ぶらぶら人生

心の呟き

六月の花々

2011-06-29 | 身辺雑記
 ブログの更新を怠っている間に、6月も今日と明日を残すだけとなった。
 カメラに収めた花々を記録に留めておこう。

 過日、ポストに向かって歩いているとき、堤の側に朱色の花が咲いているのに気づいた。
 足を止めてみると、どうやら柘榴の花らしい。
 そのあたりには、数珠玉が生えているだけだったのに、鳥が実を運んできたのだろうか。

 帰途、一枝折り取って帰り、花瓶に挿した。
 艶やかな光沢のある花と蕾。

     

 沙羅の花。
 夏椿が正しい名のようだ。
 友人宅の庭に咲いていた。
 花も葉も椿に似ているが、幹は滑らかで百日紅の木肌に似ている。
 ひと日を咲いて、夕べには落花するはかない花だ。

 『歳時記』を開いて、気に入った句を拾ってみた。
 
   沙羅の花捨身の落花惜しみなし     石田波郷
   茫々の記憶や人に沙羅咲いて      黒田晩穂
   沙羅落ちて大地に還る色となる      柴田道人
   かはたれの空より沙羅は地の花に    西田光子

         

   ヘメロカリスとギボウシの花。

   

 以下、身近に咲いた紫陽花。

     

           

                  

       

       

           
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蕁麻疹と瓢箪木

2011-06-16 | 身辺雑記
 昨日から、身体の柔らかな部位に、湿疹が出たり引っ込んだりしてかゆい。
 気分も落ち着かない。過去に二回経験した蕁麻疹とはいささか異なる。
 帯状疱疹とかいう厄介な病気の可能性も考えて、T医院で診てもらった。

 やはり単なる蕁麻疹だった。
 かつての蕁麻疹は、鯖が原因で、一円玉のような湿疹が、全身に出た。
 今回は、場所を変えながら、体の一部に、さまざまな形で現れた。
 原因は、よく分からない。
 最近、鯖は食べていないので、毎朝食する卵が原因だったのかしら?

 とにかく、注射を打ってもらった。
 左腕には、先日、採血の折にできた大きな痣があるので、右腕を差し出し、あのほんわか体の温まる注射をしてもらった。飲み薬も、4日分が出された。
 湿疹が収まらなければ、明日もう一度来てください、とのことであったが、湿疹は、夕方には消えてしまった。

 先日の血液検査の結果票もいただいた。
 今のところ、コレステロール、中性脂肪、血糖値など、すべて基準値内に収まっている。


 今日の医院には、患者さんの届けられた<瓢箪木>の鉢が置いてあった。
 看護師の話によると、二つくっついた赤い実が、瓢箪に似ているところからの命名らしい。
 実の色もよく、仲良く寄り添った形が可愛らしい。

 インターネットで調べてみると、その花は、野辺で見かけるスイカズラにそっくりだった。
 花の時期も、見応えがあるだろう。
 
 蕁麻疹のお蔭で、瓢箪木という珍しい植物に巡り合えた。
 こんな幸運もある。 


        
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津和野の六月

2011-06-15 | 身辺雑記
 梅雨の時期にもかかわらず、津和野には観光客が多い。
 私も、旅人のように、殿町を歩いた。
 花菖蒲や鯉を眺めながら。
 
 昔、4年間を過ごした小さな城下町は、いつ訪れても、漂う空気に懐かしさがある。

 しかし、津和野の季節で、一番好きなのは冬。二番手は霧の立ちこめる秋の風情。

      

          

      
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束の間の…

2011-06-11 | 身辺雑記
 束の間、夕方の空が晴れた。
 戸外に佇み、夕焼け雲と、夕月を眺めた。

 刻一刻変わる風景との出逢い。
 過去に幾度も、似通った風景の中に佇んだ気がする。
 懐かしい眺めである。

       

       

       
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患者さんの盆栽

2011-06-09 | 身辺雑記
 内科の定期健診に出かけた。
 血圧良好。
 半年ぶりの血液検査も受けた。
 採血のとき、ちくりと痛んだ。
 針の刺された周辺に、みるみる紫色と黄色みを帯びた痣が広がった。
 血液が漏れたのだろうか? 
 半袖を着るまでに、消えてくれるといいけれど…。

 「大病はできませんよ」
 昔、医師に言われたことを思い出す。
 血管が細すぎるのだ。今でも、採血や注射のとき、看護師に苦労をかけることが多い。
 
 
 T医院では、訪れるたび、患者さんの育てられた盆栽に出合える。
 今日も、新たな鉢が置いてあった。
 写真は、以下、<薔薇(雅 みやび)><薔薇(雅)とイワガラミ><テイカカズラ><イワガラミ><イセナデシコ>である。
 薔薇もテイカカズラも、芳香を放っていた。

 幾年をかけて育てられたものであろう?

 この盆栽の育て主(患者さん)には、まだお目にかかったことがない。
 が、盆栽の佇まいを眺めていると、その人の心延え(こころばえ)が見えてくるような気がする。


       

       

       

           

       

           
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草花舎 若手彫刻家3人展

2011-06-07 | 草花舎の四季
 今日は、一週間ぶりに草花舎へ出かけた。

 今、草花舎では、<若手彫刻家3人展>が開催されている。
 昼食をいただき、3人(楠直明・丸橋光生・七搦綾乃)の作品を観る。
 3人とも、1980年代生まれ。新進気鋭の作家である。
 その作品には、若手らしい新鮮な魅力がある。三人三様の個性が面白い。

 草花舎に、作家の一人、楠直明さんの姿があった。
 以前一度、草花舎でお会いしたことがある。その折、直接話はしなかったが、19歳の頃、バイク事故で大きな怪我をされ、九死に一生を得て、再起されたのだと伺った。

 食事を終えてコーヒーを飲んでいるところへ、楠直明さんが隣席に来られ、二人で話をすることになった。
 事故後の療養の経緯について、さらには大怪我の体験が、彫刻家として生きる決意につながったことなど、改めて詳しい話を聞かせてもらった。

 楠さんの作品は、素材である石の持つ命が、作家の心眼によって生かされている。
 石の命と作者の魂との融合、そこに作品の誕生があるようだ。
 野外展示、室内展示の作品それぞれに、魅力がある。が、写真に収められた作品群の中に、さらに魅せられる作品がいくつもあった。
 
 以下は、楠直明さんの肖像とその作品。

       

  

  

 丸橋光生さんの作品。
 日常の身辺にある道具やプラスチックの小物などが素材として使われ、遊び心の感じられる作品だ。
 発想が面白い。

         

              

 七搦綾乃さんの作品。
 草花舎の入り口に向かうとき、突然目に飛び込んできた庭に佇む少女の像に、びっくりした。
 不思議な雰囲気をかもしている。
 壁には、形の異なる雲を頭上にいただく少女たちの像が、かけられていた。
 木彫のやさしさ。

          

              


 中庭の蘇鉄のそばには、真っ赤なアマリリスが咲きそろっていた。

         
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ジューンベリーの実り

2011-06-06 | 身辺雑記
   

 喜寿の記念に、ジューンベリーの木を植えたのは、昨年の1月だった。
 その年、春になると花が咲き、実をつけた。が、味わう間もなく、気づいたときには、鳥にすべてを食べられていた。
 そこで、同じ失敗を繰り返さないように、今年は朝夕怠りなく様子を見てきた。

 無事、完熟の時期を迎えた。
 小さな赤い実が、小枝の先に愛らしく熟した。
 そっと指でつまんでみると柔らい。
 そろそろ食べごろなのかも知れないと、早速、数個の実を洗って食してみた。穏やかな甘みがあって、癖のない味である。が、あまりに小さく、少々もの足りない。
 味よりも、目で楽しめばいいのかもしれない。例えば、サラダなどに添えて。
 (ジャムを作ってみる意欲はない。)

 今日は、S眼科で検診を受けた。
 白内障があるので、半年に一度は検診するよう言われているのだが、格別異常を感じないまま、前回の検診から、一年半が過ぎた。
 予想していたとおり、視力は少し弱っていた。が、白内障の進行はゆるやからしい。手術の必要はなくほっとする。

 S医院に近い民家の庭先に、木苺の実が熟していた。
 この時期、茱や桑の実など、みな食べごろになっているのかもしれない。
 暦の上で、今日は<芒種>とか。
 昔は、田植えの季節であった。最近は、5月の初旬に田植えは終わってしまうようだけれど。
 <農繁休業>という特別休暇のあった、のどかな昔を懐かしく思い出した。

 帰途は、タクシーを利用した。
 車上の15分間、運転手と、大震災や津波、原発事故や政治の混乱など、時世を話題とした。
 その人によると、当地にも、大津波に襲われた歴史があるのだそうだ。
 <万寿の津波>と呼ばれる大津波で、現在の市街地は、大きな被害を蒙ったらしい。

 <万寿>とは、いつ頃のことだろう?
 歴史に詳しい友人に尋ねたり、私も『日本史辞典』を調べたりして、1024~1028(平安時代)だと分かった。
 約1000年前のことだ。
 初めて聞いた話で、信憑性のほどは明らかでないけれど、ありえないことではない。
 自然災害は、いつも突如やってくる。

 私は、日常の些事に一喜一憂の日々を過ごしながらも、3月11日以後は、私事以外のことで、やはり心が重い。明るいニュースのないままに。 
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川上弘美ワールド

2011-06-03 | 身辺雑記
 <これが終わるまで生きてるかな。
  そんなふうに、しばしば思うようになったのは、この数年のことだ。
  深刻に思うわけではない。
  私はさいわい今のところ病気でもないし、市の健康診断で悪い数値が出ることもない。けれ
 ど、この年になると、なにしろあちらこちらにガタが来るのだ。
  朝起きると、突然膝が痛くなっていたり。
  体の全体がなんとなくしぼんだ感じになったり。
  心臓が苦しくなったような気がして、でもすぐにすうっとなおったりして。
  人に会うのが面倒になったり。
  体の、隅から隅までが完全に元気、ということは、ほぼなくなってしまった。
  といって、終日苦しいとか、鬱々としている、ということでもない。>
          川上弘美著『パスターマシンの幽霊』所載の「庭のくちぶえ」より

               

 読みかけのまま、積み上げてある書籍の中に、川上弘美著『パスターマシンの幽霊』をみつけた。
 栞の紐が本の半分どころにあり、読みかけであることを示している。読了していれば、習慣に従って、栞を本の扉に収めているはずなのだ。
 発行日が2010年4月22日になっている。発行直後に、この本を購入し、半分読んで、そのまま放置していたらしい。1年余りも。

 22編からなる短編集である。今日、未読の作品を読み上げた。
 お腹にもたれない、おいしいご馳走を味わっている喜びを感じながら。

 芥川賞受賞作『蛇を踏む』以来、この作家の作風が気に入って、かなりの作品に接してきた。深刻さはないけれど、人びとの心の内面に潜む機微を上手く表現していて、独特の雰囲気が楽しめる。
 特殊な人が登場するわけではない。身近なところにいそうな人たちが織り成す人生模様が面白いのだ。
 ソフトな文体も、心地いい。
 川上弘美さんにしか書けない世界である。
 登場人物の、心の揺らぎを表現することが、格別上手だと思う。
 
 最初に引用した文章を読みながら、私の今を代弁してもらっているような気がした。
 私の場合は、血圧、コレステロール、骨粗鬆症など、数値に問題があり、病院の薬をもらっている。が、怖いことかもしれないけれど、いずれも自覚症状はない。
 ただ、心境的には、作品に登場する初老の女性によく似ているのだ。
 

 以前読んだ同作者の『センセイの鞄』が、書棚のどこかにあるはずだ。その横に、読了したこの本を早速納めておこう。          
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6月の庭 (梅雨の花々)

2011-06-02 | 草花舎の四季
 昨日、草花舎に出かけた。お昼をいただくために。

 半月の間に、庭の装いはすっかり変わっていた。
 今は、梅雨の花々が、地上を明るく彩っている。
 天上の梅雨空(昨日はしばし晴れ間ものぞいたけれど)と対照的だ。
 庭の緑も濃くなって。

 人の名前も花の名前も、記憶の引出しから探し出すのに時間がかかるようになった。老化現象である。
 気にはかかるけれど、無理はしないことにしている。何かのはずみでふっと蘇るときを待つことにしようと。
 昨年や一昨年のブログ「草花舎の四季」を開けば、四季折々の花の名前をすぐ確認できることも分かっているけれど、そこまでしなくてもいいか、との思いである。

 大きい写真は、<上 黄金ヤマボウシ> <中 ヤマボウシと薔薇> <下 スッモグツリーの花>。
 (他の名前は省略。)

 時折、草花舎でお目にかかる女性に、久しぶりにお会いした。
 <夢見る少女>の面影を持ったまま年を重ねられた人である。

 亡きご両親の話を初めて聞いた。
 彼女は、さりげなく真実を語る人である。
 
 端々の言葉から、彼女の父上・母上像を想像し、軋轢のあったご両親の半生に思いを馳せた。人の一生には、それぞれにドラマがあるものだ。
 きっと、過ぎ去った長い時間には、苦い想い出を浄化させる力があるのだろう。彼女は、懐かしみむように、過去を語られたのであった。
 その物語は、私の心にしまっておくことにしよう。

 Yさんからは、石州和紙会館のAさんが、5月末で退職されたと聞いた。
 和紙職人を志しておられたというのに、諦めざるを得ない事情があったようだ。
 いい人なのに、と思う。
 いい人に、いい人生が約束されるとは限らないのが哀しい。
 こちらは、現実的なお話なので、辛い思いだ。

 帰途、日傘に気まぐれな雨が落ちた。
 空も心も晴れない6月のスタートとなった。      


      

      

      

  

  

  

  

  

  

         


        室内にも、季節の花々。 

  

         
 
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燕の雛、孵る

2011-06-01 | 身辺雑記
   

 郵便局に着くと、視線は燕の巣を捉えた。
 今年も、無事雛が孵化したようだ。
 一羽の親燕が、巣の端にいる。心なしか落ちつかぬ様子である。
 私の姿に警戒心を抱いているのだろうか?
 危害を加えられないようにと、幼い子燕を見守っているようにもみえる。

 若くて美しい女性の局員が、脚立を持ってきてくださった。
 
 「4羽、いるようです」
 と、教えてくださった。
 が、その姿は見えない。
 大きな口をあけて餌をねだるには、幼すぎるのだろう。
 親燕が代わる代わる餌を運んでくると、巣の中に蠢くものがかすかに感じられる。
 
 結局、折角の脚立は使わなかった。

 
 震災地にも、燕はやってきているのだろうか?
 昨年の棲家を失った燕は、戸惑ったことだろう。
 完全に棲家を失ったもの、傾いた家の軒端だけは残っているもの、様々に違いない。
 燕にとっても、受難の初夏である。


 昨年、郵便局の燕のことをブログに書いたご縁で、毎日新聞の女性記者Rさんと知り合った。 その有能な彼女は、九州に転勤され、お会いする機会がなくなった。
 が、燕の季節になると、毎年Rさんを思い出すだろう。
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