ぶらぶら人生

心の呟き

今日もお花見

2018-03-31 | 散歩道
3月31日

体調不良のなかでのお花見。
曙橋から下流の川沿いに歩きながら。















曙橋のスミレ(コンクリートの隙間に)


ヨシヤにて(コーヒーとさくらシフォンケーキ)


イオンに向かって引き返しながら。

ユキヤナギ


レンギョウ












3月去る

2018-03-31 | 身辺雑記
3月31日


3月は、お彼岸の後、好天の日が多かった。
ぐんと気温も上がって。
今日も一日中、お花見日和。

午後、河畔の桜並木を歩き、<うつわ>まで散歩するつもりで出かけたが、バスの中で気分が悪くなった。
車中が暑く、空気が澱んだ感じがして。

イオン前で下車。
店内を歩いていても気分がすぐれず、早々に外に出る。
<うつわ>行きは諦め、曙橋の上で深呼吸を繰り返した。
ひと時の不快は薄らいだので、下流の桜を眺めつつ歩き、<ヨシヤ>でひと休み。

部屋に戻って血圧を測ってみた。
やや低めながら、異常な数値ではなかった。
周辺のわずかな変化(車中の気温など)に、体が順応できないのも、老いによるものかもしれない。

次第に気分が落ち着き、詩集『清岡卓行』(現代の詩人6)を読む。
清岡卓行の作品といえば、芥川賞受賞作『アカシヤの大連』(1970年)を読んだだけで、詩集は持っていても、詩を読んだことはなかった。
(また後日、詩についての感想は書くことにしたい。)

大阪の妹から、体調の様子を知らせるメールが届いた。
退院後も左手指の恢復は思わしくないようだ。
帯状疱疹は、本当に厄介な病気だ。
私も79歳のときに患った。
それを境に、急に老いが深まった感じがしている。
生活に支障はないものの、しばしば左坐骨のあたりに不快を覚えるし、左足の神経がしばしば異常を訴える。

熊本の姪からは、LINEメールが届いた。
姪は一家で妹宅に帰っていて、妹夫婦や甥一家と住吉神社の花見に行ってきたと、写真も添えてあった。
考えてみると、今は春休みだ。
昔は楽しみだった<春休み>も<夏休み>も、私の生活からは消えてしまっている。

自身の老い、妹や身近な人の病など、気になることはたくさんあるけれど、なんとか無事に3月を生き抜くことができた。(早くも、2018年の4分の1が過ぎた。)

朝に夕に美しいお日さま、お月さまを眺めて。

朝日




夕陽


7時前の月(13夜)


朝日と夕日(3月30日)

2018-03-30 | 身辺雑記
3月30日

よき日の象徴のように、朝日が美しく昇る。





またよい明日の到来を約束するように、
夕陽は美しく沈む。





さらに夕月。





満月かと思えるほど満ちたお月さま。
暦を調べると、
満月は、4月2日。

居ながらにして、お月さまが眺められる間は、
カーテンを閉めることもできず。

お月さまと二人でいる。

医光寺の枝垂れ桜

2018-03-30 | 散歩道
3月30日

バスで医光寺へ出かける。
<枝垂れ桜が満開>と報じられて一週間が過ぎた。
盛りをすぎているだろうと思いつつ出かけたのだが、
花はまだ十分楽しめた。

古木なので、花をつけないまま枝垂れている枝が寂しい。
が、それも古木ならではの風情かと眺める。

桜の季節、医光寺にはよく訪れている。
今度は秋の紅葉を見に来ようと思ったのは、
昨年であったか、その前の年であったか?

今年こそ、紅葉のころには、もう一度医光寺に出かけて、
雪舟庭園の秋を味わいたい。
そこには、華やぎの春とは異なる趣があるだろう。

雪舟庭園の枝垂れ桜。











医光寺総門


医光寺

医光寺から川沿いの道を歩く。
途中の春景色を眺めながら。
山々の肌が、点々と白くなっている。
山の桜だ。


萬福寺の鐘楼と桜

益田川沿いの桜(3葉)







クリスマスローズ(美容室の前庭に)
<うつわ>で見た花に似ている。
草色の花。
花を眺めながら、故人となられた美容師を偲ぶ。
優しく美しい人だった。



益田川の眺め。







大橋まで歩いて、タクシーを呼ぶ。
ドコモショップへ寄ってもらい、
スマホのカバーが故障したので買い換える。
タクシーで帰る。

今日、初燕が数羽飛んでいるのをバス停で見た。
ずいぶん忙しそうであった。
巣作りに奔走中なのであろう。

カタクリ(堅香子)の花

2018-03-29 | 身辺雑記
3月29日

夕方の地方ニュースで、
山峡のカタクリ(堅香子・かたかご)の花が
映し出され、懐かしく思った。

幾年前のことだろうか。
一度だけ、山峡のカタクリの花を見た。
そのときは、可憐な小さな花だと思った。
テレビ画面で、一つの花を大写しされると、
結構華やいでいる。

花を見たあと、岩国に出て、錦帯橋の桜を眺めた。
過去のブログに載せているはずである。
が、何年前(10余年前?)のことか、思い出せない。

(時間的に余裕のあるとき、
PCに保存しているアルバムから
探すのが、早道かもしれない。)

その記憶に基づけば、桜と堅香子の花は、
ほぼ同時期に、満開となるらしい。

<下の写真は、テレビの画像より>







下記の引用歌3首は、友だちの手紙より。

宮柊二(1912〜1986)の歌
日中を風通りつつ時折りに紫そよぐ堅香子の花
眼鏡にて近づきゆけば恋の花の感傷もちて堅香子の花


吉川宏志(1969〜)の歌
手くらがりほどの夕べが来ておりぬカタクリの咲く林の根方

吉川宏志さんの感覚の冴えが見事である。歌風に若さを感じる。

今日の出会い(植物)

2018-03-29 | 散歩道
3月29日

散歩道で出会った花々。


木瓜の花


スノーフレーク


(赤い葉と花芽)


馬酔木の花


紫木蓮


(塀に隔てられて、桜)


ソラマメの花
(幼い日への郷愁)


大塚の桜

2018-03-29 | 散歩道
3月29日

大塚の桜も、昨年より早いのだろう。
昨年、幾度か辿った道を歩く。

ソメイヨシノとオオシマザクラ。
ほぼ満開となっている。











この道を行くと、アスファルトは途切れ、
土道となる。(下の写真)



道の奥に一台の車が止まっている。
この時勢、老女といえども気味悪く、
並木の桜を眺めることができず、
日を改めて散歩することにした。

辛夷の花ほか

2018-03-29 | 散歩道
3月29日

午後、周辺を散歩する。
海辺には出ず、大サボテンのあるところを目指す。

(往復、3600歩の散歩。
思いのほか気温が高く、途中気だるさを覚える。)



サボテンの近くの木が、
辛夷か木蓮か、区別できなかったのだが、
今日、訪れて辛夷と分かった。

今年の見納めの花となるだろう。

先日届いた友達の手紙に、
仲間の短歌会で使われた歌の資料が添えられていた。
(友達は歌人である。)
その中に、辛夷を詠った有名歌人の歌が3首あった。

斎藤茂吉(1882〜1953)の歌
見はるかす山腹なだりに咲きてゐる辛夷の花はほのかなるかも

(山口線の山々に咲く辛夷の景を思い浮かべる。)

佐藤佐太郎(1909〜1987)の歌
はるかなるものの悲しさかがよひて辛夷の花の一木(ひとき)が見ゆる

(<はるかなるものの悲しみかがよひて>の表現がいい。)

上田三四二(1923〜1983)の歌
水にある影もろともに暮れてゆくこぶしの花は星が照らさん

(水に映る辛夷がいい。そんな景に出会ったことはない。
上田三四二の小説が好きで、ひところよく読んだ。
平成の初めころ。その本を勧めてくれた人は、今は故人。)

斎藤茂吉・佐藤佐太郎・上田三四二、3人とも好きな歌人である。
しかし、この歌に接するのは初めてであった。
(辛夷といえば、三好達治の詩を馬鹿の一つ覚えのように諳んじていた。)

サボテン、その他の植物。









今日(3月29日)

2018-03-29 | 身辺雑記
一日の始まり

6時20分起床。
カーテンを開け、
今日の始まりの景に会う。


(日の出の位置は、権現山を遠く離れて)

午後、散歩の行き帰りに、
施設の周辺を巡る。





(上二枚、施設脇のオオシマザクラ)



(施設の後ろ側に咲くソメイヨシノ)



(後ろ側の連翹)

今日初めて、施設の周囲をひと巡りした。

エッセイの面白さ

2018-03-29 | 身辺雑記



藤原正彦著『常識は凡人のもの』[管見妄語]
(平成三十年一月二十日・新潮社刊)


藤原正彦さんの本を読むのは、二冊目である。
10年近く前のことだろうか、話題となって読んだ『国家の品格』以来。

今回の本は、本屋で見て、この作者のものなら楽しみながら読めるだろう、と思いつつ求めたものである。
週刊新潮(2016年10月〜2017年10月)に連載されたエッセイ集である。
私は、週刊誌を読む習慣がなく、全く知らなかったが、藤原正彦さんは、長期にわたり『管見妄語』と題してたコラムを書いておられるようだ。
たまたま、その一冊を手に取ることになったということらしい。

題名には、『常識は凡人のもの』とあるが、これは一つのエッセイの題名であって、一冊を貫くものではない。
このエッセイ集には、自由闊達に、身辺の出来事が描かれている。
小説とは違って、エッセイには、その人の、ものの考え方や生き方、人柄がそのまま出やすいようだ。
藤原正彦さんは、数学者だからといって、世の現象をことごとく理詰めで考えてゆく人ではないらしい。
非常に自由な発想で、偉ぶることなく書かれているので、親しみやすい。

<篠笛の唇>という題名のエッセイを読めば、アイパッドで、篠笛の曲を聴いたり、「青葉の笛」のことが出れば、昔習った文部省唱歌を思い出して歌ってみたり……。

即座に、生活に役立つ話もあったりする。
寒夜、ベッドに入っても体温が全身一定になりにくく、即座に寝つけないことがある。
特に胸部。(60代ころには、お腹が冷え、真夏でも、タオルケットを二枚折にしてかけねば眠れないことが長く続いた。)
ここ数年は、胸である。
真綿を取り寄せ、夜は胸に真綿を広げてのせているが、なかなか温度調整がうまくゆかない。
数時間前から寝室に暖房を入れ、アンカーも入れおくのだが、体の一部が温もらないのだ。
これも、老いのせいなのであろう。

<冬の攻防>というエッセイに、戦時中の話として、「セーターを首の前面から胸の上部に乗せて覆い、セーターの袖で首の左右から肩にかけて覆うのである。これが実に暖かい。」と書かれていた。

早速、実践してみたところ、真綿より広い範囲が温まるためか、冷えを早く解消できた。
(今のところ、首回りが冷えて寝付けないということはないので、袖の部分を活用することはしなかった。)

これは、たまたま実用的な話だが、大方は精神に作用する、深くて面白い話である。

雑誌には、名エッセイがよく載っている。
数年前、『暮らしの手帖』に連載されたエッセイをまとめた本を読んだ。
ブログにも書いたはずなのに、書名も作者も思い出せない。
その本を置いている本棚は思い出せるので、帰宅したら、書棚をのぞいてみよう。

私にとって、読書とは、コーヒーを味わう楽しみに似ている。
特に老いてからの読書は、読んでは忘れてしまうけれど、読んでいるそのときが楽しいのだ。
どんなに美味しいコーヒーを味わっても、いつまでもその味をおぼえていることはない。
それに似ている。
ただ活字に接しているのが、無性に楽しいだけである。

文章を書く方は読書ほど楽しくはなく、一週間前に読了したこの本の感想を記すのが、今日になってしまった。
(読んでも感想を書く努力を怠り、記録に残せないものが多い。)