今日(5月24日 )の『天声人語』は、次のような文章で始まっていた。
<新緑のなかでも楓(かえで)の葉の美しさは格別で、ゆえに古くから愛されてきた。吉田兼好は『徒然草』に「卯月(うづき)ばかりの若楓(わかかえで)すべてよろづの花・紅葉にもまさりてめでたきものなり」と書いた。初夏の楓は、どんな花や紅葉よりもみごとだと▼大空に手を伸ばす若き楓を眺めていると、………略………>
ここを読んで、私自身、カエデとモミジの区別をろくに吟味もせず、曖昧な使い方をしていることに気づいた。
草花舎で見せていただいた、下の盆栽(写真)をブログに載せ、私は<モミジ>と書き添えた。
が、後日、盆栽を育てられたHさんに偶然出会い、盆栽を見せていただいたことを話し、あれはモミジですか、カエデですかと尋ねた。
Hさんは、躊躇いもなく、カエデだと教えてくださった。(ブログも訂正)
その時も、両名詞の区別がよく分からないまま、カエデもモミジも同じか似たような植物だろうと、勝手に思っていた。だから、私は、家のモミジについて書くときも、その時々の気分によって、モミジと書いたり、カエデと書いたりしてきた。
『天声人語』を読み、このブログを書くにあたって、両者の違いについて、インターネットで調べてみた。その中に、モミジは葉の切り込みが深く、それの浅いのがカエデである、との説明をしている記事があった。両者の違いは、葉の形状らしい。
その気で見ると、Hさんの盆栽のカエデは、切り込みが浅い。
家の庭にあるモミジの枝先を切ってきて、白皿に並べてみた。
葉の色は、四種四様である。緑色、緑に赤色の滲んだもの、初めから臙脂色のものなど。(写真)
切り込みは、みな深い。(これこそ、モミジ?)
しかし、今、広辞苑で、モミジを調べ、また疑問がわいた。
広辞苑は、その意味を、①秋に、木々が赤く色づくことをモミジという。(注 これは常識。)さらに、②→カエデの別称。と説明している。(注 これによると、カエデ=モミジということになる。)
そういえば、小さな葉の紅葉🍁を、イロハカエデ、イロハモミジと、両方の言い方をするように思う。
要は、わが家の木を、モミジと言ったり、カエデと呼んだりしてきたのは、間違いではなかったのだろう。
ついでに『徒然草』を開いて、天声人語のコラムニストの引用文の出処を調べた。
見当が当たった。[第百三十九段 家にありたき木は]のおしまいの方に出ていた。
昔、友人数名と喫茶店に集い、<徒然草を読む会>を続けた。一週間に一度くらい、楽しんで集い、『徒然草』の二百四十三段の全てを読み、感想を話し合ったりした。
そんな日があったからこそ、比較的早く出処の 見当をつけることがきたのであろう。
引用文の載っていた第百三十九段の最後には、兼好の花への好みがうかがえる。
<草は山吹、藤、杜若(かきつばた)、なでしこ、池には蓮(はちす)。秋の草は荻(をぎ)、薄(すすき)、萩、女郎花(をみなへし)、藤袴、……(略)……>
と、続いて、
<此の外の、世に稀なる物、唐(から)めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いと懐かしからず。大方、なにも、珍しくありがたき物は、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうのものなくてありなん。>
と、結ばれる。
この部分を読んで、思わず頬が緩んだ。兼好の気持ちがよく分かると思いつつ。
兼好が、世に稀なる物、唐物などを好まず、新しいものをおもしろがる人を皮肉っているあたり、いかにも兼好らしいと思う。外来種になじむことができず、和の花を兼好は好んだのであろう。
覚えにくいカタカナ語の花の名前や風情より、和名を持つ昔ながらの花に親しみや懐かしさを覚える私の好みは、兼好に通じるものであるらしい。老女ゆえの思いもあるかもしれない。しかし、兼好のように、<さやうなものなくてありなん。>とまでは思わないけれど。
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今日の空。日に日に夏めく空となる。
(緑の葉は、椿の新葉。)