ぶらぶら人生

心の呟き

「フンイキ」と「フインキ」

2008-06-18 | 小さな記録簿

 過日、朝日新聞を読んでいて、<へぇー?!>と思った。
 <雰囲気>のことを<フインキ>と発音する人が少なくない、というのだ。本当だろうかと、一瞬疑った。
 6月16日(月)の≪『ことば力 養成講座』 ■雰囲気≫に載っていた話。(校閲センター・菅井保宏)

 漢字を無視して発音だけを頼りにすれば、上記のようなミスが生じるのだろう。
 <聞き違いから、言いやすいようにアレンジして覚えてしまったのだろうか。読みを勘違いした人は、パソコンで正しく漢字に変換できず、「不陰気」などという珍語を生み出す。>
 と、記事には記されていた。
 私など、フインキの方が、よほどいいにくい。
 今、ちなみに「フインキ」と入力してみたところ、私のパソコンでは、「訃陰気」と、珍妙な漢字が表記された。
 <ある大手の漢字変換ソフトは、3年前から「ふいんき」の入力でも「雰囲気」が出るようにしている。>
 とも記されていて、そこまで誤用に寛大でなくてもいいのでは、と思った。どんなものだろう?
 私は、「雰囲気」という漢語表現も発音も好きなので、「フインキ」では、全く意味が分らないではないかと、いらだたしささえ覚えてしまう。

 
 もう一つ(前記した「フインキ」とは、趣旨の全く異なるものであったが……)、同じページに、関心のある記事、≪急増する燃え尽き教師≫の問題が取り上げられていた。大変な時代だ
 <子どもに熱心にかかわる、理想に燃え責任感がある教師ほどバーンアウト(燃え尽き症候群)に陥りやすい>、といった意味のことが記されていた。
 教職に限らず、いずれの職場でも、その危険はあるのだという。
 人間関係の希薄さが生み出す現象なのだろう。
 <burn out>とは。

 (写真 友人宅の隣家に咲いていた柘榴の花。あの堅い実を予感させるような蕾の形が面白い。)


クエとアブラボウズ (カッと写真は、わが家の杏)

2008-03-26 | 小さな記録簿
 「アラ」調べてみたら別の魚
 「クエ」と称し販売
       福岡の料理店  
(朝日新聞3月20日 社会面の記事見出し)

 記事の内容を読んでみると、高級魚のアラ(クエ)と称して販売していた魚が別種のアブラボウズだったとして、1月に販売を中止していた、というものだった。
 また偽装!? と、思いながら、怒りがそう強まらないのは、恐るべきことだが、あまりにも偽装に慣れ過ぎたせいだろうか。とにかく儲け主義が蔓延し、良心はマヒ状態のようだ。

 私の関心は、むしろ魚の名前の方だった。アブラボウズとは奇妙な名前のお魚がいるものだと。「クエ」にしても、私の聞きなれない名前であった。
 <キーワード>には次のような解説文が記してあった。
 クエは西日本以西の海底にすむハタ科の大型魚。九州では「アラ」と呼ばれ、大物は体長1㍍以上。高級食材として扱われ、刺し身、鍋、湯引きなどで食べられる。一方アブラボウズギンダラ科の大型魚で、体長3㍍になるものもいる。本州中部以北の深海にすむ。多量の脂を含み、一部地域以外はほとんど流通していない。》と。(注 下線はブログ筆者)

 この説明を読んだ後、漢字はどんな字を当てるのだろう? と、電子辞書で調べたところ、「九絵」と書くのだと分った。キーワードとほぼ似た説明の記された後、<磯釣りでモロコと称する。>とあった。
 もう一つは「油坊主」。<脂肪分が多いため食べ過ぎると下痢をする。>とも書いてあった。
 調理して出されれば、見た目に見分けが難しいのだろう。そこで偽装につながったというわけらしい。

 この記事を読んだのは、春分の日、妹一家と一緒に墓参をした当日であった。
 帰宅後、お茶を飲みながらの話に、私が、その朝、新聞で読んだ「クエ」と「アブラボウズ」の偽装について話したところ、甥が、「クエ」は「アラ」ともいうけれど、また別に「アラ」という魚もいるのだと教えてくれた。
 「粗煮のアラとは違うの?」
 「勿論!」
 そんな言葉のやり取りをした。
 今、改めて辞書で調べてみると、<魚>(偏)に<荒>(旁)を書く「アラ」という魚が出ていた。(手書きして、この字を探してみたが、パソコンでは、見つけることができなかった)
 スズキ科で、やはり大型魚らしい。冬に美味、とあり、冬の季語にもなっている。

 クエの偽装問題から、食べたことも見たこともない魚について知った。
 偶然、同じページには、<ミートホープ社長 実刑(懲役4年)>の記事も出ていた。

 (写真 わが家にある杏が、花を開き始めた。)

魚偏の字 「鰰」など

2008-03-16 | 小さな記録簿

 3月14日の朝日新聞「天声人語」は、魚について書いていた。
 その冒頭に、
 <魚偏に雪と書けばタラ、冬だとコノシロ、では神は? 漢字にならって日本で作られた国字には、魚偏の字が一番多いという。判じ物さながらの難読ぞろいだが、日本人と魚の深い縁を示す証しでもある>
 とあった。

 鰯、鱚など、幾つかの国字を思い出しながら、さて、魚偏に神は?と、一瞬頭をひねったが、その魚の名前は、思いつかなかった。
 コラムの最後に、種明かしがしてあって、秋田の特産ハタハタだと知った。

 以前、お鮨屋で、魚偏漢字を沢山印字した、大きな湯飲みをよく見かけた。
 何とか読めても、書けといわれれば、さっぱりの漢字が多い。
 傍にあったメモ帳に、魚偏の字を思い出しながら書いてみたが、容易なことではなかった。第一、魚の名前がそう沢山は思い出せないのだった。

 今朝の朝日新聞<be on  Sunday>の、「築地 おさかな図鑑 10」にサヨリのことが出ていた。( )して、漢字が記してあった。(鱵)と。
 サヨリは美しい魚だし、味も上品で、好きな魚だが、漢字は初めて見るような気がした。
 旁の<箴>は、鍼治療の<鍼>と同じ意味なのだそうだ。細身の姿から作られた国字らしい。サヨリはまた、「細魚」「針魚」とも書かれるようだ。

 (写真は、魚とは関係ないが、我が家に咲いた白い椿。) 


「探梅」という言葉

2008-03-16 | 小さな記録簿
 今朝、赤旗新聞の日曜版を読んでいて、「探梅」という言葉に出会った。
 なるほど、いい言葉だと思いながら、広辞苑で確かめたところ、<晩冬の季語>となっていた。句作をする人にとっては、なじみの言葉なのだろう。
 歳時記には、
 <漢詩には「観梅」が梅林や庭園の梅を見ることであるのに対し、雪深い山に梅を尋ねることを「探梅」という。>
 とあり、別の言い方として、「春信(しゅんしん)」「梅探る」「春の便り」が挙げてあった。

 探梅や枝の先なる梅の花   高野素十
 探梅や遠き昔の汽車にのり  山口誓子
 探梅や息深くして梅に寄る   下村ひろし  (以上、歳時記より)

 「四季樹彩」(川隅 功)の記事を読んでいて、「探梅」という言葉に出会ったのだが、筆者は、次のように記していた。
 <探梅(たんばい)といって、咲き始めの時期、ところどころに咲き始めている花を探しながら鑑賞します。次に賞梅(しょうばい)は、いっせいに咲き誇った花を観賞すること。最後に送梅(そうばい)といって、咲き終わりの時期を名残惜しみながら鑑賞します。>
 と、時期による、梅花観賞の言葉を紹介していた。
 そこで、「探梅」についで、「賞梅」「送梅」についても調べてみたが、これらは辞書になかった。
 ただ、「日本国語大辞典」には、「送梅」が出ていた。しかし、ここで使われた意味とは異なり、<五月に降る雨。五月雨(さみだれ)>とあり、「送梅の雨」(「送梅」に同じ)、「送梅の月」(陰暦五月の異称)という言い方も載せてあった。
 新聞記事に出ていた「賞梅」「送梅」は、一般化されていない言い方なのだろうか。

 「四季樹彩」の記事には、東京都青梅市の梅林の、見事な写真が添えてあった。 山の斜面を利用した梅の公園なのだそうだ。約120品種、約1500本の梅があるという。紙上から梅の香が漂ってきそうな風情であった。
 この記事中に、紅梅の見分け方についても書いてあり、意外なことを知った。
 紅梅・白梅は、花の色で見分けるのではなく、枝の断面の色で区別するのだ、と。だが、そんな知識は、梅の香や花色を楽しむ私にとっては、どうでもいいことにも思えた……。

 (写真は、津和野町の小さな梅林。紅梅の花盛りだった。)
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画家 玉村方久斗(ほくと)

2008-02-07 | 小さな記録簿
 昨日、朝日新聞の文化欄に、高階秀爾の<美の現在>「大観と方久斗」が出ていた。大観が、横山大観であることは、すぐ分かったが、一方の方久斗については、初めて聞く名前であった。

 横山大観(1868~1958)
 玉村方久斗(1893~1951)

 高階氏の紹介によると、大観よりほぼ一世代遅れて京都に生れ、京都市立絵画専門学校に学んだ後、東京に居を移し活躍した画家で、京都在住中から、院展に入選、上京後には樗牛賞を得て、日本美術院院友に推挙もされたようだ。
 <その後、院展を離れ、一時は当時の最も先鋭な前衛運動に積極的に参画したが、再び日本画表現に戻り、風景、物語絵、さらにはモダン都市風俗などに多くの優れた作品を残した。>とある。

 現在、京都国立近代美術館で「日本画改革の先導者 玉村方久斗展」が開催中なのだそうだ。
 <これまで世に知られることの余りに少なかった偉才の、生涯にわたる作品138点と数多くの資料をそろえた見応えのある展覧会である。>と、高階氏の紹介にある。
 <会場の圧巻は、何といっても約80年ぶりに公開された「雨月物語絵巻」>であるとも。新聞に絵巻の一部(写真)が紹介されており、画風の片鱗をうかがうことができた。
 <その他(絵巻以外)の独自の優品とあわせて、どうしても見逃すことのできない展覧会である。>と結ばれている。

 会期が17日までとある。
 カレンダーを見上げ、もっと早く知れば、出かけることも可能だったのにと、残念である。
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求愛給餌の行動 (カワセミ)

2008-02-06 | 小さな記録簿
 なんだか哀しくなってしまった!
 求愛行動の必死さに。

 雄のカワセミは、水中から捕ってきた魚を嘴に挟み、お気に入りの雌にプレゼントしようとする。雌は、気づかぬ振りをして逃げ回る。
 それでも、雄は諦めない。
 また、魚をくわえたまま、追いかける。
 鳥には言葉はないが、行為で愛の思いを伝えようと必死だ。
 別に、選択可能なほど、沢山の雄がいるわけでもないのに、それでも雌はつれなく飛び去ってしまう。
 それでも雄は諦めない。
 逃げられれば、追っかける…。求愛の手を緩めない。

 が、さすがに空しさを覚えたのか、もう雌を追うことをせず、魚をくわえたまま、枝にじっとしていた。(右側のカワセミが雄。)
 と、雌の方が、ゴメンネと雄に近づき、餌を頂戴して、カップルが誕生した。

 求愛給餌の行動を、カメラはうまく捉えていた。
 哀しみが安堵に変わり……、眺めていた。

 (昨日のHVテレビより。千歳川のカワセミ。)

「冬虫夏草(とうちゅうかそう)」

2008-02-03 | 小さな記録簿

 「冬虫夏草」というのは、虫でも草でもなく、菌類なのだそうだ。
 その構造を説明した図絵と共に、分かりやすい解説が、朝日新聞の<be on Sunday>に載っていた。

 <「冬虫夏草」の胞子が昆虫の体につくと、胞子から体内に菌糸が延びて昆虫を殺してしまい、やがて菌糸は種から芽が出るように体の外に出てきて、子実体(しじったい)というものになり、また胞子が飛んで、ほかの昆虫に棲みついて増えてゆく…>という現象を繰り返すという。
 棲みつく昆虫は、セミ、アリ、ハチ、トンボ、ガなどの幼虫。その他、クモやキノコにも棲みつくのだそうだ。
 冬虫夏草の根元には、死んだ昆虫が埋まっているので、引き抜くときには、そーと掘り進むことが大事だとか。
 丈は、数ミリから数十センチのものまであって様々らしい。
 漢方薬として、また臓器移植を受けた患者の拒絶反応を防ぐための免疫抑制剤としても役立つというから有用な菌類だ。それだけでなく、ガの大発生を防ぐ役目をしてくれるために、ブナの林も、助けられているという。

 自然界、うまくできているものだと感心した。
 「冬虫夏草」は、夏、湿った森の中で見つかりやすいという。
 この変わった名前の不思議な菌類に、いつかお目にかかってみたいものだ。


「御開帳綺譚」より <雲雨>ほか

2008-02-01 | 小さな記録簿

 玄侑宋久の『御開帳綺譚』について、昨日のブログに、ごく簡単な感想を記した。大変面白く読んだのだが、評論めいた記事を書く元気も意欲もない。
 ただ、二、三の語句その他、覚書きしておきたいことがあるので、<小さな記録簿>に、メモしておこうと思う。

 ① 雲雨(うんう)
  <おそらく雲雨の最中ではなかっただろうか、無状は勝手に描いた薄暗がりに二人の交わる布団を思い浮かべ、それを見下ろす薬師如来とタケイを向き合う位置に想像していた。>
 「雲雨の最中」…と読んだとき、私の頭に?がよぎった。続きの文章に、「二人の交わる布団」とあり、十分察しはついたが、やはり気になって辞書を開いた。
 昨日は、当日のブログに書いたように、終日、ベッドに横臥して過ごしたのだが、携帯と子機、電子辞書は枕元においていた。

 【雲雨】
  ①雲と雨。転じて、いつくしみ。恩沢。
  ②(出典省略)力量を発揮する機会。
  ③(出典省略)男女の情交。
 玄侑氏の小説の中では、勿論③の意で使われているのだった。かなり一般的に使われる語かどうかさえ、私には分からない。なんだか品のある綺麗な表現だと思った。


 玄侑氏のこの小説にも、他の作品にも、時折出てくる言葉に「徒長枝」がある。
 <二日間降り続けた雨をしっかり含んだ葛や藤の徒長枝がフロントガラスを打ちつけ、飛沫をとばす。>
 実は、この語についても、私は昨年まで知らなかった。
 植木屋さんなどは、ごく普通に使われる言葉らしいが、私の語彙範囲にはなかった。それが、玄侑氏の小説の中では、さりげなく無造作に使われていて、その単語が生きている。

 ② 「供養とは、記憶を物語から開放することなのか、それとも新しい物語を提供することなのか?」
 
この言葉は、作品中の人物・無状(僧)の懐疑として出てくる。同時に、この作品では、記憶の問題が、重要な要素となっている。

 ③ 
「おんころころせんだりまとうぎそわか――いざや瑠璃光如来、我等の虚心にいでましたまえ」
 「おんころころせんだりまとうぎそわか――我等今、誠に愛憎の記憶を投げ捨てたり。苦しきは記憶なりと、我誠に知れり。いざやいでましたまえ。」
 
こうしたゴシック字体の表現は、小説の中では、僧・無状が、21年ぶりの御開帳のために書いたシナリオとして、文中に出てくる言葉である。
 これを読んでいると、不思議に心が洗われてくるのだった。

 巻末に、脳科学者の茂木健一郎氏が、解説を書いておられる。「揺れ動き、見えた光」と題して。その中から、
 ④ 無記
 「よく知られているように、仏陀自身は「死後の世界」に関する問いに、頑なに沈黙を守った。「無記」として知られるこの態度は、現代の科学的精神を支える合理主義にもつながるが、その一方で、死を前にして動揺しがちな人間の心理に対しての、実際的な処方箋でもある。…」

 広辞苑には、次のように記している。
 【無記】
   ①釈尊が他の思想家から向けられた形而上学的質問に対し、沈黙を
     守って答えなかったこと。無記答。
   ②三性(さんしょう)の一。善でも悪でもないもの。

 ⑤茂木氏の解説より
 「人間は、何故夢を見るのか。夢がとりわけ頻繁に現れるレム睡眠において、脳は昼間の体験を整理しているというのが有力な説である。その際、間近の経験が過去の痕跡と照合され、整合性がとられ、新たな意味が見いだされる。そして、そのような記憶の整理の甘い副産物として、夢が私たちに訪れる。そこに現れるものたちの姿は、純粋なる仮想でもなく、単なる現実の映しでもなく、私たちの切ない願望や、忘れかけていた記憶や、他者の存在を反映している。
 仏教におけるヴィジョンの多くも、そのようなものではなかったか。仏陀が菩提樹の下で瞑想する時、自然人としての仏陀の脳の中では、若き日の放蕩から四門出遊まで、様々な体験の記憶がうごめき、絡み合い、沸き立っていたはずだ。その中で見たとびっきりの超越的な夢こそが、「悟り」ではなかったか。悟りが夢であると断ずることは、決してそれを貶めることではない。現実と仮想のあわいの中に生きる人間の切なさを引き受けたからこそ、仏陀の悟りは人々の心を動かし、その教えが遠く日本まで伝わり、玄侑宋久さんが小説を書き、そして私たちがそれを読んでいる。仏教という、人間が見た儚くも切ない、真の夢の系譜の中に、阿弥陀如来があり、玄侑さんの小説がある。」

 
引用が長くなったが、ここには茂木氏の夢分析、夢と悟りの関連性(仏教論)、さらには玄侑の作品論に至るまでが、選ばれた言葉で、端的に語られており、さすがと思った。


「ドッペルゲンガーと呼ばれる現象」

2008-01-27 | 小さな記録簿
 「ドッペルゲンガーと呼ばれる現象」も、玄侑宋久の『アミターバ 無量光明』の中に出てきたものである。末期がんの女性が、幻覚のように見た光景について、上記の表現が使われていた。
 患者に、その意味を聞かれた慈雲(患者の娘婿)は、次のように答えている。

 『私も道場で経験があるんですが、……ふとした時に、まあ体がしんどい時なんかが多いそうですけど、もう一人の自分が見えちゃうんですね。ドッペルゲンガーっていう言葉は、もともと『分身と行く』っていう意味らしいんですが……」
 その後に、言葉を換えて、
 「……結局、幻覚みたいですね」
 とか、
 「脳の錯覚です」
 といった言葉で説明している。

 上記の説明で、「ドッペルゲンガーと呼ばれる現象」は大体理解できたが、広辞苑でも調べてみた。

 「ドッペルゲンゲル」で、出ていた。(ドイツ語)
 (ドッペルゲンガーとも)と、補足されている。
 意味は、①生き写し。分身。
       ②自分の姿を自分で目にする幻覚現象。
 と、あった。

 (写真 1月22日、山口の懐古庵の庭で撮った斑入りの蕗の葉。冬というのに、威勢がいい。)

<尖痛>と<疝痛>

2008-01-27 | 小さな記録簿
 玄侑宋久の『アミターバ 無量光明』に、<尖痛>という言葉が出てきた。
 末期がんを病む女性を襲う痛みの表現であった。
 なるほど<尖痛>ね、と思いながら、どんな痛みかを想像した。多分、錐のように先端の尖ったもので突き刺された時に生ずる、ひどい苦痛を伴う痛みだろう。しかし、私自身は、<尖痛>という言葉に出会うのは初めてだった。
 そこで、すぐ辞書を調べた。
 同音で<疝痛>は出ていたが、<尖痛>はなかった。
 <疝痛>には、<はげしい発作性の間欠的腹痛。腹部内臓の諸疾患に伴う症候で、胆石症発作・腎石発作・腸閉塞などに際して現れる。>と説明してあった。

 痛みには無縁でありたい。
 心の傷みも、身体の痛みも、できるだけ避けて通りたい。
 上記小説の主人公の病状表現として出てきた<尖痛>は、<疝痛>と同じ意で遣われたのか、玄侑氏の造語なのかはよく分からないが、痛みの性質をよく伝えている熟語だと思う。
 私は、<尖痛>のおかげで、<疝痛>という言葉についても知ることになった。

 (写真 1月25日朝の土田海岸。)
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