この冬、二度目の寒波がやってきた。
今朝は、海辺の里でも、-3℃。
水道は凍らなかったが、お湯が出なかった。
てっきり、ボイラーの故障だと思った。お湯が使えないのは難儀である。こんな寒い日に…と、ぼやく。不運にも、業者がお休みの日曜日である。点検や修理は、明日まで待たなくてはならない。
(結局、翌朝、ひとりでにお湯が出始めた。ボイラーの配水管の凍結が原因と判明。一日の不便を凌ぐことで、問題は解決した。)
お昼過ぎ、久々に草花舎に出かけた。
母屋の水道菅が凍って、まだ水が出ない状況だとの話だった。
来店のお客様からも、買い置きのペットポトルの水で歯磨きしたとのお話を聞いた。
不便は、私だけではなかったようだ。
私の場合は、水には不自由しなかっただけましである。
雪国の厳しさに比べれば、文句も言えないが、栓をひねれば、水もお湯も自在に使える生活に慣れていると、急に原始に引き戻された感じだ。
草花舎の屋根や庭にも、昨夜の雪が消え残っていた。
室内の空間に、鬼火が揺れていた。
無造作なオブジェが面白い。
入り口と、室内の奥にも、飾られていた。
二日前、Tちゃんから、<日本語訳>に目を通してほしいと頼まれていた。
カレーライスをいただき、食後のデザートやコーヒーもいただいた後、その訳文を読ませてもらった。
原文は、スーザンさんの文章で、2月の東京公演の折、配布される原稿である。
フランス語の原稿はすでに完成し、その日本語訳をTちゃんが引き受けておられたのだった。
詩的表現で綴られた、スーザンさんの日本や神楽舞への思いを、壊さずに訳すのは容易ではない。原文を知らない私は、そこに記されたスーザンさんの表現意図の説明を受けながら、Tちゃんの訳文について、私の気持ちを伝えることぐらいしかできない。
Tちゃんとあれこれ言葉を交わす作業を通して、スーザンさんの思いが奈辺にあるかを知り得たし、改めて訳文の難しさを思い知るひと時であった。
<追記> 翌日、Tちゃんからファックスが届いた。
もう一度、改稿に目を通してほしいと、訳文が記してあった。
ちょうど、郵便局へ出かける用があったので、草花舎に立ち寄った。
コーヒーをいただきながら、昨日に続いて、表現を吟味した。
果たして、Tちゃんのお役に立てたのかどうか?
自国語で書く文章も、このところままならぬ思いである。
入り口の花瓶に、水仙が活けてあった。
今年は、まだ<水仙の里>へも行っていない。
咲き遅れていた水仙が、近ごろ道野辺に増えてきた。
暖かくなったら、唐音に行ってみよう。