3泊4日の旅を終えた。
京都の春を存分楽しむことができた。
始めの計画には組んでいながら、見ることの叶わなかったのは、醍醐寺の桜である。京都に着いた7日、お天気に恵まれていれば出かけたであろう。あいにく雨が降っていて、諦めざるを得なかった。
また先の楽しみに、と友人と話し合ったが、心の隅では、先の楽しみがあるだろうかと、すぐ思ってしまう。これが、若い日にはあり得なかった感慨である。
奥村土牛の「醍醐」という絵画に接して以来、本物の桜に会いたいと思い続けてきたのだが……。
まだ先があると信じていよう。
老いるのは人ばかりではない。
円山公園の枝垂桜も、老いていた。旺盛な美を誇っていた、かつての姿が脳裏にあり、あまりのみすぼらしさに、わが身の老いと重ねて、侘しい思いであった。
しかし、老いてなお美しい桜ではあった。往年の桜と比べるからいけないのだ。今の美を愛でればいいのに……。
そんな思いで、旅の最後の稿に、円山公園の枝垂桜を掲げておくことにした。
京都の春を存分楽しむことができた。
始めの計画には組んでいながら、見ることの叶わなかったのは、醍醐寺の桜である。京都に着いた7日、お天気に恵まれていれば出かけたであろう。あいにく雨が降っていて、諦めざるを得なかった。
また先の楽しみに、と友人と話し合ったが、心の隅では、先の楽しみがあるだろうかと、すぐ思ってしまう。これが、若い日にはあり得なかった感慨である。
奥村土牛の「醍醐」という絵画に接して以来、本物の桜に会いたいと思い続けてきたのだが……。
まだ先があると信じていよう。
老いるのは人ばかりではない。
円山公園の枝垂桜も、老いていた。旺盛な美を誇っていた、かつての姿が脳裏にあり、あまりのみすぼらしさに、わが身の老いと重ねて、侘しい思いであった。
しかし、老いてなお美しい桜ではあった。往年の桜と比べるからいけないのだ。今の美を愛でればいいのに……。
そんな思いで、旅の最後の稿に、円山公園の枝垂桜を掲げておくことにした。