ぶらぶら人生

心の呟き

読書雑感 (井上ひさし著『小林一茶』を読んで)

2009-02-27 | 身辺雑記
 本さえあれば退屈を知らないで過ごせると思っていた。
 が、加齢は、読書の愉しみをも少しずつ奪ってゆくよくに思う。
 視力の衰え、思考力の衰え、集中力の衰え、……、年々、衰えゆくものが増えてゆく。私だけに押し寄せる老いではないのだからと思いながら、少々うら寂しい。

 先日、小林一茶に関する本をパソコンで注文したことはすでに書いた。そして、その1冊目として読んだ、童門冬二著の『小林一茶』については感想も記した。
 2冊目の井上ひさし著『小林一茶』も、先日読了した。
 戯曲なので、各ページの余白が多い。
 楽には読み終えたけれど、愉しかったかと尋ねられれば、頭を傾げてしまう。
 昔から、戯曲を読むのは得意ではなかった。
 会話とト書きからなる戯曲という名の文学には、特殊な想像力を必要とするように思う。それが私には、欠けているのかもしれない。
 井上ひさしの、この『小林一茶』には、特に場面ごとに仕掛けがあって、構成が単純ではない。推理劇仕立てで話が進む。
 一茶の半生や彼を取り巻くの江戸時代の空気は読み取れたが、やはり観客となって舞台で見た方が面白いのでは、と思った。
 この戯曲の世界は、井上ひさしの創り出した、独特な創造世界ではあるが、小林一茶のほか、実際に生存した夏目成美、苅部竹里など、個性も俳諧に対する姿勢も異なる人々が登場し、筋が展開される様は、なかなか面白かった。
 読売文学賞受賞作でもあり、戯曲の傑作には違いないだろう。
 しかし、私のように、読み手の質が低くては、折角の名作も生きてこない。

 井上ひさしといえば、購入した本として記憶にあるのは、『吉里吉里人』『私家版 日本語文法』の2冊。
 書棚にいってみると、『吉里吉里人』はすぐ見つかったが、後者はまた、どこかに雲隠れしていて見つからなかった。(本棚の整理をしなくては…と、なんど決意したか知れないことをまた思いつつ、本棚の前をうろうろした。)
 『吉里吉里人』は、読みさしたままで、読了していない。
 昭和56年の出版である。当時は、まだ勤めていた時代なので、仕事に追われて読み上げることができなかったのだろう。
 上下二段組で、834ページの分厚い本を、今から読みおおせるかどうか?
 昨日は、ただ手にとってしばし眺めただけである。
 装丁は安野光雅氏。
 内容に関して描かれたと思われる、愉しそうな、細密な絵が、カバーに使われている。
 先日(26日)、朝日新聞の<天声人語>に「ジャケ買い」という言葉が出ていて、なるほどと思った。
 <中身を吟味するよりジャケット、つまり表紙で選ぶことだ。>と記されていた。「ジャケ買い」を枕として、その続きは、麻生総理、オバマ大統領も登場する、政治の話に発展してゆくコラムだったのだが……。
 私は、今まで「ジャケ買い」をしたことはない。が、表紙が気に入ればそれに越したことはない。
 ちなみに、井上ひさし著『小林一茶』(中公文庫)の表紙(カバー)は、山藤章二氏のもので、ほんわかした趣のあるジャケットである。

 
                  
                  
                  (写真 家のジンチョウゲ。まだ蕾。) 
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鶯の初音

2009-02-27 | 身辺雑記
 今日、鶯の初音を聞いた。
 例年より遅いような気がする。私の耳に届かなかっただけなのかもしれないけれど。
 戸外を歩いているとき、今までにも数度、鶯の声を聞いたように思って足を止め、耳を澄ましたことはある。が、二度目の声を聞くことなく、空耳だったのかと残念に思ってきた。

 今日は、買い物からの帰り、家の近くで、<ホーホケキョ>の声を聞き、足を止め耳を澄ませた。
 佇んで、二声目、三声目を聞いて、間違いなしと確信した。
 まだ山の奥まったところで囀っているのだろう。その声は遠い。
 そのうち里へ下りてきて、庭に姿を見せることもあるに違いない。

 そういえば、家の中にいて、庭木に囀る小鳥の声を聞くことが多くなった。
 いよいよ春の足音が近づいた感じだ。

                 
              パソコンでお絵描きを習い、
              <鶯に見えるかな?>と思いながら、
              4年前に描いた鳥。
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水槽の中のスッポンモドキ

2009-02-25 | 身辺雑記
 病院の待合室に置かれた水槽の底に、スッポンモドキが微動だにせず這っていた。(写真)
 いつもは、この一匹だけが水槽の住人として、ゆるやかに上下左右に動いている。そんな姿しかみたことがない。
 毎日、看護婦から定期的に餌をもらい、苦労もなさそうに生きている。
 何が楽しくて生きているのだろう? そんなことを思いながら眺めた日もある。人間だって似たようなものだろうかと考えたりもした。
 命があるから生きている、明日はないかもしれないと、ちらと寂しいことを思いながら、今日を生きている。スッポンモドキも、そんなことかもしれない。

 ところが、今日は様子が異なっていた。
 スッポンモドキが動かない。四肢も頭部も、底の砂利に這わせ、小岩のように沈んでいる。おや? と思いながら、顔を近づけ、指でとんとんガラスの面を叩いてみた。動かない。
 眠っているのだろうか? もしかして死んでいる?
 私は、しつこく水槽のガラスを叩いた。
 しばらくして、わずかに頭部が動いた。
 <寝てたの? ゴメンナサイ!>と、私は無音の呟きを発した。

 と、その時、私の右隣から声がした。
「よかったですね。生きていて!」
 私のかけた長椅子に、患者の一人が来て坐られたことに、私は全く気づかなかった。私同様、静止したスッポンモドキを不審に思って眺めておられたのかもしれない。
 私は、稚気を見透かされたようで、少々恥ずかしくなりながら、
 「お休みしてたのですね」
 と、言った。
 「こんなに小さかったのに…」
 と、その人は、親指と人差し指で、大きさを示された。
 私が水槽の中の小動物に気づいたのは、もっと大きくなってからのような気もしたが、確かに、その成長は著しい。
 スッポンモドキも、亀の仲間だから、長寿なのかもしれない。
 この病院を訪れる、たくさんの患者の悲喜こもごもを、これから末永く、水槽の中から見続けることになるのだろう。
 ゆらゆら水中に揺れたり、今日のように眠りをむさぼったりしながら……。

                 
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高島野十郎の世界 (多田茂治著 『野十郎の炎』を読んで)

2009-02-24 | 身辺雑記

 画家、高島野十郎(1890~1975)について、私が初めて知ったのは、2006年、当時博多で開催中の展覧会を紹介する、テレビの報道によってだった。
 そこで見た作品に心をひきつけられ、これは見逃せないと思った。
 年が明けたら、早速、博多へ行こうと、切符も買っていた。
 ところが、新年早々に、ひどい風邪を引いてしまった。インフルエンザの予防注射は受けていたのだが、お正月にやってきた姪の幼子が、いつもに比べ大人しいとみていたら、引き上げた後に高熱を出し、診断の結果、インフルエンザだったのだ。
 その菌をもらったのだろう。
 私の風邪も、あくどいもので、高熱と肺をえぐるような咳に悩まされた。食欲を完全に失い、点滴や注射、抗生物質の薬を飲んでも、一向によくならなかった。
 結局、ひと月療養することになり、博多行きは諦めざるを得なかった。
 ぜひ観たいと思っていた<高島野十郎展>に行けなかったため、その名を聞くごとに一入残念に思ってきた。

 昨年の暮れ、友人と大宰府を訪れ、博多に一泊した。その翌日、急いで帰る必要もないので、福岡県立美術館に立ち寄ってみた。
 折しも、コレクション展を開催していた。そこで思いがけず、高島野十郎の数点の作品に巡り合うことができたのだった。
 それだけで、美術館に立ち寄ったかいがあった。

 野十郎といえば、<蝋燭>の炎。
 その1枚に出会うことができたのだ。思いの外小さな絵であった。(サムホールサイズと呼ばれることは、『野十郎の炎』を読んで知った。)
 野十郎は、蝋燭の炎を描いては、お世話になった人などに差し上げていたようだ。その数幾枚に及ぶのか分からない。
 その中の一枚の絵に、その時めぐり合えたのであった。
 有名な<絡子をかけたる自画像>も展示してあった。
 その他、<洋梨とブドウ>なども。
 受付にて、「ご自由にどうぞ」ということで、「旅する野十郎」という冊子をいただき、展示されていない作品にも、接することができた。

 高島野十郎のことは、しばらく忘れていた。
 先日、草花舎から帰ろうとして、棚に置かれた本の表紙に、蝋燭の炎の絵が使われているのに気づいた。
 手に取ると、『野十郎の炎』と題されている。(写真)
 著者は、多田茂治という方であった。
 深い関心を寄せている画家との不思議な縁を感じた。
 「これ、お借りしていい?」
 と、Yさんに尋ねた。
 「どうぞどうぞ、ゆっくり読んでください」
 と、許しを得て借りてきたのは、18日のことだった。
 一昨昨日(21日)、読了した。

 『野十郎の炎』は、<評伝>の類になるのだろうか。
 この本の著者は、細やかに画家の生きた時代背景、久留米という街の歴史的変遷、野十郎の出生や家族のことまで、詳細に描いていて、稀有な画家の生涯をつまびらかにしている。
 著者は1928年生まれで、確かな筆力の持ち主である。著書も多数あるようだ。

 この本を読んで、高島野十郎の、いっそうのファンになった。画家として、また一人の人間の生き方として。
 どんなにあこがれても、野十郎のようには生きられないのだけれど……。
 孤高な生き方、自らの求める絵画の道を真摯に探求し続けた生涯。
 <序章>に、
 高島野十郎は生前ほとんど無名の画家だった。生涯娶らず、寡欲に生き、ひたすら画道に精進した八十五年の生涯だった。…略…
 野十郎は本名ではない。本名は高島弥寿。野(や)に生き、野に果てる決意を込めての雅号であった。

 と、記されている。
 この本では、当時の、久留米出身の洋画家たちにも触れている。
  青木繁    (1882~1911)
  坂本繁二郎 (1882~1969)
  古賀春江   (1895~1933)
 などは、私でも、その名を知り、代表作を思い出せる画家たちである。
 その中にあって、高島野十郎は、無名に等しかった。
 野十郎は、自ら<野(や)の人>であろうとした。
 世におもねることをしなかった画家である。
 野十郎は、没後に注目され、作品の真価が世に知られるようになった。
 その発掘に貢献したのは、福岡県立美術館だったようだ。

 野十郎は、大地主である酒造家の、恵まれた家に生まれ、東大の水産学科を抜群の成績で卒業。しかし、恩賜の銀時計も辞退して、自らが真に生き甲斐と感じる絵画の道に進んだのだった。あえて厳しい生き方に身を置いたのである。
 その生き方の不思議さは、画家青木繁と親しかった長兄高島宇朗にも言える。彼は、詩人を志し、家業を継ぐことをしなかった。野十郎と同じく、故郷を捨て、晩年は、禅道三昧、信仰の人として生きた。
 主人公は、もちろん野十郎であるが、この筆者は、兄の宇朗とその子どもたちにも、書き及んでいる。<高島家の血>を感じずにはいられなかった。
 人間は複雑奇怪である。
 一見似たような姿をしながら、生き方や考え方の隔たりの大きさに驚く。
 この世をいい加減に生きられない血の濃さは、若き日に共産主義者となり早世した、宇朗の長男日郎、次女満兔(まと)にまで受け継がれている。そうした生き方の底に流れる血脈は、野十郎の人生とも無縁ではない。
 また、父善蔵は篤信の人だったようで、それは、長兄宇朗、画家野十郎にも受け継がれている。

 野十郎は、ふるさとを捨てた。しかし、その郷愁は、死の時まで胸底にあったようだ。湧く水にまでこだわって、千葉県柏市増尾の地にアトリエを設けた。<おれのパラダイス>と称した質素なアトリエの場所は、生い育ったふるさとに通じるものがあったのだ。
 野十郎は、<やさしさにはやさしさを返す心根の持ち主>であり、<人を差別するような人間を嫌った>。(P119)
 時代の波で、最初のアトリエが宅地開発のため立ち退きを命ぜられる。その時の抵抗の姿勢は、野十郎の一面を伝えていて面白い。
 開発業者の負担で、洲崎岬の南側、太平洋を見はるかす西川名にアトリエが建設された。が、そこへ引っ越すことなく、業者との間で折合いがつかず、補償問題の訴訟まで起こしている。
 結局は、柏市増尾に藁葺き屋根の空き家を見つけ、第二のアトリエとして、腰を落ち着けることになったのだが…。

 『野十郎の炎』を読み、特に印象に残った表現を、覚書として書き留めておくことにする。(引用文
 
 …野の花が好きで、いつもやさしい眼を向けていました。夢を食べて生きているようなおじさんでしたねえ。(P171 姪、斐都の言葉)

 蝋燭の炎は、まだ電燈がつかなかったふるさとの少年時代、ランプとともに暗い夜を彩ってくれた懐かしい光だったし、信心深い父親がいつも神仏に供えていた炎でもあった。
 燃える蝋燭の炎をじっとみつめていれば、そうした少年時代の想い出もふくめて、越し方のさまざまな思いもゆらぎのぼってきたことだろう。
 一本の蝋燭の絵は、ほとんどサムホールサイズの小さな板絵だが、炎の表情は、一枚一枚、みな違う。その折々の心情、祈りが、炎の色、ゆらぎに映ったのだろう。雄渾に燃える炎もあれば、ひっそりと静まる炎もある。若い炎もある。老いた炎もある。そのすべてを、野十郎は心をこめて、丹念に、丹念に描いている。己の心の闇を照らしてくれるように。人の世の闇を照らしてくれるように。一本の蝋燭の炎に、野十郎の人生のすべてがこめられているかのようにも見える。
(P120 筆者)

 目下、氏は「暗闇」を描こうという執念にとりつかれている。「暗闇」といってもシンボリックな意味ではなく、正真正銘の「暗闇」を写生しようというのである。その段階として高島氏は、画面のなかに満月がひとつぽっかりと浮かんだ月夜の連作を続けている。やがて、その月が消されて「暗闇」に到達するのであろうか。ローソクや闇を描いて何を語ろうというのです、といった質問は、ここでは質問にならない。ローソクや闇を対象から除外するどういう理由があるのかといわれれば、それまでだからである。疑問符ゼロの世界。この絶対の王城を前にすると、僕はカフカの「城」を思い出すほかない。(P133 評論家中原佑介『芸術新潮』昭和38年8月号)

 生きた人間にはじめて出会ったような、また生きることがすでに遊行であるような存在の精神性と幻惑を全身に感じさせるような未知の絵画にでくわした。

 だれに強要、強制されることなく、自然にうながされたものだけを透徹した細密描写でとらえたような高島の風景、静物、あるいは数描いたロウソク、太陽、月の作品群は、見えるとおり、というより、本当に見えてくるとおりに描いている。あるがままにではない。対象を正面に見すえ、それをとりまく空間とそこに侵入してくる空虚を距離とともに的確に描き出すことに苦心し、自分の作品を真の自律に向かわせているのだ。
 ……孤高の画家にありがちな激情とか意識過剰のはみだしがなく、絵に関して近道をしたり、道草を食ったりはせず冷静、おそろしく早い速度で独自のまなざしをもった自分の絵画世界を築いているのだ。強靭で品を保つ、独学のさわやかさとでもいえばよいのか。
(P177~178 朝日新聞美術担当編集委員米倉守の時評。1988年高島野十郎展開催の折。)

  高島野十郎 (1890―1975)画家
  本名は高島弥寿。字 光雄。野十郎は画号。終生独身で孤独の中に身を置き、世の画壇とも一切関わらず晴耕雨描、修行僧にも似た孤高の生活を貫いた。その作品は、深い精神性を湛えた独特の写実絵画の世界を創っている。
(P 192 1988建立の碑「野十郎」に刻まれた墓碑の文章。)

 お墓は、市川市立霊園にあるが、1977年にふるさと久留米市山本耳納の曹洞宗の古刹、観興寺に分骨して安置し、さらに<野十郎碑>は、1988年に、その境内に建立されたということだ。
 久留米市に立ち寄ることがあったら、その碑の前に立ってみたい。
 なお、碑の台石には、<野十郎の一文が彼の書体のまま、白字で掘り込まれている>という。
 その一文は、野十郎の人柄を髣髴させる遺偈である。

   足音を立てず
   靴跡を残さず
   空気を動かさず
   寺門を出る
   さて
   袖を拂ひ
   裳をたゝひて
   去り歩し行く
   明々朗々遍無方
     (註 遍はあまねく、無方には煩悩を離れた心の意あり)
(P194~195) 

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絵手紙

2009-02-23 | 身辺雑記
 優しい日差しが、雲間から漏れている。
 朝の雨は、完全に上がったらしい。
 近くのスーパーで買い物をして帰ってみると、郵便物が届いていた。
 その中の1通が、絵手紙であった。差出人は、半世紀前の知己。
 思いがけず届いた絵手紙である。(写真)
 添えられた文面は、水仙の絵の余白に、以下のように記されていた。

 「お元気でいらっしゃい
         ますか
         そちら               
         今頃
          雪
         でしょうか
       家の
        庭に
         咲いた
          水仙
           です
  絵手紙を習い始めて
   一年足らず
   書いてみました
    この香りを届けられたら…… 」(落款)

 和紙のおおよそのサイズは、縦32、横40cm。このサイズに、正式な呼び名があるのかどうか。一枚が角封筒大に折りたたまれ、その一面に、宛名と差出人が記されていた。ホッチキスで、二箇所が止められて。こうした形式の郵便物も初めてである。
 絵手紙の上手下手は分からないけれど、窓辺の日差しのような暖かさが、心に届いた。
 懐かしい思いで、絵手紙を眺め、私は、自ら撮影した石見の水仙を葉書に添えて近況を報じ、返信をしたためた。   


              
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急に思い立って (2冊の図録)

2009-02-22 | 草花舎の四季
 21日の昼過ぎ、窓から外を見ると、空が無気味なほどに晴れ渡っていた。
 こんな日、家にくすぶっているのは、精神衛生上よくない、そんな口実を設け、草花舎に電話した。今からでも、昼食がいただけるか、と。
 1時を過ぎていた。
 「大丈夫、どうぞいらしてください」
 との返事だった。
 外に出てみると、哀しいほどの青空だ。頭を360度回転してみたが、雲のかけらもない。(写真)
 虚空は寂しい。一片の雲でいいから存在してくれと、念じたくなるほどだった。

                   

 草花舎で、食事をすませると、2冊の図録を丁寧に眺めた。
 一冊は、「高島野十郎展」の図録(1988年)。(写真 上)
 もう一冊は、「香月泰男と1940―50年代の絵画」(2009年)。(写真 下)

    

                         

 第四章まで読んだ『野十郎の炎』を思い出しながら、高島野十郎の絵画を鑑賞した。
 <蝋燭>の炎を描いた絵は勿論だが、観る者の魂に響く絵が多い。月の絵、というより闇を描いた絵もいい。雨の法隆寺や新宿御苑の老木など、一度見たら忘れられない作品が多い。

 <香月泰男>を中心とした画展は、現在、下関美術館で開催中のもので、Yさんは、先日行ってこられたとのこと、お土産に絵葉書をいただいた。
 シベリヤシリーズ以前の香月泰男の作品を展示してあるようだ。会期はまだ先なので、機会が作れたら、行ってみることにしたい。
 他の画家の絵のなかにも、実際に見てみたい作品がかなりあった。

 草花舎は、次の展示<ヴァグリエのバッグと小物>展の準備中だった。
 今日は静かに図録を鑑賞し、庭歩きもせず帰宅した。
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明日は雨になるのだと… (金のなる木の花)

2009-02-22 | 身辺雑記
 今夕から雨になると、19日朝の天気予報が報じていた。翌日、20日の予定を一日繰り上げ、急遽、髪のお手入れに出かけることにした。
 美容院を出ると、昼過ぎなのに、空模様が怪しくなっていた。買い物はやめて、食事をすませたら、早めのバスで帰ることにした。
 駅前のMレストランに入った。お昼の時間を大きく過ぎていたので、すでに定食は売り切れていた。そこで、ホットサンドセットをいただいた。

 洗面所に、見慣れない花が挿してあった。
 <金のなる木>の花だと、教えてもらった。(写真)
 ピンク以外に、白い花もあるのだそうだ。
 <金のなる木>は寒さに弱く、私は以前、大きな鉢を外において、枯らしてしまった。花を見ることもなく……。
           
                

 バスに乗る頃には、雨が降り始めた。夕方を待たずに……。
 帰宅後、先日草花舎で借りてきた、多田茂治著『野十郎の炎』を読んだ。
 <序章> <第一章 画家への道> <第二章 故郷を捨てる>まで読んで、本をテーブルの上に伏せ、読んだばかりのページに登場した、高島野十郎、その長兄である宇朗、宇朗と親交のあった、画家青木繁等等の、尋常でない人生を考えながら、私は薄暮の迫る洋間の椅子に座り続けていた。
 本の中で接した人々の、その曲折の多い、一様でない生き方に、心を奪われていた。幸せな人生き得る道を捨て、なぜあのような険しい道を歩まねばならなかったのであろうか…と。何が、野十郎や宇朗を突き動かしたのであろうか…と。あわせて、私自身の来し方をも考えていた。
 かなり深刻で神妙な顔をしていたに違いない。<生きる>ことの深淵を覗き込む思いで……。
 その時、どこからかノックの音が聞こえた。
 私は、音の生じた場所を探して、辺りに目を這わせた。そして、天井を見上げた。
 また、ノックの音が聞こえた。
 窓の方に顔を向けると、カーテンの向こうに人の気配があった。
 立ち上がって、窓を開けた。
 隣家のMさんが立っておられた。
 「ブロッコリー、食べます? もらい物です」
 と。いつもの温顔で、Mさんは、ブロッコリーを差し出された。
 私は、たちまち日常の世界に連れもどされ、表情をつくろいながら、ブロッコリーをいただいた。
 戸外には、雨が静かに降り続き、黄昏が近づいていた。
 時計を見ると、6時であった。
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二十四節気 雨水 (吉岡利一・吉岡萬理、父子の作品)

2009-02-18 | 身辺雑記
 今朝の読売新聞を読んでいて、今日は二十四節気の<雨水>に当たる日だと知った。
 小さな囲み記事として、
 <雪は雨になり、水ぬるむ頃。野山も春色に染まり出す。桃の節句は少し先だが一説に、きょう雛人形を飾ると良縁に恵まれるとか。>
 と、記されていた。
 いよいよ春めく季節なのだなと思い、そうだ、あの雛人形を飾ろうと思った。
 吉本利一氏作の、小さな雛人形。(写真 上)
 少し前、草花舎で見つけ、あまりに可愛く、さりげなく存在する姿に惹かれて求めたのだった。
 「てっせん彫木彫」というのだそうだ。
 製作者の栞が添えてあった。
 <私は、白木の木肌に、日本人の心を感じます。
  「なた」のようにずっしり重く、しかも「かみそり」のように切れる「セン」
 という大刀で、数百年の年輪をもつ杉や桧をけずります。木彫作品を作ること、
 絵を描くこと、この二つが私の生涯の仕事です。>
 と。
 この雛の顔を眺めていると、波立つ心も静まってくれる。

 吉岡利一氏は、陶芸家、吉岡萬理氏の父君だそうだ。
 私は、陶芸家の萬理氏の方を先に知り、つい先だって、その父君のお仕事に初めて接したのであった。
 下の写真には、私の持っている父子の作品を並べてみた。 

     

                       

 私は、利一氏の愛らしい人形を飾りながら、読売新聞の記事にあった、
 <きょう雛人形を飾ると良縁があるとか。>
 と書かれていたのを思い出し、いまさら良縁など必要ないが、生涯、信頼し合い、支え合える、そんなよき友はほしいな、と思ったのだった。

 昨日今日と、朝日新聞のほかに読売新聞が入っている。
 先日、Aさん宅を伺って、借りていた本と新聞の切り抜きをお返しし、その時、各社新聞の特色についての話となったのだった。
 「私の程度(Aさんが謙遜していわれた言葉)では、読売が結構面白い。……しばらく配達するように言ってみましょうか」
 と、言われたのだった。そして、読売新聞が配られることになったのである。長年、朝日新聞を購読してきたのだが、いま、読み比べているところである。
 新聞の紙面は、読者の好みによって、様々な顔を見せてくれる。
 今日は、早速、読売新聞の「雨水」の記事から、春の到来を感じながら、小さな雛人形を飾ったのだった。 
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2月の庭 (色違いのクリスマスローズほか)

2009-02-18 | 草花舎の四季
 今日はまた、いいお天気だ。
 昨日は、朝起きてみると、早朝に雪が降ったらしく、冬戻りの寒い日だった。
 今日は、暖かである。
 昨夜、うまく眠れず睡眠時間が足りなかった。そのせいだろう、今朝は起床後、なかなか頭が冴え冴えとしてくれなかった。
 昨日辞任の中川大臣ほどではないが、深夜に飲んだ睡眠薬の名残りが、朝になっても、まだ神経に作用していそうに思えた。コーヒーを飲んでみてもすっきりしない。そこで、外気に触れるのが一番と、郵便局へ行くことを思い立った。
 近く結婚する姪に、お祝いを贈るための封書は、昨日整えていた。パソコンで作った、オリジナルなカードを添えて。
 
 襲いくる睡魔に耐え切れず、酔眼朦朧の記者会見を演じた大臣の醜態は、マスメディアを通して世界各国に流され、大変な失態だった。
 また、その事後処理がまずかった。
 理由はなんであれ、G7という公的な場での失敗なので、中川大臣は、帰国後早々に、潔く辞任を表明すればよかったのに、朝令暮改の類で、会見ごとに、態度がくるくる変わった。したがって、昨日は一日中、ニュースのたびに、失態の映像を伴って報道された。気の毒だったが、ああした姿を、この目で見るのは初めてで、驚きと同時に失笑を禁じえなかった。

 なぜあんなことになったのか?
 アルコールが過ぎたのか、風邪薬の飲みすぎか、腰の痛み止めの服用が原因か、ご本人にも、原因はよく分からないのかもしれない。
 私は、私自身の経験から、もしかして、睡眠薬の飲み違えでは? と思ったのだった。
 私はかつて、小さな旅の朝、血圧の薬と睡眠薬を飲み違え、2時間ばかり、意識朦朧となり、記憶の一部が途切れた経験を持っている。
 一緒に旅していた友人は、私がよほど眠いのだろうと思ったらしい。が、日頃、私自身、どんなに睡眠不足でも、人前ではなかなか眠れない方である。
 その時は、記憶喪失の原因が全く分からなかった。が、帰宅後、旅に出るとき持参した薬の整理をしていて、そこにあるはずのない、血圧の薬が残っていて、一錠余分に持って出た睡眠剤がなくなっていたのだった。いつもは半錠しか飲まないのに、一錠飲んだのだから、余計に意識朦朧となったらしい。
 そんな経験を持つだけに、中川さんもあるいはと思ったのだが……。ただ、私と違って、政治家の場合、取り返しのきかない出来事であることには間違いない。

 郵便局からの帰り、草花舎の前で足を止めた。コーヒーを飲んで帰ろうと…。
 お昼時だったが、今日は朝食が遅く、食事は欲しくなかった。そこで、コーヒーとチョコレートケーキをいただいて、安らいだ。

 ついでに、お庭を歩いた。
 先日、ブログに載せたクリスマスローズとは色の異なる、薄緑色の花が咲いていた。この花はうつむいて咲くので、手を添えて、ちょっと上を向いてもらい、カメラにおさめた。(写真 上)
 花水木(白)の梢を見上げると、丸い小さな蕾が無数ついており、その先には、今日も春めく青い空が広がっていた。(写真 下)


     

                       

 Yさんと政治問題などしばらく話し、ペリカン便で届くはずの荷物が気になったので、いつもより早めに引き上げた。
 棚に置いてあった『野十郎の炎』(多田茂治著)という本をお借りして帰った。
 高島野十郎は、私の好きな画家の一人である。
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2月の庭 (クリスマスローズの花咲いて)

2009-02-17 | 草花舎の四季
 天候は下り坂という予報だったのに、昨日もまた快晴の日だった。
 少し風が冷たくなった程度で、やはり2月には似つかわしくないほどの晴れ模様であった。

 草花舎のYさんから電話があり、今日、食事に来る予定かどうかを尋ねられた。スーザンさんが、フランスから帰られ、私が出かけるなら、食事を一緒にしたいとのことを伝えてくださったのだ。時計を見ると、12時をとっくに過ぎていた。
 昨日は、月曜日。お食事に行く予定の日であり、1時過ぎに出かけた。

 草花舎の庭には、昨日も日差しが溢れ、見上げると哀しく思えるほどの青い空が広がっていた。
 クリスマスローズが花弁を開き、黄水仙と白い水仙が、並んで日を浴びていた。
 薄紅色の梅の花も、枝々にその数を増し、晴れやかな空をバックに、本来の美しさを倍増していた。(以下の写真)

       

                         

       


 庭歩きから喫茶室に引き返そうと入口に戻ったとき、国道から、スーザンさんがちょうど入ってこられた。
 1月8日以来の再会を喜び合った。
 
 モロッコ・マラケシでの催し(創作ダンスと太鼓の共演)は、成功だった様子である。スーザンさんの表情が、それを語っていた。
 小さなお写真を見せてもらって、マラケシという未知の街に想像を馳せた。
 長身を生かし、神楽の動きを取り入れて優雅に踊られたスーザンさんのダンスが脳裏をかすめ、今福優さんの太鼓の音、哀しい調べを含んだ美声が、異国の空に余韻を漂わせているのを聴く思いがした。
 スーザンさんから、ローカル性のある織物のショールをお土産にいただいた。

 ただ、わずかひと月あまりに間に、お互いの身には、それぞれ思いがけぬことがあったようだ。
 モロッコからフランスに帰られたスーザンさんは、突発性の白内障で、手術を受けられたという。一つしかないはずのお月様が、いくつにも見えたのだそうだ。
 でも、簡単な手術で、両眼ともよく見えるようになって、何よりであった。
 さらに、こちらに帰られてから、腰の痛みと左上腕の痛みがひどく、難儀なさった様子である。が、それらの痛みも、日を追ってよくなっているとの話だった。帰途の、持ち重りする荷物がこたえたのだろう。
 恢復するものはいい。
 私の身辺には、この間、兄との永訣もあり、気持ちの底に滓となった悲しみは、なかなか癒えてくれない……。 
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