ぶらぶら人生

心の呟き

賢くなった!

2006-06-30 | 身辺雑記

 六月も今日で終わり。
 烏兎怱怱!
 今年が半分過ぎてしまった。
 ブログ開始から、三か月があっという間だった。三日坊主に終わらず、書くことを楽しみながら、継続できたことが嬉しい。
 しかし、人のブログを拝見すると、編集の仕方一つみても手が込んでいたり、発想の面白さがあったり、書き並べるだけの私のものとは大違いだ。牛歩に似て進歩の遅い私だが、ゆっくりゆっくり歩んでゆこうと思う。

 今朝、新しいトラックバックが入っているのに気付いた。
 長田弘の詩に触れて書いたのは、かなり前なので、あるいはこのトラックバックは、以前に入っていて、気付かないまま日を重ねたのかもしれない。
 開けてみると、大きな向日葵の写真と長田弘の詩が載っていた。まとまりのいい、味のある詩だ。その後に、長田弘の本が紹介してあった。
 早速、紹介の本「死者の贈り物―詩集」をクリックして、書店アマゾンに注文。ついでに同作者の「深呼吸の必要」「記憶のつくり方」も注文。
 本の到着が楽しみだ。

 昨夜、携帯カメラで撮った写真をパソコンに取り込もうと、四苦八苦した。一度教えてもらったことなのに、手順が思い出せない。あの時メモを取らなかったのが、間違いだったと後悔したが、今更どうしようもない。
 ブログへの送信は、幾度か試みて成功しているのだが……。
 「しまね花の郷」の写真をA4用紙に編集したいのに、それができない。
 パソコンを始めて以来、この二年余、事あるごとに記憶力の減退を感じる。学んだことが定着しないのだ。
 生徒の時には、一度聞けば大体記憶できた(?)と思うのに、今や劣等生さながら。
 恥を忍んで、もう一度聞くことにした。
 パソコン教室に電話すると、運よくブログや携帯カメラの指導をしていただいたWさんがおられ、操作手順を今一度指導してもらった。
 やっと成功!
 優しい指導者に感謝 心の中では、なんと飲み込みの悪い生徒だろう、とあきれられているのかも知れないと思いつつ、私の方は達成感でルンルン気分だ。
 少し賢くなった。今度は同じことで、指導者に教えを請わなくてもいいように、しっかりメモしておくことにしよう。

 A4二枚に「しまね花の郷」の写真を編集することができた。「湯宿 草庵」は、デジカメで撮った写真をA4三枚に編集した。
 友人と旅した一泊二日の想い出を、簡便な記録として残すことができた。
 早速友人にも、想い出の写真を届けよう。

 かくして、六月は去りぬ。

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しまね花の郷

2006-06-29 | 旅日記

 規模は小さいが、花の楽園!
 今まで訪れたことのある「とっとり花回廊 」修善寺の「虹の郷」などに比べれば、「しまね花の郷」は、公園の総面積においても、周囲に大山や富士山が眺められるといった、風景のダイナミックさにおいても、随分見劣りはする。
 そういえば、二つの庭園に見られた、お伽の国を思わせる、小さな電車やバスなど、公園内を走る乗り物もない。
 自分の足で、ゆっくりと、全庭の花々を見て回れるよさのあるのが、
               「しまね
 管理が行き届き、今の季節の花々が、美しい彩りで咲いていた。始めて見る白い紫陽花など、珍種の花も楽しめた。向日葵も花期を迎え、幾種類か異なる色の花が咲いていた。丈が低いので、整然としていて、美しい。
 本館で受付を済ませ、歩廊を歩きながら、花を眺める。更に、花の小径、ハーブ園、花の丘、模様花壇、温室、花の水辺などを巡った。
 もっといい季節なら、ゆっくり花を眺めて寛ぐとよさそうだが、今は梅雨、湿気が多くて、決して快適とはいいがたい。
 それぞれの花々に、ちょうっとご挨拶した程度で引き上げた。(写真は携帯カメラで)


 〈追記〉 友人が「面白そうな宿がある。行ってみない?」と誘ったので、急に一泊の旅を思い立った。パソコンで調べたり、予約したりは私の仕事。
 6月27日正午に出発。
 湯の川温泉 湯宿「草庵」の雰囲気やもてなしに満足し、28日朝、山陰線の庄原駅までは宿の車で送ってもらった。歩いても五分の距離なのだが、宿の人の親切に甘んじて。
 早朝のひと時、雨が降った。今日こそは雨かしらと、案じたのは束の間のことだった。旅程には関係なく、日中は日差しの漏れるお天気になった。
 折角出雲の温泉に来たのだから、ついでにどこかに寄ってこようということになった。が、二人とも、出雲の名所旧跡は大方歩いている。
 観光案内所によって相談し、「しまね花の郷」に行くことにした。
 事前の準備がなかったので、その場所も分からない。尋ねると、西出雲の駅に近いのだという。すでに荷物はロッカーに預けていたので、再び出雲駅に引き返すことにして、一駅間を往復した。
 気付くとバッグにデジカメがない。荷物を預ける時に、カバンの中に入れてしまったらしい。仕方なく、携帯電話のカメラで、花園を撮影。
 旅をすると、何か一つや二つの失敗をする。それも旅の記念ということで、諦めるしかない。
 それより今は、携帯の写真をパソコンに取り入れる方法が思い出せず、その方が心配になっている……。
 
 
 
 

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日本三美人の湯(湯の川温泉)

2006-06-28 | 旅日記

 湯の川温泉は、「日本三美人の湯」と称されているのだそうだ。
 湯質が、女性の肌を美しくする効果をもつということらしい。
 私たち老女にとっても、効果ありや否や?
 その効き目など全く信用せず、ただゆったりと心身を寛がせ、温泉に憩うことを楽しんだ。

 なんといっても、自分の占有物のように、貸切で入浴できるのがいい。
 贅沢な気分だ。
 三つの浴室は、みな少しずつ趣が異なっている。
 どの浴室も、庭の風景を眺めながら、湯浴みできるようになっており、半露天風呂の様式になっている。
 自然の風を感じながら、自然と一体になりながら、お湯を楽しめるのは、嬉しいことだった。
 お風呂の棟も独立しており、部屋からは樹木の中を歩いて、そこに行き着くことになる。
 雨の日用には、からかさが用意されている。傘に雨音を聞きながら歩くのも、それなりに趣があるだろう。が、私たちはお天気に恵まれた。

 到着した日の夕食前、夕食後(就寝前)、そして今朝(6月28日)と、計三回、別々のお風呂に入って、異なる浴室の味わいと、少しずつ異なる風景を楽しんだ。

 「日本三美人の湯」とは、私たちが訪れた島根県の湯の川温泉と、和歌山県の龍神温泉・群馬県の川中温泉を指すのだという。
 誰が、どんな基準で、どのようにして、決めたのだろう?

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湯宿 草庵(湯の川温泉)

2006-06-28 | 旅日記
 部屋に寛ぐと、目の前に広い庭が広がる。その庭はそれに続く低い山を借景としている。今は緑が多く、色彩的には変化に乏しい眺めだが、四季折々、庭の風情を楽しめるよう樹木が植えられ、その種類は豊富だ。
 都会の騒音と無縁の、田舎の持つよさが、一帯に広がっている。

 十室だけの小規模な湯宿だが、どの部屋もみな、庭に面して窓が開かれている。
 <草庵>の名が、似つかわしい宿である。

 飛騨の高山から、古民家を移築して造られたというお食事処は、宿泊施設とは棟を異にしており、それだけで雰囲気を楽しめるようになっている。
 夜の明かりが、いっそう趣を演出する趣向になっている。

 料理は、夜も朝も、ひときわ工夫が凝らされていて、味は申し分なく美味、目にも美しくて、大満足だった。
 今朝(6月28日)、宿を出る前にいただいたコーヒーも、喫茶室のテーブルや椅子の一つ一つが吟味されているため、その雰囲気もプラスされて、いっそう美味しくいただくことができた。

 夜がふけると、しじまの中を、庭池の蛙たちが大合唱を始めた。が、不思議なことに、ずっと鳴き続けるのではなく、しばし鳴き止んでは、しんと静まる瞬間がある。まるで一つの楽章から次の楽章に移る間をとっているかのように。

 日本的な、古い良さを存分味わうことのできる湯宿「草庵」は、昼も夜も、ひっそりとしていて、ひとりでに心を和ませてくれる、いい宿だった。
 雅や静寂を好む人には、きっと喜ばれる湯宿であろう。
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「おちらと どうぞ」(湯の川温泉「草庵」)

2006-06-28 | 旅日記
 湯宿「草庵」には、受付に通じる入り口にも、宿泊の各部屋の前にも、民芸調の行灯が置いてあり、そこには「おちらと」と、やはり民芸調の、ちょっとおどけたような、趣のある文字が書かれている。
 「おちらと」とは、どういう意味だろう?
 考えても分からない。
 そこで、宿の人に尋ねてみた。
 「出雲では、<ごゆっくり>という意味で使います」との返事。
 出雲地方独特の方言、ということらしい。
 「実際には、どんなふうに使うのですか」と、重ねて尋ねると、
 受付の女性はにこやかに、「おちらと どうぞ」と、改めて歓迎の意を示された。
 なるほどと納得した。
 実際に音声語として耳にすると、その語感と、受付の人の所作とから、温かい雰囲気が伝わってきた。
 客である私たちは、「ごゆっくり どうぞ」と、歓迎の言葉で、出迎えられていたのだ。行灯の柔らかな光とともに。

 ゆっくり、いい時間を過ごせそうな予感を抱きながら、私たちは、用意されたお部屋「雅楽」に寛いだ。

 しかし、「おちらと」の語源は、依然としてよく分からない。
 
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湯の川温泉 草庵

2006-06-28 | 旅日記
 梅雨晴れに恵まれ、湯の川温泉に遊ぶ。湯宿「草庵」の門をくぐると、そこには心和む空間があった! (携帯カメラで)
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命の誕生 つづき

2006-06-26 | 身辺雑記

 雨上がりの朝となった。
 昨日、大阪にいる妹が、紫陽花の藍色の花を添付したメールをくれたので、私も、庭の花を携帯のカメラで撮って、送ることにした。
 さて、何を送ろう?
 私の庭には、自慢するほどの花はない。
 裏庭に今咲いているのは、白百合、桔梗、紫陽花、額紫陽花、未央柳……。
 それらをとりあえずカメラに収めた。

 ついでに、前庭の小さな花壇にまわってみた。
 折角、庭師さんに作ってもらった花壇だが、私の手入れが悪く、台無しだ。作庭のとき、植えてもらった「セイヨウノコギリソウ」「キンギョソウ」「キョウカノコ」など、みな大きくなりすぎている。風情も何もない。
 私は、自己主張をしすぎず、ひそやかに、かそけく咲く花が好きなのだ。
 <この花壇、いかにすべき?>などとオーバーに悩みながら、佇んで思案する。
 ふと中央をみると、見知らぬ草花の上に、小さな虫が止まっている。
 なんという美しい衣をまとっていることか! きっと孵化して間がないのだろう。透き通るような薄緑色の小さな命が、花の上にじっとしている。
 暫く、誕生したばかりの虫を眺めた後、持っていた携帯カメラに収めた。

 通信文は簡略にして、庭の花々を妹の携帯に送った後、私のパソコンにも、虫の写真を送信してみることにした。
 パソコン教室で、教えてもらった操作方法も、時おり試さないと、老化した頭はすぐ忘れてしまう。
 タイトルを「命の誕生」とし、短文を添えて送信してみた。
 無事に届いてはいたが、写真を拡大してみても、虫の姿が分かりにくい。

 もう一度、今度はデジカメを持って庭に出た。
 まだ虫は元のままの姿勢でじっとしている。デジカメなら、少しは鮮明な写真が撮れるだろうと、シャッターを押した。
 写真の技術がお粗末なので、携帯のものと五十歩百歩だが、こちらが少しはましな写真になった。添付の写真がそれである。

 この虫は何?

 身辺、知らないことだらけで、いやになる。この程度の無知は、命に関わることではないからまあいいか、そうは思いながら、やはり気になる。
 昔の文部省唱歌「虫の声」を口ずさんでみる。

 <あれ松虫が鳴いている ちんちろちんちろ ちんちろりん>(♪♪♪♪♪)

 
松虫に次いで、鈴虫、蟋蟀、くつわ虫、馬追と、歌詞の中には、その鳴き声とともに、秋の虫が次々登場する。
 この中で、姿が鮮明に思い浮かぶのは、鈴虫。
 かなり昔の話になるが、ひと夏、友人から貰って飼ったことがある。声は十分楽しめたけれども、飼育箱の、最後の光景があまりにも哀れで、二度と飼おうとは思わなかった。それに、私の家の周辺では、秋になると、居ながらにして鈴虫の声を聞くことが出来るのだから。
 蟋蟀もよく知っている。が、その他の虫については、見分ける目を持たない。
 そういえば、歌詞に出ていないもので、キリギリス、バッタなどもいる。
 私の撮影した虫は、結局何虫なのかよく分からない。歳時記の写真を見たり、説明を読んだり、インターネットも開いてみたりしたのだが……。

 その虫が止まっている花の名も分からない。植えた覚えがないので、雑草の可能性が高い。
 先日、近所の友達に崖の草刈をしてもらったとき、花壇を眺めていた友人が、
 「セイタカアワダチソウがある、これは大変!」
 と言いつつ、抜き取ってくれた。
 昨年は、「まあ、タイショウグサが生えている。これは根を張るから、抜いておこう」と言って抜いてくれた。
 私は雑草作りの名人かもしれない。
 セイタカアワダチソウの大きくなった姿は分かるが、あの嫌われものの外来種の植物だって、小さいときはそれと見分けがつかない。そのうち、いい花を咲かせてくれるかも知れないと、いずれの草々も、様子見をすることが多い。
 根を張りすぎる雑草として嫌われるタイショウグサは、大将のように威張って、大きくなるのだろうか。これも成長した姿を私は知らない。

 動物にしても、植物にしても、その名を知らないものばかりだ。
 二時間後に、また庭に下りてみたが、虫の姿はすでになかった。
 きっとどこかで成長して、秋にはいい声を聞かせてくれるだろう。

 妹からは、折り返し、返信が届いた。
 「お花のシリーズ、ありがとうございました。一番のお気に入りはピンクの額紫陽花です。かわいいですね!早速携帯の待ち受け画面に設定させていただきました。」と、(*^_^*)と♪が添えてあった。

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命の誕生

2006-06-26 | 身辺雑記
朝の庭をぶらぶら。知らない花に小さな虫! 誕生したばかり?(携帯カメラで)
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父のラジカセ

2006-06-25 | 身辺雑記

 先日、テレビを買い換えた。例の薄型テレビ、ナショナルの「ビエラ」を、近所の電気店の勧めで求めた。
 不要になったテレビ、物入れを兼ねたテレビ台、リモコンなど、すべての処理も電気店に依頼した。そのとき、テレビ台の棚にあったのが、写真のラジカセである。
 「これも処理してくださいね」
 そう、電気屋さんに頼んだ。
 私の寝室には、もっと上等の横長の「ポータブルステレオCDシステム」があるし、居間には、その後に求めた、更に新しい縦型の「ステレオCDシステム」がある。それで十分だとの思いもあった。
 「これ、まだ使えますよ。電池を入れ替えたら……。コードもついてるし。持ち運び出来て便利ですよ、お使いなさい」
 「そう?」
 父が使っていたものとは分かっていたが、死後十二年も放置していたものが、果たして使えるだろうか、と訝りながら、買い置きの電池を取り出して、電気屋さんに渡した。
 電池を換えてもらうと、入ったままになっていた英語学習のカセットテープが、突然、大きな音で鳴り響いた。電気屋さんは、慌ててボリュームを調整し、ラジオに切り替えて、チャンネルを合わせながら、
 「ほら、十分使えます」
 と言いつつ、私の方へラジカセを寄こした。
 私は、改めて赤いラジカセを手に取って眺めた。
 その底の部分を見ると、マジックインクで「H 4、1、20」と、購入日が記載してある。

 H 4 年の 1 月と言えば、まだ母も命を繋いでいた。母の体調がとみに悪くなって四度目の入院をしたのは、その年の 4 月であり、他界したのは 7 月の末であった。
 私は父の書き記した年月日を見ながら、その当時の父の年齢を勘定して驚きを覚えた。
 父は、その年、94歳――

 父の生存中に、私は父と生き方について話し合ったことなどない。
 ただ父は、黙々と生きていた。社交性はない方で、職を辞してからは、ほとんど世間と交わらず、自分の意のままに生きていた。長患いの母に寄り添いながら。
 その傍ら、自己管理には気を使っていたようだ。
 よく歩く父だった。一日に10キロは歩いていた。雨の日も風の日も、というのが父のスタイルだった。毎日、歩いたキロ数を日記に記し、累計数を記入し、ついに世界を一周した、と嬉しそうに話したのを覚えている。
 他の日課と言えば、一日に必ず一回は数学の本を開き、数式を解いていた。現在は、認知症対策として、単純計算がよいといわれているが、父のはもっと高度な数学だった。そして、よく本を読んだ。
 どの程度上達したかは知らないが、俳句も作っていた。NHK俳壇に投句していたようだ。祖父に倣ったのかもしれない。しかし、「ホトトギス」に投句していた祖父の力量には及ばなかったのでは、と勝手に思っている。
 そして、いつからか、英語の学習も始めていたのだ。テキストとテープを使って。
 九十を過ぎてなお何かを吸収しながら生きようとする姿勢は、立派なことかもしれない……。
 その名残が、先日、テレビ台の棚から出てきた、ラジカセとテープである。

 私は、妹たちから、性格が父に一番似ていると言われる。よく努力すると……。
 どうだろう?
 私も社交的な交わりは苦手で、ひとりで自分のしたいことをするのが好きな点では、似ているかもしれない。
 が、どうみても父ほど努力はしない。努力が気まぐれだ。七十になってパソコンを始め、ブログに挑戦し、飽きもせず毎日下手な作文を投稿してみたり、何に役立てようというのでもなく、長年中国語を勉強してみたり、……表面的には、父に少し似ているかな? と思う。
 決定的に違うのは、体調管理だ。健康のためには歩くことが一番と、テレビなどが一様に勧めると、余計歩きたくなくなる。用事もなく、歩くために歩くのが、どうしても好きになれない。本当は好き嫌いの問題ではないのだろうけれど。
 それでも、最近の脚の弱りは、自分自身でよく分かっている。そこで、いつでも暇な時に、家の中で脚を鍛えようと、「田中式ストレッチング・ステッパー」なる器具を求めた。場所をとらないし、万一使わなくても、そう高価ではないから、金銭の無駄遣いをしたという悔いを残さなくてすむだろう、との考えで。
 そういえば、父は晩年、外歩きに危険を感じるようになってからは、家の中で運動できるように、結構場所をとる、大きな器具を買って自室に置いていた。それを使っての運動も怠らなかったし、廊下を何往復もして、脚が弱らないように努めていた。
 (父の使っていた、高価な運動器具は、父の死後、欲しいと言う人にあげてしまった。)
 私の方は、求めた器具を横目でちらと見ながら、めったにそれに足を乗せようとはしない。意志薄弱である。あしなえの危機はかなり近くまで迫っているのに、<買い物のために今日は外出したから、まあいいか>などと、言い訳をしている。
 やはり父の意志の強さには遠く及ばない。私は怠け者の典型である。

 父がラジカセを求めた年までには、まだ二十余年がある。二十年といえば、相当な歳月である。そこまで父のように生きられれば、何か大いなる(?)仕事が出来そうな気がする。が、残念ながら、生き長らえることも、何かを成し遂げることも、99パーセントだめだと自覚している……。この諦めの気持ちが、そもそもいけないのだろうけれど。

 私はこの稿を書きながら、今、父のラジカセで、モーツアルトの「ピアノ協奏曲第 20 番ニ短調 K.466」を聴いている。その曲の調べに、少々もの悲しさを覚えながら。

 

 

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紫陽花の季節

2006-06-24 | 身辺雑記

 今年も、紫陽花の咲く季節になった。
 家の庭にも、ごく普通のものと額紫陽花と、二本がそれぞれに花を咲かせている。例年より少し遅れ、花も少々小ぶりだが、一昨日の雨で、花弁に生気が蘇った感じである。
 今朝、鉢植えの植物に水遣りをしようと、紫陽花の傍を通ると、木が茂りすぎて通路が狭い。そこで、体に触れそうになる花を三本切りとり、花瓶に挿した。

 花を眺めているとき、ふと、O さんのことを思い出した。お訣れして幾年になるのだろう? 紫陽花の咲く頃になると、大きな眼の、表情の豊かな風貌と、ボリュームのある声の詩人、O さんを思い出す。

 インターネットを使い始めて、大方のことはネット上に出ていることを知り、あるいは O さんの事だって出ているのかもしれない、そう思いつつ、検索すると、やはり出ていた。
 最初の画面を見て、おや? と思った。第三番目の欄に、<J さんの作品>とある。
 O さんとJ さん。その結びつきはごく自然なことである。私を含めて、かつての雑誌仲間だからである。
 ひょっとして、J さんとは、N・J さんのこと?
 私は迷わず、真っ先に<J さんの作品>を開けた。やっぱり、そうだった!

 実は、J さんの賀状に、時折、妻のブログにエッセイを書いている、と記してあった。あれは二年前のことだっただろうか。「○○○○花通信」だということも記されていたので、時間をかけて、検索もした。が、同名のブログは非常に多く、J さん夫妻のものには行き着けなかった。アドレスを教えてもらわない限り、ご縁はないだろうと、とっくに諦めていた……。
 ところが、紫陽花を眺めてO さんを懐かしみ、だめでもともとと思いながらO さんを検索した、そのページにJ さんのブログがあったのだ。しかも、O さんに触れたエッセイが記されて!
 「『幸福』ということ」と題されたエッセイの主眼は、O さんのことではないが、一段落は、O さんの詩と晩年の詩作について書いてあった。
 <モダニズムという潮流にのって難解な詩人として文学的出発をしたO 氏も、ガンの末期になって、仏教的無常観に満ちた詩を書くようになった。……>との書き出しで。
 
 暫くJ 夫妻のブログを読み、私の単純なブログと違って、大変手の込んだものであることに感心したり、夫妻共々病気を抱えての生活なのに、生きる姿勢の、何と前向きなことだろうと、驚嘆したりした。

 その後、やおら雑誌「O・H氏追悼特集」号を出してみた。
 O さんの死から、もう十六年が経ったことを知った。
 私は、その追悼文に、O さんの「幸福(しあわせ)」という比較的長い詩に触れて、次のように書いている。
(前文略)私の住む石見の地方が舞台として登場する唯一の詩である。
 その詩は、〈三江線は雨でした ぽつんと一輌〉と、いかにも山陰路らしい、わびしい光景で始まっている。
 広島・府中の紫陽花寺への旅程として、わざわざ山陰線・三江線経由の、遠回りの旅をしながら、来し方を考え、多くの人から受けた愛に感謝する、といった思いのつづられた詩である。
 その旅のときだったのだろう。「Mを通りましたので……」と記るされたはがきをいただいたのは。これがOさんの自筆による最後のお便りとなった。昨年の梅雨のシーズンであった。
 逝去の知らせを受けた六月十三日は、梅雨のさ中とは思えぬ好天であった。私の家の庭に咲いた、あでやかな紅紫色の紫陽花に、六月にしては強すぎるほどの日差しが降り注いでいた。あれから一年の命だったのかと、訃報に接した後、その紫陽花を眺めながら、何とも言いようのないむなしさを覚えた。
(後文略)

 
O さんを偲ぶ日が、命日の八日後となったが、十六年前の、その日さながら、今日も梅雨晴れの好天である。
 私がしんみりと、思いに浸っていると、哄笑が、晴れた空の彼方から聞こえてきた。O さんの、爽快な笑い声だ。

 草木は、年年歳歳同じ花を咲かせるが、それを眺める人は、年年歳歳同じではない。したがって、花は人の死後、残された者にとって、故人を偲ぶよすがとなり、人それぞれに、人それぞれの想いを抱かせるものなのだろう。
 数年前、桜の季節に夫を亡くした友人は、「今でも花の季節には外出できないの」と、言っている。
 先日、他家の庭先にガーベラの花が咲いているのを見た私は、「ガーベラの花を見ると、母親の死を思い出してね」と、語った亡き師を思い出し、その話を聞いた、とある喫茶店の情景も蘇って、暫くそこに佇んだ。
 人それぞれ、故人を偲ぶよすがとなる花は異なっている。

 私にとって紫陽花は、O さんを偲ぶ花である。
 O さんを偲ぶ日に、ゆかりのあるJ さんのブログに出合うとは、なんとも不思議な一日だった。


   

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