ぶらぶら人生

心の呟き

くちびる たいそう

2020-05-31 | 身辺雑記

 あゝ、五月が終わる。 

 いただいた便りに返事を書き、ついでに久しくご無沙汰の友だち二人にも、葉書や手紙を書いた。

 それが、今日の仕事。万事、能率が悪くなった。

 

 読んだのは、『まどみちお詩集』

 その中の一編に「くちびる たいそう」があった。

 ひらがなの詩。

 朗読して楽しむ。(このブログを読んでくださる方も、気が向けば、朗読してみてくださいね。)

 

  わらわないで できるかな

  くちびるたいそう

  は は はひふへほ 

  ほ ほ ほへひふは

  ははは はほ

  ほほほ ほは

  できた できた

 

  あわてないで できるかな

  くちびるたいそう

  ぱ ぱ ぱぴぷぺぽ

  ぽ ぽ ぽぺぷぴぱ

  ぱぱぱ ぱぽ

  ぽぽぽ ぽぱ

  できた できた

 

  もつれないで できるかな

  したべろたいそう

  ら ら らりるれろ

  ろ ろ ろれるりら

  ららら らろ

  ろろろ ろら

  できた できた

 

  まごつかないで できるかな

  したべろたいそう

  た た たちつてと

  と と とてつちた

  たたた たと

  ととと とた 

  できた できた

  

 やさしそうだが、時に舌もつれして、読みのリズムが崩れたり……。

 

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

  ヘメロカリスの蕾。

  (ユウスゲに似た黄色い花が開きます。)

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お悔やみ欄に

2020-05-30 | 身辺雑記

 今日は、少々気落ちしている。

 新聞のお悔やみ欄で、かつて一緒の職場で働いた同僚の訃報に接したせいである。

 昨年の賀状に、今年をもって新年の挨拶は終わりにしたい旨が記してあったので、今年は私の方からも賀状は送らなかった。

 新聞の記事によると、私より2歳下。

 胸をよぎる寂寥感は、年を追うごとに深まるばかりだ。


 本屋で、偶然出会ったのは、10年も前のことだっただろうか?

 その書店も、数年前に閉店。

 馴染みの人や物が、日を追って姿を消してゆく。

 しんしんと、心がこごえる。

 老いを生きることは、ずいぶん寂しいことでもある。


 夕べの庭に出て空を仰ぐ。

 雲は気ままに漂っている。

 ドクダミは、地所を広げて咲き誇っている。

 私は今日も、なんだかずいぶん頼りなく、それでも生きていて、コロナ禍に怯えたりしている……。

 

 

 

 

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『根に帰る落葉は』

2020-05-29 | 身辺雑記

 南木佳士著『根に帰る落ち葉は』を読み、エッセイの妙味を味わった。

 今までに、南木佳士の著作を幾冊か読んでいて、勝手に作者に親しみを感じている。

 今回のエッセイ集は、今年の3月に上梓されたものである。

 手元に届いた本は、5月に第2刷として出版された本である。

 初めて聞く出版社・田畑書店から発行された、ハードカバーの、体裁のよい小型本である。紙質もよく活字も読みやすい。文庫本ようであって、もっと上質の本を手にした印象である。(下の写真)

 [同書店からは、若山牧水のエッセイ集も出版されているようなので、いずれ入手して読みたいと思っている。]

 

  信州佐久地方の自然との接触は、旅人としての体験しかないのだが、作家・南木佳士の筆力によって、四季の空気感を存分味わうことができた。私の生活する、石見では味わうことのできない風情を羨ましく思いながら、一方で、想い出として心にある信州を懐かしんだりしながら。

 このエッセイ集は、作家の人生体験(医師でありながら、自らパニック障害やうつ病を体験)を通して、作家自身の、折々の人生体験や思索が記され作品集である。

 内容構成は、<前口上>(まえがき)に次いで、年代別に4区分されたエッセイが編集され、最後は<納口上>(あとがき)で終わっている。

 <前口上>と<納口上>以外は、かつて、新聞や雑誌に掲載されたエッセイである。筆者の体験談は重なり合う部分も随分あるけれど、それは一向に気にならずに読めた。

 今回のエッセイに登場した『山中静夫の尊厳死』と『医学生』は未読なので、早速Amazonへ注文した。

 芥川龍之介や坂口安吾の作品に触れた文章を読むと、それらも読み返したくなる。

 (所有する『現代日本文学体系』の中に出ている作品なので、そのうち読み返すことにしたい。)

 

  

 

 本の題名に関わる一文を引用しておくことにする。

 <………………略………………。

 急に寒くなった立冬の朝、濃い霧に包まれて歩いていたら、畑の脇の柿の木がいきなりすべての葉を落とし始めた。カサカサと遠慮がちの音をたてながらも激しく、葉は地面におおまかな円形を描いて積もってゆく。

 落葉帰根。おまえも、もう根に帰ったらどうだい、と葉っぱたちに諭されてなんだかうれしくなり、さらに歩を速めた。

 ………以下略。>「立冬の候」(日本経済新聞 二○二○年一月十二日)より

 

 1951年生まれの作家は、まだ前期高齢者。私は1933年生まれの後期高齢者であり、それも人生の最晩年にさしかかり、日々、覚束なく生きている。作者の表現にある<落葉帰根>の思いをしばしば心に巡らせながら。

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アカカタバミ

2020-05-28 | 小庭の四季

 家に蟄居していると、夏が来ているとは思えない。胸のあたりがなんとなく冷え冷えとうそ寒い。

 が、戸外に出ると、眩いほどの日差し!

 纏わりつくような熱暑。

 人影はないが、鳥が囀っている。

 高い電柱やアンテナの上で。どこに向かって、囀り続けているのだろう?

 

 電柱のてっぺんにいる小鳥。

 囀りだけでは、何鳥か分からない。

 

 隣家のアンテナにいるのは少し大型。

 ヒヨドリではないかしら?

 どちらも、賑やかな囀りである。一大事でも起こったかのような。

 

 その点、植物は静かである。

 アカカタバミが、午後の日差しを受けて、小さな花を開いている。

 日差しが翳ると、ひとりでに花弁を閉じ、おとなしく眠る。

 

 

 

 1センチほどの鮮黄色の花。濃い赤紫色の葉と茎も、細く小型である。

 植物は、いつも黙して静かである。

 

 加島祥造著『求めない』より

 あらゆる生物は求めている。

 命全体で求めている。

 一茎の草でもね。でも、

 花を咲かせたあとは静かに

 次の変化を待つ。

 そんな草花を少しは見習いたいと、

 そう思うのです。

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街中のバラ

2020-05-27 | 身辺雑記

 久しぶりの外出。

 ひと月一度の美容室へ。

 途中、思わず足を止めて眺めたバラ。

 

 

 外食も、久々のこと。

 妹と<すし蔵>へ。語らいと食事を楽しむ。

 味よく、思わずたくさんいただき、今晩は食傷気味。

 考えてみると、二食分くらい食べたのかもしれない。(食が細くなっていることも忘れて。)

 握り寿司以外の<あさりの味噌汁>、デザートの<苺バンナコツタ>も美味しくいただいた。

 


 ☆ <あさりの味噌汁>といえば、北海道・厚岸の食事処でいただいたアサリの極上の味を思い出す。美味佳肴というのは、いつまでも舌と心に残るものらしい。

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観察(庭の花など)

2020-05-26 | 小庭の四季

 『美しき小さな雑草の花図鑑』の写真を眺めたり、文章を読んだりした影響であろうか、花の細部が気になり始めた。

 小雨のわずかに残る庭に出て、花を覗き込んだ。 

 視力の弱った眼で観察するより、カメラのレンズを通して眺める方が、小さな花の精緻な構造を、鮮明に観察することができた。

  花はそれぞれに、なんと個性的で、怪しい美を備えていることだろう!

 

 

 サクラウツギの花

 

 

 ムラサキゴテンの花

 

 

 シモツケの花

 

 

 ドクダミの花

 

 

 マツバボタン(?)の花

 

 

 ジューンベリーの実(実の色、様々)

 

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

  老いの自覚を深めながら生きる日々、自分自身に対して、過剰なものを求めすぎているような気がする。老いとは、かつて心身に備わっていたものを日々消失していくことであると自覚しながらも……。

 ふと、加島祥造さんの本を読み直そうと書棚から取り出した。(写真)

 

     

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山法師の花咲いて

2020-05-25 | 小庭の四季

 花の咲かない ヤマボウシとして、毎年新緑と紅葉を楽しんできた。

 ところが、昨日、わずか4個ながら、花が咲いているのに気づいた。

 どうしたことなのだろう?!

 嬉しいけれど、異変としか思えないほど、花には無縁の木であった。

 この木は、私にとって、<還暦の記念樹>である。

 当時95歳だった父からもらった祝いの一部を植樹に当てて、ヤマボウシとハナミズキを植えた。


 二本の木は、随分接近して植えられた。

 素人の私からすると、とんでもなく近い距離に思えた。

 「そんなに近くて、大丈夫ですか」

 と、思わず尋ねずにはいられないほど。

 問題ない、との説明だったが、ハナミズキの方は、こじんまりした背丈のままで、ついに花をつけることはない。

 したがって、これまでは、ヤマボウシもハナミズキも、花を楽しむ樹木ではなく、葉色の移ろいを楽しむだけであった。


 今年の花は、老女の私へのプレゼントとなのかもしれない。ありがたく花を眺める。

 花は、細く伸びた茎の上に咲いている。

 

 

 

  

 

  

  花は、中央の球形部分。淡黄色の小さな花が寄り集まっている。

  花弁かと思える周囲の白い4枚は、総苞片というのだそうだ。


   今、木斛(モッコク)の葉が、艶やかで美しい。

  


   シモツケの小さな花が、やっと咲き始めた。

  

 

  

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カエデとモミジ

2020-05-24 | 身辺雑記

 今日(5月24日 )の『天声人語』は、次のような文章で始まっていた。

 <新緑のなかでも楓(かえで)の葉の美しさは格別で、ゆえに古くから愛されてきた。吉田兼好は『徒然草』に「卯月(うづき)ばかりの若楓(わかかえで)すべてよろづの花・紅葉にもまさりてめでたきものなり」と書いた。初夏の楓は、どんな花や紅葉よりもみごとだと▼大空に手を伸ばす若き楓を眺めていると、………略………>

 ここを読んで、私自身、カエデとモミジの区別をろくに吟味もせず、曖昧な使い方をしていることに気づいた。

 草花舎で見せていただいた、下の盆栽(写真)をブログに載せ、私は<モミジ>と書き添えた。

 が、後日、盆栽を育てられたHさんに偶然出会い、盆栽を見せていただいたことを話し、あれはモミジですか、カエデですかと尋ねた。

 Hさんは、躊躇いもなく、カエデだと教えてくださった。(ブログも訂正)

 

 

 その時も、両名詞の区別がよく分からないまま、カエデもモミジも同じか似たような植物だろうと、勝手に思っていた。だから、私は、家のモミジについて書くときも、その時々の気分によって、モミジと書いたり、カエデと書いたりしてきた。

 

 『天声人語』を読み、このブログを書くにあたって、両者の違いについて、インターネットで調べてみた。その中に、モミジは葉の切り込みが深く、それの浅いのがカエデである、との説明をしている記事があった。両者の違いは、葉の形状らしい。

 その気で見ると、Hさんの盆栽のカエデは、切り込みが浅い。

 

 家の庭にあるモミジの枝先を切ってきて、白皿に並べてみた。

 葉の色は、四種四様である。緑色、緑に赤色の滲んだもの、初めから臙脂色のものなど。(写真)

 切り込みは、みな深い。(これこそ、モミジ?)

 

 


 しかし、今、広辞苑で、モミジを調べ、また疑問がわいた。

 広辞苑は、その意味を、①秋に、木々が赤く色づくことをモミジという。(注 これは常識。)さらに、②→カエデの別称。と説明している。(注 これによると、カエデ=モミジということになる。)

 そういえば、小さな葉の紅葉🍁を、イロハカエデ、イロハモミジと、両方の言い方をするように思う。

 要は、わが家の木を、モミジと言ったり、カエデと呼んだりしてきたのは、間違いではなかったのだろう。


 ついでに『徒然草』を開いて、天声人語のコラムニストの引用文の出処を調べた。

 見当が当たった。[第百三十九段 家にありたき木は]のおしまいの方に出ていた。

 昔、友人数名と喫茶店に集い、<徒然草を読む会>を続けた。一週間に一度くらい、楽しんで集い、『徒然草』の二百四十三段の全てを読み、感想を話し合ったりした。

 そんな日があったからこそ、比較的早く出処の 見当をつけることがきたのであろう。


 引用文の載っていた第百三十九段の最後には、兼好の花への好みがうかがえる。

 <草は山吹、藤、杜若(かきつばた)、なでしこ、池には蓮(はちす)。秋の草は荻(をぎ)、薄(すすき)、萩、女郎花(をみなへし)、藤袴、……(略)……>

 と、続いて、

 <此の外の、世に稀なる物、唐(から)めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いと懐かしからず。大方、なにも、珍しくありがたき物は、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうのものなくてありなん。>

 と、結ばれる。

 この部分を読んで、思わず頬が緩んだ。兼好の気持ちがよく分かると思いつつ。

 兼好が、世に稀なる物、唐物などを好まず、新しいものをおもしろがる人を皮肉っているあたり、いかにも兼好らしいと思う。外来種になじむことができず、和の花を兼好は好んだのであろう。

 覚えにくいカタカナ語の花の名前や風情より、和名を持つ昔ながらの花に親しみや懐かしさを覚える私の好みは、兼好に通じるものであるらしい。老女ゆえの思いもあるかもしれない。しかし、兼好のように、<さやうなものなくてありなん。>とまでは思わないけれど。

 

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

    今日の空。日に日に夏めく空となる。

 

   (緑の葉は、椿の新葉。)

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『美しき小さな雑草の花図鑑』が届いて

2020-05-23 | 身辺雑記

 品切れになっていた本が届いた。

 手に取り、ページを捲ると、細密な写真が目立つ本だが、 文もまた秀逸!

 日々、いろいろな文章に接する。が、読んで、心に快く馴染む文と、気取りばかりが目立って性に合わないものもある。

 この本は、文学的な表現の求められるものではないけれど、表情豊かな<良い文>である。

 なんだろう? この快さは! と思いつつ、美しい写真を眺め、説明の文章を味わう。

 雑草に対する知らない世界も拓けてくる。


  『美しき小さな雑草の花図鑑

  大作晃一・写真 多田多恵子・文

  

 

 ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)のページ

 


 カルメンの黒髪に似合いそうな赤いケシの花。

 地中海地方から放浪してきて、ミレニアム以降に増えました。

 と、書き始められ、短い解説の中にナガミヒナゲシが紹介される。

 地中海あたりからやってきて、日本の風土に馴染んで20年。出会えてよかった花の一つである。


  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 朝は暖房、昼過ぎから夕方にかけては冷房を入れる。

 体調も気分も冴えない一日。気温の変化に、心身を合わせにくい日であった。

 昼前、上掲の本が届き、心救われる。

 作家・南木佳士著『根に帰る落葉は』(エッセイ集)が出版されたと、赤旗日曜版に出ていた。アマゾンへの注文を試みたが、まだ取り扱われていなかった。

 小説『ダイヤモンドダスト』以来、愛読してきた作家であり、久しぶりのエッセイ集も、ぜひ読みたい。

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ひと時の景

2020-05-22 | 寸感

 昨日、ジューンベリーの実の膨らみ具合を眺めているときのことだった。

 実になりすまし、じっと静止している昆虫を発見。

 実が美しく熟し、美味しくなるころには、必ず群れをなしてヒヨドリがやってくる。

 私の場合、食するより、美しい実の風情を楽しみたいのだが、見事にヒヨドリに食べられてしまう。

 それは、毎年、体験することであるが、青い実を狙う昆虫の存在は、全く知らなかった。

 昨日も、蝕まれた実に気づかなかったら、小さな虫の存在など、目に入らなかったはずである。

 優れた模倣!

 この隠蔽的擬態は、昆虫の本能的な知恵なのであろう。

 生き延びるために、擬態で命を繋ぐ生物は、この虫に限らない。

 (見え見えのごまかしは、人の世にも、最近特に、珍しいことではないけれど。)

 

 


 タンポポの冠毛が二つ並んでいた。

 儚く移ろう短命の、象徴的風景。

 

  


 四つ並んだシロシキブの実。その色合いも変化し続ける。 

 黒紫色に熟しきるまでの一過程として、今日は、今日の色合いで存在している。

 

 


 人の生涯も、絶えず一瞬を刻んでいる点では同じなのだろう。

 早々と過ぎゆく老いの日々の中で、私も、今日という日を覚束なく生きている。

 

 

 

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