ぶらぶら人生

心の呟き

9月の庭 (ツユクサ)

2008-09-29 | 草花舎の四季

 今日、眺めた花の中で、一番多くの時間を費やしたのは、ツユクサの繁みの前であった。
 庭のあちこちの雑草に混じって、今ツユクサが美しい。(写真)

 花の色も神秘的だし、その構造も、神技を感じさせるほど、はなはだ妙である。
 子供のときから見慣れてきた花なのに、改めて見ほれてしまった。

 今日、Y さんに、
 「<草花舎の四季>の始まりは、いつでした?」
 と、尋ねられた。
 「お母さまの亡くなられた少し前からではなかったかしら?」
 「じゃぁ、そろそろ二年?」
 「そうかもしれない…」
 そんな話をし、帰宅後、ブログを確かめた。

 Y さんのお母様に初めてお会いした印象や、その直後に急逝された哀しみをブログに書いたことは、よく覚えている。
 が、<草花舎の四季>というカテゴリーを設けたのは、それよりも後の、2007年2月15日であることが分かった。

 それ以来、草花舎の四季について、450回近く書いてきたことも確認した。
 その中身に、どれほどの価値があるのだろう?

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9月の庭 (オレンジ色のジンジャー)

2008-09-29 | 草花舎の四季

 昨年は、ジンジャーの花によく出会った。
 茎といい、花といい、少々たけだけしい。
 そう好きでもないが、賑わいを楽しめる花だ。

 今年は、散歩を怠っているので、草花舎の庭で、今日初めてその花を見た。
 オレンジ色のジンジャー。(写真)
 すでに花の盛りは過ぎていた。
 白いジンジャーは、Y さんの話によると、花数も少なかった様子だが、残んの花も哀れな姿となっていた。

 いずれの花でも、一番の見ごろにうまく出会うのは、案外難しい。
 <花の命は短くて…>ということらしい。

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9月の庭 (デュラン)

2008-09-29 | 草花舎の四季
 再び、その名を聞いてしまった。
 「デュラン。ほら、スーザン宅の庭にあったでしょ」
 そう言えば、11日の夜、アンジェリックとのお別れ会に行って、その庭で教えてもらった花だった。
 メモ帳を開いてみると、その宵に記したメモがちゃんと残っていた。一度聞いただけでは、覚えられない頭の悪さ!

 Y さんが、スーザンさんにプレゼントされた鉢なのだが、スーザンさんがアメリカに出かけられている間、Y さんが預かって、鉢を管理しておられるのだった。
 白く縁取られた花弁は、小さく愛らしい。鮮やかな藍色の花。(写真)

 草花舎にいる間に、T ちゃん(上京中)から電話があり、スーザンさんと共に、四時ごろ広島空港に到着とのことであった。
 デュランの鉢も、近くスーザン邸に返されるのだろう。
 そして、来週の月曜日には、草花舎で、スーザンさんやT ちゃんにお会いできるだろう。その間の日々の速かったこと! 何をして過ごしたのやら? といった思いである。
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9月の庭 (ミズヒキソウ)

2008-09-29 | 草花舎の四季
 草花舎の庭には、ミズヒキソウの花が多い。
 丈高く伸びた細い茎々に、立ち上るように咲く、赤いかそけき花が美しい。(写真)

 秋のしずもりを密やかに潜めながら、数の多さで季節の歌を詠っている……。
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9月の庭 (オーシャンブルーの落花)

2008-09-29 | 草花舎の四季
 白い曼殊沙華を見て、ふり向いた地面に、落花したオーシャンブルーの姿が、目に留まった。あまり時間を経ていないのか、花弁を閉じた花色がまだ美しい。枝に咲いているときよりも、紅色を増して…。(写真)

 並べ直したかのように、三つの花の、お行儀のいい姿をほほえましく眺めた。
 奥の方には、落花後、すでに水分を完全に失ったものもあった。

 花の移ろうさまに、ふと人生の末路を重ねてしまうのは、やはり年齢のせいだろうか?
 それとも、秋風のせい?
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9月の庭 (白い曼殊沙華)

2008-09-29 | 草花舎の四季
 特別な用事がないときの習いで、月曜日の今日は、草花舎に出かけた。
 今月最後の訪れである。
 前回、前々回は、友達や妹たちと一緒に出かけたせいか、今日は実に久しぶりのような気がした。

 庭歩きも、久しぶりであった。
 まず目についたのが、白い曼殊沙華。
 わが家の裏庭に咲いた、ただ1本の白い曼殊沙華は、とっくに生気を失っているのに、草花舎の曼殊沙華は、今が盛りであった。
 道野辺の赤い曼殊沙華の大方も、今は見る影もない。それでもたまに、ひとむら赤く燃えている花もある。
 個の違い、場所の違いなのだろうか?

 Y さんから、
 「久しぶりのような気がします」
 と、言われた。
 私と同じ感覚らしい。
 おそらく、この間、季節の移ろいが激しかったせいもあるだろう。
 この1週間には、真夏と初秋と、さらには深い秋の感じられる日もあった。いろいろな季節が混在した。
 その複雑で異常な変化が、実時間よりも長い日々が過ぎたように感じさせる、一つの原因だったかもしれない。
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昨日今日 (土手に書かれた文字)

2008-09-28 | 身辺雑記
 昨日今日、一足飛びに秋が深まった。思い出してみると、一昨日もかなり涼しかった。

 ※ 昨日は、友人の来訪を受け、暮れなずむころ、駐車場に送った。戸外はすっかり涼しくなって、夕風が寂しかった。
 友人の車が視界から消えた後、佇んで虫の声に耳を傾けた。
 これが、<カンタン>の声ではあるまいかと。
 低音で、「リューリューリュー」と鳴く虫がいた。
 しかし、その声が<カンタン>なのかどうか、定かではない。

 秋の虫にも、棲み分けがあるのだろうか。
 <カンタン>という虫について知った夜、早速、家の裏に出て、草むらにすだく虫の大合唱に、じっと耳を傾けてみた。
 その時の主流は、<チンチロリン>であった。何百匹もいそうなほど、高音を鳴り響かせていた。松虫の声は高いので、他の虫の声は、目立ち過ぎ屋の陰に隠れ、幾種類か鳴いている様子なのに、聞き分けるのが難しかった。
 ところが、昨夕、駐車場辺りには、松虫は鳴いていなかった。
 家を中心に考えれば、裏と表ほどの近さなのに。
 そこで鳴く虫は、低音が主流であった。その声は地味で、もの哀しげであった。
 友人を見送ったあとの、私の寂しさが、その声をより悲哀なものとして受け止めさせたのかもしれないけれど……。

 結局、これが、<カンタン>の声だという確信はもてないままである。


 ※ 今朝、ポストまで散歩した。往復はがきの返信を投函するために。
 「昭和会」と名づけられた小学校の同窓会に欠席する旨を書いて。
 戦時下、5年と6年を一緒に学んだ人たちとの集いである。
 毎年行われる会に、ここ数年は都合をつけて出席していたが、今年は気が進まない。こんな時には参加しない方がいいだろうと、欠席に○をして投函したのだ。
 葉書を投函することで、気持ちがすっきりした。もう迷うことがなくなったので。

 国道のはるか上にある市道の、その斜面を覆っていた草がさっぱりと刈り取られ、夏草に隠れていた<カマテ>という文字(躑躅)が、浮き立って見えていた。(写真)
 花のころは、あまり目立たないのだが……。
 その上に見える校舎が、現在の小学校である。
 私の学んだ学校は、もうとっくに解体され、なくなってしまった。
 想い出は、心の中に刻まれたものしか残っていない。

 今朝も、肌寒いくらいであった。
 9月も暑い日が多かった。
 が、あの真夏の暑さが、もう戻ることはあるまい。 
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「なかなかたそがれてるじゃん」 (ミズヒキソウ)

2008-09-26 | 身辺雑記
 昨日、瀬戸内寂聴と俵万智の対談を読んでいて、思わずぷっと噴き出してしまった。
 瀬戸内寂聴著『女人源氏物語(一)』の巻末に載っている<寂庵対談>のお相手が、俵万智だったのである。
 「嫉妬は恋のエネルギー」と題されて。
 対談が進行し、源氏の女人たちの嫉妬についての話から、現代の若者の恋に関する話に及んだ。

 そこで出てきた万智さんの言葉、
 <私の歌集(注 『サラダ記念日』)を生徒が読みまして、いちばん印象に残ってる感想というのが、「先生、なかなかたそがれてるじゃん」っていうんです。……略……>
 というくだりを読んだとき、高校生は《うまいこと言うなあ》と、その比喩的表現に感嘆すると同時に噴き出していたのだ。

 『女人源氏物語(一)』の発行が、1998年11月、『サラダ記念日』は1987年の発行で、いずれも20年も前の出版物である。
 25歳という若き歌人・俵万智の歌集を読んで、その相聞歌の心の在り様が、さらに若い高校生の目には、、<たそがれてる>と映ったのだ。そこが、なんともおかしかったのだ。

 さらに20年後の今の若者には、どう映るのだろう? など考えながら、書棚から『サラダ記念日』を取り出してきて、ページを繰った。
 随分もてはやされて時流に乗った歌人、という印象が強く、その歌に衒いのない若さを感じつつも、この歌風が20年後にはどう変わっているのだろう? と思ったことなど思い出した。
 私自身は、歌の評価にためらいを覚えながらも、気になる存在ではあったらしく、書棚を見ると、『サラダ記念日』のあと、『とれたての短歌です。』(俵万智+浅井慎平著)、『もうひとつの恋』(俵万智+浅井慎平著)、『俵万智のハイテク日記』を求めて読んでいる。いずれも万智さんの若き日の著作である。(注 浅井慎平は写真家)

 最近の著作に、どんなものがあるかは知らない。朝日新聞に、彼女の実子と絵本についての話が連載されており、目を通してはいるけれど……。
 読売では、歌壇の選者のひとりらしい。が、俵万智本人の、最近の短歌については全く知らない。歌に進化があるのかどうか?

 昨日は、対談の中で、『サラダ記念日』時代の若い俵万智さんに会った。寂聴さん主導の対談であったが、なかなか面白かった。

 巻末記事を読む前に、『女人源氏物語(一)』の、寂聴調の語りに引き込まれながら、再読を楽しんだ。引き続き、(二)以下の再読が楽しみである。
 『女人源氏物語』は、紫式部の『源氏物語』に基づいてはいるが、寂聴源氏の趣が濃い。
 カバー絵が、加山又造画であることにも、このたび気づいた。というより絵として改めてカバーを眺めたといった方がいいかもしれない。


 今日は、M 歯科医院に行き、歯の定期検診を受けてきた。
 本屋で、月刊の雑誌を受け取ったり、買い物もしたりしてきた。やや持ち重りのする荷物を持って歩いても、暑さを感じない日であった。
 急に、さわやかさの訪れである。
 今日は珍しく、旧知に三人も会った。偶然、同刻、同場所で行き合う不思議!

 (写真 庭のミズヒキソウ。野草だが見飽きない。)
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9月25日 体の手当 (白萩)

2008-09-25 | 身辺雑記

 今日、昼前に、「ひまわりカイロ」に出向き、身体の手入れをしていただいた。
 三度目である。
 前回、前々回に比べ、先生の手による診断結果は、あまりよろしからぬ状況のようだった。おかしいな、と首を傾げられる。
 私は腹ばいになって、顔を伏せた状態なので、先生の表情は見えない。が、ふっとその原因ではないかと考えられることを思い出した。
 「転倒予防に片足立ち訓練」という記事の載った新聞の切抜きを友人にもらい、これなら実践できそうだと、早速始めたのだった。
 20日に教えてもらったので、5日間、朝、昼、晩と続けたことになる。
 それかもしれない、と先生も言われた。

 今考えて見るのに、その運動がいけないのではなく、やり方に問題があったように思う。1分くらいなら、物につかまらなくても立てる、そんな自信過剰から、ふらついても支えに頼らず立ち続けた。それが体のバランスを崩したのだろう。
 新聞の記事には、つかまり立ちがいけないとは書いてないのに……。
 
 きっと、いかに自力で長く立つかということではなく、物につかまってでも片足で立つ、そのことに意味があるという記事だったに違いない。私の勝手な判断がいけなかったのだろう。ちょっとやり方を誤れば、危険なことにもなりかねないのだ。かえって健康を害することにもなる。
 かつて、ダンベル体操で、左肘を傷め、しばらく通院した、あの失敗と同じように。

 先生は、とにかく歩くことを勧められる。気楽に戸外を歩くのがいいと。
 もう一つ、テーブルに両手を添え、まっすぐの姿勢で行う屈伸運動を教えてくださった。実践力、持続力に欠ける私だが、私自身の健康のために、少しは努力しようと考えている。
 ブログのカテゴリーの一つ<散歩道>の記事も、このところ皆無。散歩を怠り続けているので……。涼しくなったら、秋の野を気の向くままに歩くことにしよう。

 体をほぐしていただきながら、今日は文学の話をした。
 先生は、今でも文学がお好きなようである。
 話題となった作家・評論家だけでもかなりある。
 小林秀雄、亀井勝一郎、井上靖、遠藤周作、川端康成、志賀直哉、野上弥生子、太宰治、芥川龍之介などなど。(話題の順序とは不同。)
 しっかり手当を施しながら、先生は患者に合った話題で、それぞれの心もほぐしてくださるのだ。
 1時間余の手当で、相当こたえる箇所もあったが、終わった後には、心身に淀む澱が取り除かれた感じとなった。ありがたいことである。


 (写真 「ひまわりカイロ」へ行く途中で目にした白萩。こんなに大きな萩の木もあるのかと、驚きながら樹形を眺めた。)

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秋の虫を探して (フジバカマの花)

2008-09-24 | 身辺雑記

 漢方薬を購入している Y 薬局から、毎月<主治医>(あなたの健康誌)という冊子が届く。今日届いた郵便物の中に<No・573 平成20年 10月号>が、入っていた。
 この冊子は、健康のためにも、また読み物としても、目を通したくなる記事が多い。 例えば、今回の特集では、<変形性ひざ関節症>が取り上げられ、その症状、ひざを守る暮らし方、体操・運動によるひざ痛改善策なども記されている。
 太田治子のエッセイの他、連載記事もあって面白い。

 今日、最も関心を抱いたのは、<散歩の博物誌34 邯鄲の夢をみるころ>(文と写真 サイエンスライター 清水潔)であった。秋の虫の話である。

 <鳴く虫の王様といわれているのが、カンタンである。姿はなかなか見つけることができないが、ヨモギの群生している所に生息している。体長二センチほどの淡い黄色をしたコオロギの仲間だ。コオロギが地上で鳴くのに対し、カンタンはクズやヨモギなどの葉の上ではかなく鳴く。>

 と、カンタンについて書き、コオロギとカンタンの写真が載せてある。両者を比較すれば、カンタンがいかに繊細な虫であるかが、一目でわかるようになっている。
 その名は、「邯鄲の夢」という、例の有名な故事から生まれたという。はかなさの共通性からであろう。
 <「ルルルル……」あるいは「リュリュリュ……」など人によって聞こえ方が異なる。>とも記されている。
 歳時記の「邯鄲」の項には、「ル、ル、ルと単調な音色で切れ目なく集団で鳴く。」とあり、広辞苑には、「<りゅうりゅう>と美音で鳴く。」と、その声について記している。
 擬音化した表記は、少しずつ異なっている。ラ行音+ユ音、という響きから、その声を聞き取るしかなさそうである。

 私は、カンタンの声を意識して聞いたことがないし、その姿を見たこともない。
 夜になると、私の家の周囲では、虫の大合唱が始まる。その中に、カンタンの声も混じっているのだろうか。
 
 せめて虫の姿を探してみようと、昼さがりの庭に下りてみた。が、一匹の虫もみつけることができなかった。威勢のいいのは、やぶ蚊ばかり……。
 虫を探しているうちに、秋の七草の一つ、フジバカマが咲いているのに気づいた。(写真)
 この花の咲くころには、思い草(ナンバンギセル)も咲いていたような気がし、萱の茂るあたりを探してみたが見つからない。これからの花なのかもしれない?
 耳を澄ましてみても、虫の声は聞こえない。コオロギやスズムシ、マツムシなど聞きなれた虫の声もない。昼間の雑音に紛れているのだろうか。

 今晩は庭に出て、虫の声に耳を傾けてみようと思っている。
 カンタンの声が聞けるかどうか?

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