今日は、母の祥月命日である。
平成4年の永訣の時から20年が経った。
今日も、20年前の日と同じように、夏陽の燃える一日であった。
妹夫婦がお供えを持って来宅。
一緒にコーヒーを飲みながら、ひとときを過ごした。
母の亡くなった歳まで生きられるなら、なお10年がある。
過ぎた10年は瞬く間であったが、余生の10年を考えると、少々複雑な気分である。
老いの日々は、安穏に楽しめる日ばかりではあるまい、と思えるゆえに…。
母にしても、父にしても長命であった。
長生きはおめでたいことではあるけれど、必ずしも、<長命> = <幸せ>とはいい難いのでは?
私自身が老境を生きる身になってみると、老いてからの歳月は、結構、難儀を伴うことのような気がする。
かといって、死期だけは、早めることも遅らせることもできはしない。
生存の可能な限り、日々を息災に、愉しく生きるように努めるしか仕方ない。
妹たちを送って、外に出たついでに、近所の百日紅の花を見に行った。
先日来、家の窓から眺めていた花の下に立ってみた。
咲き満ちて、ピンクが盛り上がっている。
花に出会える、これも、ささやかな喜び。
そうだ、夾竹桃の花も見てこようと、かつてスーザンさんが借りておられた家にも行ってみた。
空高く繁っていた木が剪定されたらしく、背丈が短くなっていた。
梢の先に、花の影をわずかに認めた。
スーザンさんが軽井沢に転居された後、空き家になっているとばかり思っていた家の庭に、バイクが一台置いてあった。
若者の気配を感じた。
家主の子息が住んでおられるのかもしれない。
田舎に生活していても、都会なみに、数軒先の情報が不確かである。、
平成4年の永訣の時から20年が経った。
今日も、20年前の日と同じように、夏陽の燃える一日であった。
妹夫婦がお供えを持って来宅。
一緒にコーヒーを飲みながら、ひとときを過ごした。
母の亡くなった歳まで生きられるなら、なお10年がある。
過ぎた10年は瞬く間であったが、余生の10年を考えると、少々複雑な気分である。
老いの日々は、安穏に楽しめる日ばかりではあるまい、と思えるゆえに…。
母にしても、父にしても長命であった。
長生きはおめでたいことではあるけれど、必ずしも、<長命> = <幸せ>とはいい難いのでは?
私自身が老境を生きる身になってみると、老いてからの歳月は、結構、難儀を伴うことのような気がする。
かといって、死期だけは、早めることも遅らせることもできはしない。
生存の可能な限り、日々を息災に、愉しく生きるように努めるしか仕方ない。
妹たちを送って、外に出たついでに、近所の百日紅の花を見に行った。
先日来、家の窓から眺めていた花の下に立ってみた。
咲き満ちて、ピンクが盛り上がっている。
花に出会える、これも、ささやかな喜び。
そうだ、夾竹桃の花も見てこようと、かつてスーザンさんが借りておられた家にも行ってみた。
空高く繁っていた木が剪定されたらしく、背丈が短くなっていた。
梢の先に、花の影をわずかに認めた。
スーザンさんが軽井沢に転居された後、空き家になっているとばかり思っていた家の庭に、バイクが一台置いてあった。
若者の気配を感じた。
家主の子息が住んでおられるのかもしれない。
田舎に生活していても、都会なみに、数軒先の情報が不確かである。、