ぶらぶら人生

心の呟き

北浜へ散歩

2010-02-23 | 散歩道
 無気味なほど暖かい日が続く。
 お天気に誘われて、庭に出た。
 誕生日の記念に植えてもらった、ハナカイドウに花芽がついている。
 落葉樹の芽吹きを確かめると、アンズの木も、花芽をつけていた。
 確実な春へのあゆみを、木々の細い枝が物語っている。

 心地よい晴天なので、戸外を歩いてくることにした。
 足の向くままに、国道を東に歩き、途中から海辺へ延びる小径に向かった。
 辿り着いた<北浜>には人気がなく、佇むのは私ひとりであった。
 手前の小さな川が、砂を運んでできたのが<北浜>だと、以前に聞いたことがある。

 遠い昔の日露戦争にゆかりのある浜でもある。
 立札には、謂れが記してある。
 <ここ北浜は日露戦役日本海海戦において撃沈された露国バルチック艦隊所属の特務巡洋艦ウラル号の乗組員が上陸した所である。>
 と。
 その日(5月28日)を記念して、戦争中は、この浜で学童の運動会が、催された旨も記してある。
 5月末は、雨の日が多いのだろうか。
 終戦前の二年、私はこの地の国民学校に在籍した。が、この浜を走った思い出はない。二年連続して、運動会が雨で中止になり、内心ほっとしたことを覚えている。

 つい最近まで、<北浜>を訪れることはなかった。
 歩いてみると、家からそう遠い距離ではない。
 今日は、北浜から小さな丘を越えて、土田の浜辺に出た。
 日差しが、強すぎるくらいの今日であった。

          
          
          

          
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2月の庭 (クリスマスローズと梅)

2010-02-22 | 草花舎の四季
 二週間ぶりに草花舎にゆく。
 スーザンさんは、膝の調子がよくないとのこと、今日もお会いできなかった。
 明日は、病院に行き、診断と治療を受けられるのだという。
 直接お見舞いを言う英語力が私にはなく、Tちゃんを通して気持ちを伝えていただくことにする。

 食事の後、書棚から辺見泰子の『野の花つれづれ草』を取り出して、ページを繰った。
 野辺の草花が描かれ、エッセイが添えてある。
 その絵を、ボタニカルアートというのだと、Yさんに教えてもらった。
 野草の花だけでなく、地下茎までが描いてある。
 生命の全体が描かれているのだ。
 力強い花は、強靭な根に支えられている!
 当然のことに改めて感心する。

 草花舎で、かなり以前に、辺見泰子さんのボタニカルアート展をされたことがあるそうだ。私の記憶にないところをみると、山口で過ごしていたころなのだろう。
 入り口の壁に、辺見さんの、ピンク色の椿の花を描いた作品が掲げられていた。

 (帰宅後、パソコンで、ボタニカルアートについて調べた。植物の細密画の歴史は、かなり古いらしい。NHKの<趣味悠々>でも、2008年に、ボタニカルアート入門が放映されたことも知った。)
 

 草花舎の庭に、少しずつ春が感じられるようになった。
 今、クリスマスローズの花が見ごろを迎えている。
 前庭と奥まったところの二箇所に、色の異なる花が咲いていた。
 クリスマスローズは、恥らうように咲いている。
 白い花は、花弁を少し持ち上げて、カメラに収めた。
 

                

        

                

        

 小梅の白い花も紅梅も、今、花盛りである。

                

         
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光る海

2010-02-22 | 散歩道
 昨日、午後、海辺に行ってみた。
 海面に、無数の光が踊っていた。
 こんな光景を眺めるのは珍しい。
 少し西に傾きかけた太陽光線が、海と戯れているのだった。
 肉眼で見た、光る海の光景を、うまくカメラに収めることはできなかった。

             

 国道をしばらく歩いて、土田の浜に向かった。
 途中、山よりにそびえるヤシャブシの木の下に立った。
 春をいち早く感じさせる木である。
 雄花の穂が、梢に垂れているのが見える。昨秋の実をなお枝に残したまま。
 見上げた梢の隙間に、白い月が淡く浮かんでいた。7日ばかりの月である。
 添付の写真に、その月を見つけてもらうのは、ちょっと無理かもしれない。

            

            散歩の途次に見た花壇の花。

            

            
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<雨水の日>の朝は、淡雪

2010-02-22 | 旅日記
 19日の朝、山口に出かけた。
 県境の町は、雪景色となっていた。
 早朝に降り積んだ雪なのだろう。
 淡雪である。
 すでに青空が広がり始め、瞬く間に溶けてしまいそうな雪であった。
 それでも、ひと時の雪景色を楽しむことができた。
 添付写真は、ガラス窓越しに撮った雪景色である。
 この冬の雪の眺めは、これが見納めかもしれない。

             

             

             

 山口に一泊し、20日は晴れやかな空の下、友人の車に乗せてもらって、ドライブした。
 訪れてみたいと思いながら、そのチャンスを逸していた、<秋穂大橋>へ向かって。
 阿知須を経てのドライブ。
 山陽の海辺の空は、見慣れた山陰の空に比べて広いと思ったり、ゴツゴツした岩肌の小山の一つにも、独特な雰囲気を感じて楽しんだ。
 帰途、フロントガラスを通して、秋穂大橋の中央部をカメラに収めた。
 空をキャンバスにして、雲の塊を自在に投げつけたような佇まいが面白い。
 こんな雲の描かれた絵画を見たような気がした。
 誰の絵だったかしら?
 ふと、古賀春江の名が浮かんだが、果たして、このような雲を浮かべた絵があったかどうか、全く自信はない。

            
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車窓に海を眺めて

2010-02-18 | 身辺雑記
 相変わらず、寒々とした日が続く。
 今日は、美容院に行くため街に出た。
 実に30余年の長い間、同じ美容院に通っていたのだが、ここ数年は、必ずしも快適な場所と思えなくなっていた。ただ惰性で通い続けてきた。
 なぜここでなければならないのかと、つい最近になって、疑問を強くした。
 遅まきながら、お店を選ぶ自由は私にあるのだと気づいたのであった。
 お店の方は客を選べないけれど、私がお店を選ぶのは一向にかまわないのだと。

 過日、行きつけの書店で、M美容院の評判がいいと聞いた。
 交通の便もいいし、とにかくM美容院に行ってみることにした。

 今日は、M美容院に満足して帰ってきた。
 お店を変えてみて、様々な面で、やり方が異なることにも気づいた。
 垢抜けした雰囲気や顧客に対する温かな接し方が、最も気に入った面である。
 何ゆえに、今まで逡巡し続けてきたのだろうと思う。意に添わぬまま、なにも我慢し続けることはなかったのだと、今は思っている。
 私は、つまらないことに優柔不断なところがある。
 
 このところ、頭髪にも老化を感じていたのだが、今日は少し艶やかな髪に若返ったような気さえし、しばしば頭髪を撫でては喜んでいる。

 今日は、電車で帰宅した。
 国道を走るバスと違って、山陰本線は海辺に敷設されているので、車窓にはスケールの大きな日本海の風景が広がる。
 下の写真2枚は、窓ガラス越しに撮った、今日の海辺の景である。              
              
            

            

 髪の手入れの後、M喫茶店で、食事をした。
 お手洗いに、光沢のある赤い実の小枝が活けてあった。
 「アオキ?」
 と、懇意なウエイトレスに尋ねた。
 葉がアオキに似ていたからである。
 「タブノキだそうです」
 「タブノキ?」
 と、問い返しながら、私は市内の、とある中学校の校門脇にあった、大きな椨(たぶのき)を思い出していた。縦横に伸び広がった木は、実に堂々たるものであった。
 あの木が赤い実をつけていた光景は蘇らなかった。
 内心、椨の実? と、納得いかなかった。

 帰宅後、植物の本で調べてみると、椨の<液果は紫黒色に熟す>とあった。
 葉の形状も異なるようだ。
 家の庭にある斑入りのアオキは、めったに実をつけないので、比較しにくいけれど、写真の美しい赤い実は、やはりアオキでは? と、いう気がするのだが、どうだろうか。

              
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「ほどろほどろ」いう畳語

2010-02-17 | 身辺雑記
 最近読んでいる辺見庸さんの本で、出合った言葉に「ほどろほどろ」という一語があった。

 <牡丹雪がほどろほどろに降りつづいていて、世界がことさら白く容儀をただし、なんだかものみなあらたまったような朝であった。>(『記憶と沈黙』P15)
 
 「ほどろほどろに」
 「世界がことさら白く容儀をただし」
 などの言い回しに表現の妙を感じながら、雪の朝の情景を思い描いた。

 私の語彙に、「ほどろほどろ」はなかった。
 牡丹雪のどんな降り方なのだろう? と、傍の電子辞書(広辞苑)を引いた。
 すると、
 <「ほどろ」の畳語。万葉集(8)「沫雪(あわゆき)の―に零(ふ)り敷けば>
 と出ていた。

 「ほどろ」を改めて調べると、
 <(ホドは散りゆるむさま。ロは接尾語)
 ①雪などが、はらはら散るさま。万葉集(10)「庭も―に雪そ降りたる」
 ②⇒「夜のほどろ」に同じ。(注 「夜のほどろ」とは、「夜がほのぼのと明けるころ」の意。)
 ③ワラビの葉や茎がのびてほおけたもの。(以下、略。)
 と、記してある。

 水気を多く含んだ牡丹雪が、やや重々しく降っている情景だろうか。
 辞書に、万葉集の歌例が引用されているところからも、古くは、一般に使われていたのであろう。また、古歌に親しんでいる人には、もの珍しい語句ではないのかもしれない。

 ついでに、『日本国語大辞典』も調べてみた。
 さすがに詳しく、上記の意味にプラスした説明もあった。
 「ほどろゆきじ」(ほどろ雪路)という項目もあった。
 <まばらに雪がつもっている道路。※赤光<斉藤茂吉>「ゆふぐれのほどろ雪路をかうべ垂れ湿れたる靴をはきて行くかも」>
 と。
 「ほどろ」がきっかけとなり、斉藤茂吉の歌にも出合った。

 最近、「ほどろほどろ」という表現にふさわしい雪の降り方に出合うことは少ないようだ。
 が、目を閉じると、昭和40年前後の、雪の多かった時期の風景が思い浮かぶ。
 当時は、雪の積もりやすい山間の町に暮らしていた。雪にまつわる思い出は様々である。
 近頃は、暖かな冬が多くなって、場所によっては、冬らしい雪景色が見られなくなった。それと同時に、雪にまつわる豊かな語彙も消えてゆくのではと、危惧を抱いてしまう。

 昨日の午後、ポストまで歩いた。
 折から、霙が降り、粉雪が舞っていた。
 が、「ほどろほどろ」という、形容には似つかわしくなかった。


 (写真 昨年の夏からずっと咲き続けたノボタン。その木が、2センチほどの小さな花を咲かせている。これが最後の花。次の楽しみは、訪れる夏を待たねばならない。)

                
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庭に、春の萌し

2010-02-15 | 身辺雑記
            


            

 先日、スーパーの野菜売り場に、蕗の薹や楤(たら)の芽などの、パックされたものが並んでいた。春の山菜が収穫される季節なのだ。
 早春の味覚を楽しもうかと一瞬思ったけれど、そう好物というわけでもないので、買い求めることはしなかった。
 <春>の独特な風味を想像して、心楽しむだけにした。

 その時、家の庭にも、蕗の薹がのぞいているだろうかと思いながら、そのまま確かめるのを忘れていた。
 昨日、土田の浜から帰った後、家の小さな庭を一巡した。
 蕗の薹が二つ、石ころの中から覗いていた。
 一つは食するにちょうどよさそうであったが、写真の蕗は長けすぎて、花になる日が遠くなさそうであった。この萌葱色こそは、春の萌しの色である。

 庭に春を探していると、沈丁花の蕾も、先端に紅を覗かせていた。
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幾日ぶりかの海辺

2010-02-14 | 散歩道
        

                  

 今日は、久しぶりに土田の浜に下りてみた。
 散歩を楽しみ、また、潮風に身を任せて佇むために。
 海に着くまで、誰にも会わなかった。
 声の届かぬ、はるかな防波堤に、釣り人の姿が数人あった。
 人の姿を見て、妙な安堵感を覚えた。
 それとは何の関係もないことだが、渚に立ち止まって、眼前の風景を眺めているうちに、先日読んだ、まど・みちおさんの詩を思い出した。

         うみとそら

       うみは おとうと
       そらは にいさん
       あおい あおい
       あおい ゆめを みてる
       いつも いつも
       ふたりで

       うみは おとうと
       そらは にいさん
       あおい あおい
       あおい うたを うたう
       いつも いつも
       ふたりで

       うみは おとうと
       そらは にいさん
       あおい あおい
       あおい あすを くれる
       いつも いつも
       みんなに

 ひらがなだけの平易な詩。説明は不要である。
 しかし、奥は深い。


 波打際をたどって、突き当たりの丘に上がると、そこに一軒屋がある。
 同級生のYさんの家である。
 元気だろうかと、家に立ち寄ってみた。
 先日の、Mさんの葬儀に姿のなかったことも気になっていた。
 Mさんは、YさんのことをYAEちゃんと呼び、独り居のYさんを案じる情けを備えた人であった。それはYさんにも通じているはずである。
 Yさん宅の庭先で、落日を眺めながら、三人で話したことが一度ある。
 あれは、三年くらい前だっただろうか。
 その後、土田の浜まで歩いたときには、折にYさんの家に立ち寄ったけれど、いつも留守だった。子供はすでに家を出て、ご主人の亡き後は独り身のYさんだから、私同様、留守のことが多くても、不思議はない。
 が、今日は不在が、少々気になった。
 葬儀の日に会わなかったこと、そして、今日も留守であることが…。

 Yさんの前庭の花を眺めさせてもらった。
 庭の手入れが行き届いている。
 紅梅の枝々の遥かに、海が見え、絶え間なく潮騒が聞こえてきた。
 ボケの花が咲き、クリスマスローズの花も咲いていた。

 帰宅後、Yさんに二度電話してみたが、まだ通じない。 

        

                  

                 
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今日の始まり

2010-02-14 | 身辺雑記
            

 意外に面白い写真?! 
 と、ひとりで面白がっている。

 真正面にある丸い日影は、午前の10時頃、洋間の窓から見たもの。
 山のように見えるのは、庭のツゲの木。
 山の端を昇る満月を撮った写真のように見えるけれど、実は薄雲に覆われていている太陽なのだ。
 今日は一日、お日様は薄い雲に覆われ続けていた。

 写真の上部にある黒いものは、屋根の樋である。 
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地球儀をくるくる回して

2010-02-13 | 身辺雑記
            

 今日、バンクーバー五輪の開会式をテレビで見た。
 カナダという国の、歴史のあらましを知った。
 存在するものの歴史や背景を考えずに、漠然と<今>を見ていることが多い。
 曖昧な見方は、正しくその国を知ることにはならないだろう。
 それは、国々のことに限らず、身辺の物や人についても、同じことが言えそうだ。
 見ているようでいて、本質的なものを見ていない、そんないい加減な見方をしていることが、私の場合は実に多い。
 
 カナダの国旗が、カエデ(maple)の葉を象ったものであること、それが国旗に図案化されたわけ、民族との係わりについても知った。
 開会式では、秋の情景として、会場が赤く彩られた。
 カエデの赤い葉が、無数舞い落ちて、会場を埋め尽くしていた。
 
 今回の冬季オリンピックに参加する国と地域の総数は82で、過去最大だという。
 次々と入場する各国の選手団を見ながら、初めは地図帳を開いて国の位置を確かめていたのだが、地球儀の方が分かりやすそうだと気づいた。
 そこで、棚の地球儀を下ろし、膝の上に乗せた。そして、くるくる回して参加国の位置を確かめたのだった。すぐには見つからない国や地域もある。

 地球儀上で、国の在りかを確かめているうちに、有名な国と国との位置関係を逆さに覚え込んでいることに気づたりもした。いい加減さにあきれながら…。
 開会式を見たことが、社会科のささやかな勉強になった。

 メダルの数には、あまり関心がない。
 スポーツの集いが、地球上の国々の親睦や理解に、少しでもつながればいいと思っている。
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