果物の呼び方ひとつとっても異なることを認識した。が、発音については懐疑もせず、先生がおっしゃるのだから、それが正しいのだろうと思っていた。
が、長じて、梨の発音は、私の「なし」の方が標準音であることを知った。
以来、アナウンサーの発音と私の発音が異なるときも、すぐ『アクセント辞典』を調べる習慣がついた。
今日はまた、妹との会話を通して、発音の誤りを知った。
施設には、視覚の衰えで苦労される人、聴覚の衰えで会話しづらい人など、いろいろである。父も、晩年、次第に難聴になった。春が訪れると、<鶯は鳴き始めたか>と、私に尋ねたものである。私の方から、聞かれる前に父に季節の移ろいを伝えることもあった。
老いによる視覚障害や聴覚障害は、過去の記憶を辿ることで、本来の色合いや音色を思い出せるからまだいい。幼くして障害を生じた場合は、一切無色なのであろうか? 聴覚障害の場合は、一切無音なのだろうか?
目を閉じてみたり、耳を塞いでみたりしても、障害のある状態を体感することは難しい。
が、70歳を過ぎてからであったが、急に停電し完全な闇となったとき、私は家の廊下で、方向感覚を全く無くした経験がある。あの闇が、視覚をなくしたときの状況であろうか?
そして、聴覚障害の場合は、完全な無音の世界なのであろうか?
見えること、聞こえることを当たり前のこととして生きているが、突然視力や聴力を失うことがないとは言えない。この度の読書は、ただ内容を鑑賞するだけでなく、改めて障害を抱えて生きる人生に想いを馳せたりした。
私自身、歳を重ね、視力聴力ともに、徐々に衰えてはきたが、不自由は感じない程度である。
ありがたいことだし、恵まれた機能を活かして生きなければとも思う。
今日も、自室の窓から雲を眺めて、心遊ぶ。