先日(26日)、草花舎の入り口で、風変わりな実をつけた木に出会った。
「ネズミモチ」というのだそうだ。
実の形や色に特色がある。形は楕円形に近く、色は紫紺色。
名前がずいぶん変わっている。動物のネズミと、どういう因縁があるのか調べてみると、その実がネズミの糞の形に似ているのだという。久しくネズミの糞を見たことがないので、その形も大きさも忘れてしまったが、この実ほど大きくはないように思う。大小はともかくとして、相似の形であることには違いないのだろう。
葉がモチノキに似ることから、上記二つの特色を合わせて、「ネズミモチ」と名づけられたようだ。
今年の冬は、赤い実に始まって、黄系、黒系など様々な実に出会い、ブログに投稿した。そして、今年の最後は、「ネズミモチ」ということになった。
出会いといえば、この日は、草花舎で、帰省中のTさんと彼女の祖母に当たる方とに会った。
久しぶりに会ったTさんは、顔にこそ昔のままのあどけなさが残っていたが、語られる言葉には、内面の豊かさがにじみ出ており、考え方のしっかりした、大人の雰囲気が感じられた。彼女の成長は想像していた通りであり、特に驚かされるものではなかったのだが……。
その折、お店の客は私一人だった。
店主のYさん、Tさんと3人で話しているところへ、老人の施設「陽だまり」から、Yさんのご母堂が帰ってこられた。
私にとっては、初対面の方である。
さすがに足は弱っておられ、杖にすがり、Yさんに導かれて、私の前の椅子にかけられた。
とても90余歳の人とは思えない、垢抜けた利発な女性である。
見た目にもすばらしく、スーツが似合っている。色白で品がある。
美しい声で語られる言葉には訛りがなく、その内容がまた、耳に、心に、快く響いてくるのだ。語られる話の内容から、美しい老女の脳内風景の豊かさに感動したり、記憶の確かさに驚いたりしながら、ひと時不思議な時間を過ごした。
魅力的な老婦人!
20年後は、<かくありたし!>と思いながら、一方で、私にはあり得ない歳月であり、あり得ない姿であろうと思った。
今年最後の今日、私は得もいえぬ幸せな思いで、老婦人との出会いを思い出し、それを記すことで、今年の筆を収めることにしようと思う。
早朝の5時過ぎ、新聞を取りに玄関に下りたついでに外を見ると、庭の地面を処々白くし、雪が舞っていた。
いよいよ雪の季節到来かと、少々心が躍る。
ほどほどに雪が降って、冬は冬らしくあって欲しい。
厳冬があればこそ、春が待たれもするのだ。
新聞を読み始めたとたんに停電!
これには参った。
我が家だけかと、外に出てみる。街灯はついているのに、周囲の人家には灯りが見えない。
我慢するしかなく、蒲団の中で辛抱する。
しかし、全身に冷えが感じられ始めたので、<歩くに如くなし>と、散歩に出かけた。
一昨日に増して、波は高い。海上はひどく荒れていた。水平線が高波のためにギザギザ模様だ。海面全体に白波が立って、騒々しい。
12月の雪をカメラに収めておこうと、羊歯植物にたまったわずかな雪を撮影した。
山口市郊外に住む知人からの電話によると、10センチの積雪があったとのこと。
私の住む、雪の少ない海辺では、積雪を見ないまま、お正月を迎えることになりそうだ。
一旦停電は解消したが、昼前のひと時、電気工事のために、一時間の停電があった。電気に頼りっぱなしの日常だし、格別寒い日だったので、不便至極、電気のありがたさの身に沁みる日ともなった。
今日30日は、心地よい冬日和となった。
年末の買い物に妹と出かけた。例年より、買い物客が少ないように思えたが、偶然なのか、相変わらず地方都市は不景気なのか?
いよいよ今年も明日を残すのみとなった。
いかにも日本の風土に似合いそうな花。
昔からもっとも身近にあった花。
山椿というのだろうか。
慎ましやかで美しい。
この木は、小学校の入り口にあり、ひそやかに、数個の花をつけていた。
一つの花と蕾が一つ。(写真)
いかにも清純な感じの美しさだった。
年の暮れ近くなった今、その木は、枝々にたくさんの花をつけている。
それも悪くはないが、やはり椿は、一つの花と向き合う方が、好ましく思われる。
今日と明日の日本海側は、荒れ模様となるらしい。
風が強いし、朝の散歩を取りやめようかと思ったが、昨夕、帰省した妹が、一緒に歩くというので、勇気を出して出かけた。
さすがに、海辺は怖い。荒々しい波に飲み込まれそうだ。
最近加えたばかりの散歩コース、波打ち際往復は見合わせた。
海辺の端に佇んで、写真を撮った。
カメラを構える体が、宙に浮きそうになるほど風が強い。
シャッターをきるタイミングが、素人には難しい。波の激しく砕ける瞬間をうまく捉えることができない。肉眼では、もっと凄まじい光景なのだが、どうしても平板になってしまう。
穏やかだった12月にも、終止符の打たれるときが来た!
「草花舎」の入り口に、赤い実をつけた木がある。
その名は、「ピラカンサス」。(写真)
実のつき方が賑々しい。まさに<鈴生り>。
今は師走、実も終わりに近い時期である。鳥の餌となって、姿を消したものもあるだろう。
秋の半ばころには、もっとたくさんの実をつけていたに違いない。
この木は、枝には棘があるので、見分けやすい。
赤い実にも特色がある。天辺には、トマトを蔕の側から眺めたような星印がついている。滑らかであるべき表面を、故意に傷つけたかのようなマークは、いったい何の印なのだろう?
ピラカンサともいうらしい。
ギリシャ語の「Pyro(炎)」に「acantha(棘)]がくっ付いてできた名前、と説明してある記事を見た。
確かに赤い実は炎のようである。
中国語では「火棘(huoji)」というらしい。いずれも、そのままずばり、簡潔に木の特色を捉えた命名といえそうだ。ちょっと面白みには欠けるけれども。
実は、赤くなるもののほかに、橙色、黄色もあるらしい。
別名の「橘擬(たちばなもどき)」は、橙色(オレンジ色)のものをいい、「常盤山櫨子(ときわさんざし)」は、赤い実の木をいうらしい。
異なる色のピラカンサスにも、いつか出会えるだろう。
実となる前の花にも……。
木の名は知らない。
斑入りの薄緑の葉が、深緑の木とは異なる雰囲気を醸していることや、少しの風にも落葉しやすい木であることには気づいていたが、実をつけるとは知らなかった。
灯台下暗し! である。
実を見るのは今年が初めてのように思うが、それさえおぼつかなくなってきた。
人間の目は、見ているようで何も見ていないことが多いのかもしれない。
心の働きを伴う、意識的な自覚を持ってものを見ない限り、真相真実を見抜くことはできにくいのだろう。
見てはいても、見ていないに等しいような見方を、自然界に対してばかりでなく、人間の社会や諸々の事象に対して、してきたような気がする。
耳も目に同じ。
情けないことだが、せっかくの耳目を生かさず、いい加減に生きていることの多い私である。
9号線の崖の少し高手に。
植物の見分け方の下手な私だが、山帰来の葉っぱほど特色ががあれば、見間違えることはない。それに子供のときから、食に絡んで、なじみのある葉だ。(既述・12月19日<いい名前「山帰来」>)
葉はすでに枯れ色である。(写真の左側に見える、幅広の葉)
大方は落葉し、地に帰ったようだ。
蔓についた実があらわに顔をのぞかせている。その実に気づいて、周囲の葉に目をやり、ああこれが山帰来の実! と納得したのだ。
私の見た実は、赤色というより渋色。赤色だったものが、実も枯れ色を帯び、色あせてしまったのだろうか?
実際はもっと美しく輝く時期があるのかもしれない。何しろ昨日初めて、意識して眺めたばかりだから、比較するすべがない。
春になれば、この地に新たな子孫が誕生するのだろう。
次の関心は花。
どんな花を咲かせるのだろう? 花の季節を見逃さないようにしたいものだ。
先日、近所の知人から、新鮮なサザエをいただいた。(写真)
海辺に住んでいると、サザエは見慣れた貝なので、簡単に見過ごしがちだが、よく見ると奇妙な形をしている。
漢字では、栄螺・拳螺と表記される。二つに共通する「螺(にな)」は巻貝を表し、前者の「栄」は、「さかえる」の「さ」音を借り、字義の持つめでたさも考慮したものかもしれない。(あくまで想像だが)
後者の「拳」は、サザエの形を表現したものと理解して間違いないだろう。
鞏固な殻に身を包み、ごつごつした突起で身を鎧い、実にいかめしい感じだが、あの大海で生き抜くには、それぞれの生き物は、それ相応の工夫が必要なのかもしれない。
身はおいしく、貝殻も貝ボタンなどに変身し、生活品として役立つようだ。
あの蓋も面白い。渦巻状の模様などつけて気取っている。子供のときには、なんでも宝物のように思え、サザエの蓋集めをしていたことがある。時にはおはじきのように弾いて遊んだり……。
サザエといえば、まず壷焼きだが、このところ、ノロウィルスが蔓延しているらしいので考えものだ。なんでも、貝類は生で食べない方がいいらしい。壷焼きなら大丈夫かとも思ったが、火の通り具合はどんなものだろう?
それに、以前、獲れたばかりの、生きのいいサザエを壷焼きにしていたところ、お尻を炙られてたまりかねたサザエが、天井まで飛び跳ねたことがある。あれ以来、壷焼きはちょっと苦手でもある。
とにかく安全策をとり、湯がいて身を取り出すことにした。
しばらく眺めた後、作業にかかった。台所に海の香が広がった。
冷凍庫で保存すれば、好きなときに取り出して料理できる。
いつか貝飯を炊くことになるかもしれない……。