ぶらぶら人生

心の呟き

1月31日の落日

2022-01-31 | 身辺雑記
 早くも1月が終わる。
 無事に生きてきたが、こころのくすぶっている日もかなりあった。いつもニコニコとはなかなかいかない。


 今日は、コロナワクチンの予防接種3度目を受けた。
 1回目2回目と同じファイザー社のものであった。
 だだ今、夜の10時。
 注射をした左腕を右肩に持っていこうとして、少々痛みを感じた。1回目、2回目とも、腕にはかなり痛みがあったので、その程度は当たり前と思っておこう。


 1月終わりの落日は、見事であった。
 ひとり南廊下の窓辺に立って、南寄りの山に沈みきるまで眺めた。

 




 




 


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『もういいかい まあだだよ』

2022-01-31 | 身辺雑記
        小椋 佳 著
     
      『もういいかい まあだだよ」



     

      左 本の表紙    右 カバー


 29日の朝刊で、上掲の本の広告を見て、Amazon へ注文。
 翌30日、昼前に入手できた。
 CDの「もういいかい まあだだよ」も、改めてAmazonへ注文し、昨日の午後は、早速、本を読んだ。
 生き方、老に向かう姿勢など、共鳴することの多い本であった。

 目次は、

 第一章 「小椋佳」ができるまで
 第二章 銀行マンとして、夫として、父として
 第三章 歌、そして恋
 第四章 生きる
 第五章 人生の総仕上げ 

     妻から夫へ 
      〜ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。
     おわりに

 となっている。

 以上の目次からも、およその筋立てが想像できるだろう。
 語りおろしなので、推敲に推敲を重ねた名文とは、一味違うよさがある。知力もおのずから語りのなかに仄見えながら、気取らない語りの魅力がある。

 1944年生まれの小椋佳さんは、私より11歳お若い。お仕事の過多、がんの患いなどもなさって、私のような、のんびりした老いの日々とは異なるご苦労も、多かったと思う。
 が、そのお仕事は、多くの人々に感動を与えるものであったのだから、素晴らしい。

 僕の不治の病は、<慢性現状不満症>と書いておられる。微苦笑しながら、私にも同病の傾向大いにあり、と思う。

 昨日、Amazonへ注文したCD『もういいかい』も今夕届き、夕食前に、一部聴いた。
 いい本やいい歌に出逢うと、老いなど忘れて、ひととき幸せである。


 <余録>

 その1 うなぎパイのこと

 隣に住んでいたエミリちゃんが、中学生になった昨年の春、浜名湖の中学校へ転校した。草花舎でお別れ会をし、餞別を渡した。
 そのお礼として、私の家に届いたのが、うなぎパイであった。
 そのうなぎパイのCMソング『うなぎのじゅもん』を創られたのが、小椋佳さんだと、この本を読んで知った。
 エミリちゃんは元気かしら? と思いつつ、うなぎパイの素朴な美味しさを思い出した。

 遠い昔、夏旅の途中、浜名湖畔のホテルに泊まったことも懐かしく思い出した。


 その2 文中に出ていた林部智史という歌手について、初めて知った。ネットで調べ、美声を聴くという楽しみも味わった。

  
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モダマ

2022-01-30 | 身辺雑記
 小皿にのせたものが何か、お分かりの方は、どの程度あるのだろう?
 実は、植物の実で、モダマというもの。

 1月27日の新聞(朝日)の しつもん! ドラえもん あまみ編 に、

  童話「ジャックと豆の木」みたいな長いツルをのばす植物が奄美に生えているよ。
  何かな?

 という出題があった。

 私は、解答ができず、 こたえ の欄をみた。

 解答は、モダマ


 ネットで調べたところ、モダマの実は入手できると知り、早速、Amazon へ注文した。
 昨日の夕方、施設の方が、部屋へ届けてくださった。

 丁寧な包装のなかにおさまっていたのが、下の実である。解答の説明のなかに、

 <さやの長さも1メートル前後になり、直径5センチほどの種子は海流に乗って運ばれるよ>

 と、説明してあった。

 下掲の写真が、その種子である。説明どおり、ものさしを当ててみると、5センチあった。


     



 さやのなかに納まっているときから、暗褐色をしているのかどうか、詳しいことは分からない。好奇心に駆られ、本物を見てみたい気はするが、それは果たされそうにない。

 ただ、一個のモダマを眺めて、本物を想像するだけである。海流に運ばれるというのだから、木質のようなものだろうか?


 (追記 改めて、広辞苑を調べてみると、実は堅く、初めから上掲の色らしい。実の大きさは6センチと出ているから、5〜6センチはあるのが普通なのだろう。花は、淡紅色で早春に開く、と説明してあった。)

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海を眺め、空を見上げて

2022-01-29 | 散歩道
 風のない午後、散歩に出かけた。
 思いのほか暖かく、ためらうことなく、海辺へ向かった。

 今日の日本海(大塚海岸)。
 比較的穏やかな海であったが、打ち寄せた波の帯は、轟音とともに飛沫となって砕けていた。


 




 




 




         磯釣りの人


 




     子どもも、釣り人となって楽しんでいる様子。
       考えてみると、今日は土曜日。
      女の子(真ん中)は、釣竿なしで遊んでいた。


 



  空を見上げて、雲を眺める。


 




 




   今日の高津川


 




            出会いの野の花


           ナズナとホトケノザ
      

   




            オオイヌノフグリ


   



              
              ノゲシ


   



    Google lens で確かめると、ニオイシバと出た。
    芳香を発するのであろうか?
    マスクをしているので、確かめることはしなかった。


    


  4242歩。2.86km。55分の散歩。今日も無事に歩けた!



 
  夜、NHKの<ブラタモリ>で、竹富島について放映していた。 
  昔、旅で訪れた島なので、懐かしく視聴した。
  島固有の文化など詳しくは知らずに、素朴な風情を楽しんだ日を思い出しつつ。

  
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ひとときの美

2022-01-28 | 身辺雑記

  ひとときの美。

           夕景 太陽は雲の中。


 


  
           東側の夕空。


 


     
       上空の雲の群れも、僅かに夕焼けて。


 




  水を与えると、ペラペラの花弁が生きかえって。(アザレア)


 
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天気上々、気分上々

2022-01-27 | 散歩道
 午後3時、散歩に出かけた。
 冬日和。
 天気上々、気分上々。
 滅多にこんな日はない。

 冬晴れの日は、今年の1月に限ってみれば、例年よりはるかに多いように思う。
 今日も、冷気がまるで感じられなかった。

 気分も上々。気分の方は、滅多に上々などない。
 気分を<上・中・下>で表すなら、滅多に<上>はない。<中>ならかなりいい方だ。大方の日が<下>である。
 昨日などは、<下の下>の気分であった。もちろん体調の不良が背景にある。

 でも、今日は気分上々。
 6年目にして、初めての道を歩く。
 方向音痴の私だが、少々遠出しても、施設の位置を間違えるようなことはない。

 一部、初めての道を歩いた。<中須>というバスの停留所前を通った。少々遠出し過ぎたかと思ったが、数メートル歩くと、見慣れた大サボテンの庭前に来ていた。

 4300歩。2.85km。ほぼ1時間の散歩。



 

  自室から見下ろし、日々眺めているセンダンの木。
  今日は歩道から見上げる。ずいぶん蔓性の植物が絡まっている。




  

   桜並木のある古道に、珍しく車が数台止まっている。
   何用だろう?




 

  赤い実をつけているのはクロガネモチ。左側は何の木だろう?




  

   オリーブの木かと思う。
   (初めて歩く道で出逢った。)




 

   キンカンの小木。
  この木も、初めての出逢い。




    

     艶やかなキンカンの実。




     

      大サボテンは、ビニールに包まれていた。
      昨年は、お正月の後、猛烈な寒さがやってきて、サボテンは傷ついた。
      花も咲かなかった。もちろん実もつけなかった。

     (家の庭にあるシコンノボタンも、枯死寸前となった。
      生き残った部分に葉はついたが、花は咲かなかった。)




   

   <子ども園>の桜の小木。木の前に立って、冬晴れの空を見上げる。



   花を見つけた!
   大地が目覚め、輝き始める予兆かと、嬉しくなる。


   

     オキザリス




   

     西洋タンポポ(地に張りついて)。




 

  河畔に出て、いつもと変わらぬ川の表情、遠山の霞む景を眺めて、施設へ。

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『空が香る』

2022-01-26 | 身辺雑記
 一昨日、施設の移動図書が、4階に移動してきた。
 私の読みたい本は、もうないかもしれないな、と思いつつ本のボックスを覗いた。

 手にとってみたのが、下掲の本であった。
 作者・三宮麻由子(さんのみや まゆこ)さんの『空が香る』。

 目次を見ただけで、読んでみたくなり、借りてきた。
 昨日から今日にかけて読了。


     



 作者は、1966年11月27日の生まれ。
 私からすれば、ずいぶんお若いエッセイストである。
 <第49回日本エッセイスト・クラブ賞>を受賞された著名なエッセイストであると知る。
 33歳も違えば、生きた時代がかなり異なり、生活感覚も相当異なるだろうと思った。
 が、まったく違和感なく、春夏秋冬の季節について書かれたエッセイを、それぞれ共感をもって味わうことができた。

 この本では、冬・春・夏・秋の順に、四季が描かれ、「聴く」「食べる」「触れる」「匂い」に焦点を当てて、それぞれの季節感が描き出されている。

 このエッセイの表現上で欠けているのが、五感の「見る」(視覚)である。作者は、幼くして視力を失っておられる。<幼くして>という時期が、いつであるかは記されておらず、記憶の底に、多少でも明暗や色彩感覚が残っているのかどうか、私には分からない。
 文章を読んでいて、なるほど視覚障害のある人の文章だなどとは、全く思えない。
 盲学校で学んでおられるし、点字を表現の手段としておられるし、白杖のことも出てくるから、かなりの視覚障害の方なのであろう。しかし、その行動力には驚嘆する。見えないはずの世界が、筆者の行動力と他の感覚を通して、視覚の確かな人の描写以上に描き出されている。豊かな才能と人並み外れた知力や探究心をお持ちの方なのであろう。作者が視覚障害者であることなどは、微塵も感じさせない文章力である。
 

 一番好きなエッセイをあえて選べば、冒頭の「冬を聴く 冬の夜の音」であろうか。寒柝の響きが、懐かしい遠い日の思い出を伴って、私の耳に聞こえてきた。

 この本の題名『空が香る』は、<夏>のなかの一編「夏の匂い 空が香る」から採られたようだ。
 とにかく、作者の俊才が煌めいているエッセイである。視覚障害を他の感覚が見事すぎるほど補っている。真似のできない生き方でもある。

 『そっと耳を澄ませば』も読んでみたく、Amazon  へ注文した。



      ⭐︎     ⭐︎     ⭐︎  ⭐︎     ⭐︎  ⭐︎  ⭐︎

  [余録]

 妹からシルバー人材センターへの支払いを済ませたと電話があったので、ついでに点字について教えてもらった。私は、点字に関して全く無知であり、上掲の本を読みながら、点字や点訳のことなど想像してみるが、頭に思い描けないことがたくさんあった。
 視力障害者である三宮さんは点字でエッセイを書かれるようだ。今日読んだ本も、誰かが点訳して出来上がったのであろうかと、そのプロセスを想像したりした。
 妹は長年、点訳の奉仕をしている。
 そこで、読んでいる本の作者が視覚障害であることや本の題名などを伝えた。
 私の言った題名を、妹が聞き直した。
 『空が香る』の「香る」の部分を、私が「おる」と言ったらしい。私が漢字で伝えると、妹は、「あっ、かおる ね」と言った。
 
 『アクセント辞典』で調べたところ、私のアクセントが間違っているのに気づいた。

 私が、日本語のアクセントを意識し始めたのは、国民学校の5年生であった。
 転校してきて、間もなくのことであった。
 担任の先生が休まれた日のこと。代わりに来られた先生が私を指名され、数学の問題を読まされた。
 果物のの発音を「な」と言ったところ、先生から、<「し」ですよ>と、注意された。
 同じ石見地方でも、住む場所によって、果物の呼び方ひとつとっても異なることを認識した。が、発音については懐疑もせず、先生がおっしゃるのだから、それが正しいのだろうと思っていた。
 が、長じて、梨の発音は、私の「な方が標準音であることを知った。

 以来、アナウンサーの発音と私の発音が異なるときも、すぐ『アクセント辞典』を調べる習慣がついた。
 今日はまた、妹との会話を通して、発音の誤りを知った。


 施設には、視覚の衰えで苦労される人、聴覚の衰えで会話しづらい人など、いろいろである。父も、晩年、次第に難聴になった。春が訪れると、<鶯は鳴き始めたか>と、私に尋ねたものである。私の方から、聞かれる前に父に季節の移ろいを伝えることもあった。

 老いによる視覚障害や聴覚障害は、過去の記憶を辿ることで、本来の色合いや音色を思い出せるからまだいい。幼くして障害を生じた場合は、一切無色なのであろうか? 聴覚障害の場合は、一切無音なのだろうか?
 目を閉じてみたり、耳を塞いでみたりしても、障害のある状態を体感することは難しい。
 が、70歳を過ぎてからであったが、急に停電し完全な闇となったとき、私は家の廊下で、方向感覚を全く無くした経験がある。あの闇が、視覚をなくしたときの状況であろうか?
 そして、聴覚障害の場合は、完全な無音の世界なのであろうか?
 見えること、聞こえることを当たり前のこととして生きているが、突然視力や聴力を失うことがないとは言えない。この度の読書は、ただ内容を鑑賞するだけでなく、改めて障害を抱えて生きる人生に想いを馳せたりした。

 私自身、歳を重ね、視力聴力ともに、徐々に衰えてはきたが、不自由は感じない程度である。
 ありがたいことだし、恵まれた機能を活かして生きなければとも思う。



  今日も、自室の窓から雲を眺めて、心遊ぶ。


 


    
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津田医院 へ

2022-01-25 | 身辺雑記
 定期検診を受けるため、津田医院へ行く。
 外出禁止の今、唯一許されている外出。
 気分が少々晴れ晴れする。
 常時いただく薬のほか、筋肉の痙攣に伴う痛みを緩和してくれる漢方薬と皮膚薬ダイアコート軟膏を処方していただいた。


 廊下の花瓶に挿してあった朱色の実に、Google lens を当ててみると、オオゴンセンリョウ(黄金千両)と出た。なるほど黄金。
 この植物を意識して見るのは初めてである。


 



 以前にも見たショウジョウソウ?
 それにしては、赤色の部分が乏しいように見えるけれど?


  



 水槽を住処と心得て、ゆらゆらと泳いでいる熱帯魚。人間のように喜怒哀楽の表情がないので、見た目には楽しそうに見える。
 が、果たしてどうなのだろうか?


 


 散歩では得られないひと時、外の空気を楽しんで、また自室に戻る。

 当県にも、「蔓延防止等重点措置」が27日から2月20日まで適用される様子。最速でも、2月20日より早く、自由が得られることはないだろう。
 今読んでいる『日本の歴史』(王朝の時代)でも、流行病が蔓延し、人々を苦しめた様子が記されている。
 自由のない、息苦しい日々であるが、戦争の不幸よりマシと考えて、耐えるしかないのだろう。
 罹患だけは免れたい。
 幼い日にはジフテリアに罹ったり、若き日には肺を病んだり、せめて晩年は無事であるようにと念じているが、オミクロン株に感染すれば、老女の明日はあるまい。
 しかし、どこにいても、絶対大丈夫ということはないだろう。
 施設でも、廊下の窓を一部開けて、換気に努めてくださっている。
 うがい、手洗い、体力保持など、自分でなすべき努力は怠りなくして、と思っている。


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1月25日の朝陽・夕陽

2022-01-25 | 身辺雑記
 朝陽も夕陽も、両方が眺められるという日は、一年に幾日あるのだろう?
 場所によっても、かなり異なるものかどうか?
 そんな統計は、探せばありそうな気もするが……。
 今日は、終日晴天というわけではなかったのに、運よく両者が眺められた。
 この時期、朝陽も夕陽も、まだまだ南寄りから昇り、南寄りに沈む。

 朝夕それぞれ、ひとときの僥倖に恵まれた。



     朝 陽


 





 



     夕 陽


 




 


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烏兎匆匆

2022-01-24 | 身辺雑記
 月曜日の午後は、部屋の掃除をしていただく日である。
 掃除してくださる方は、5年間にいろいろ変わったが、現在の人とはかなり長いお付き合いになる。

 「一週間が、あっという間ですね」
 と、挨拶され、
 「1月も、残りわずかですものね」
  と、私も応えながら、心のなかで烏兎匆匆という言葉を思い浮かべていた。

 広辞苑で確認すると、
 <(中国の伝説で、太陽には3本足の烏が、月には兎がすむとされたことによる)①太陽と月。日月。②歳月。月日。光陰。「ーー匆々」>
 と記されている。

 とにかく歳月が匆々と過ぎてゆく。<光陰矢のごとし>である。

 この調子でゆけば、一年もあっという間かもしれないが、そう易々とはいかないだろう。

 しかし、年が明けてからの速いこと!
 誕生日をさっと超えてしまった感じた。

 賀状を出したり受けたりする月のせいか、私よりは若いけれど、かなり高齢の旧知から電話がよくかかる。自身が老境に入り、自分より年長の私がどうしているかしら? と案じたり、ふと昔の縁を懐かしんだりしての電話であろう。

 「80になって、難聴になりましたが、なんとか聞こえます。
 コロナが終息したら、会いに行きます」

 と、いう電話が、今日もあった。

 昨日、妹に頼んで、家から持参してもらった今年の年賀状をもう一度読み直しつつ、いただいた賀状のなかに、私より年長の人は3人しかいないことに気づいた。たくさんの懐かしい人々が思い出せるが、みな鬼籍の人である。
 老いれば、寂しさが募るはず。


 今日も天気がよさそうなので、散歩に出かけようかと思ったが、心身がイヤイヤをするので、やめにした。

 幾度となく、自室の窓辺に立って、折々の山並みや空を眺めた。


 




 


 
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