ぶらぶら人生

心の呟き

一木から二種類の… (椿 2)

2008-03-31 | 身辺雑記
 三月最後の今日は、実に奇妙なお天気だった。
 早朝の五時半、すでに配達されている牛乳を取り込もうと外に出たとき、二十日余りの下弦の月が、明るい星(明けの明星だろうか?)を伴って、夜明け間近な空に輝いていた。詩的風景を眺め、幸せな気分だった。
 お天気がよさそうなので、朝の散歩を怠るまいとも思った。

 ところが、新聞を読み、散歩の支度の前に外をのぞくと、静かな雨になっていた。ためらいもなく、散歩は諦めた。
 昼過ぎ、窓が明るみ、青空が広がり始めたので、葉書を出しにポストまで行った。するとまた、道中、雨に遭ってしまった。びしょぬれになるようなひどい降りではなかったので、そのままポストに向かって歩いた。気まぐれな雨はやがて上がった。
 そこで、散歩代わりに、少し遠回りをして帰ってきた。

 その途中に、変わった椿の木を見つけた。
 一本の木なのに、花色の異なる二種類の椿の花が咲いているのであった。
 形よく、剪定がしてあって、大事に育てられている木であった。苅込にも念が入っていた。二本が絡まりあっているのかと、木の根元をしげしげと眺めた。が、どう見ても一本の木であった。
 椿の花そのものも、風変わりだ。花の中央にあるはずの蕊が見えない。その代わりに花びらを固く鎖したかのような、蕾状のものが芯にある。そのものは、やがて花びらとなるのかどうか?
 
 いつも通る路傍の椿は、以前からあったのかもしれない。しかし、昨年の春には気づかなかった。
 一旦家に帰り、デジカメを持って、再び出かけた。
 下の方には、添付の写真に見られるように、ピンクの花(多少、斑が入っている)、上部には前回のブログに、カッととして使用した赤い花の椿が咲いていた。
 不思議な椿である。
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新装なった朝日新聞 (椿 1)

2008-03-31 | 身辺雑記
 今日は3月31日だが月曜日で、4月にまたがる週の始めのためだろう、朝日新聞やNHKテレビの企画が今日から変わった。
 テレビの方は、一日中見ているわけではないので、朝のニュース担当者の顔が新しくなった、という程度のことしか分らない。

 新聞は、全紙面に目を通すので、レイアウトの違いなど気づきやすい。
 まず字が大きくなった。それは以前から宣伝されていたし、すでに、一部の記事では、今日から採用の活字で、編集されているものもあった。
 老いと共に、視力は衰えるので、活字が大きくなったのはありがたいことだ。
 紙面のレイアウトも少しずつ変わっている。その中で、もっとも戸惑いがあったのは、<天声人語>であった。昨日の欄に、横長の記事は、昨日で終わることは記してあったので、およその見当はついていたのだが、イメージの変更に、<うーん>と思いながら、多少の拒否反応を覚えた。

 私が<天声人語>を欠かさず読み始めたのが、いつのことかは思い出せないが、随分長いつき合いである。今までは、一行の字数が少なく、横に長く組まれていた。その形にあまりに慣れすぎ、黙読に際して、目を走らせるときのリズムまで定まっていたようだ。それだけに、今朝は多少の違和感を覚えた。が、これは記事の内容とは全くの別問題である。そのうち新たな形式に慣れるだろう。
 ただ、長い歳月の間に身についた習慣というのは、不思議なものだとつくづく思った。

 その他、記事のページが移動したものについては、それほどの違和感はなかった。日用品を買いなれているお店で、ある日突然、売り場が変わっていて、瞬時ためらう程度のことであった。

 永らく、新聞記事について書かずに過ごした。
 その間、世界の情勢、日本の政治、社会的に大問題と思えるような出来事など、枚挙にいとまがないほどであった。が、一旦掲載を怠ると、是が非でも書いておきたい意欲までも、そがれてしまった。

 今日の新聞では、<ポリティカにっぽん>早野透(朝日新聞コラムニスト)の《カントと小田実―「永遠平和」うけつぐ9条―》を頼もしく読んだ。
 カントに『永遠平和のために』という本があるというのも初めて知った。しかも、池内紀氏の訳は読みやすいようだ。時計のように、正確な日常を過ごしたという逸話のある、偏屈に思える哲学者カントなど、歯の立たないものと諦めていたのだが……。
 先年逝去の小田実氏の思想と、相通じるものがあることを筆者は指摘している。

 記事の最後の部分を引用しておくことにする。
 <カント先生がすごいのは、今日の国連の誕生を見越していたことである。「世界政府」はむりとしても、「世界市民」は空想の産物ではないと言っている。地球温暖化もチベット問題も、国家の利害ではなく、市民の問題ととらえるべきなのだ。
 と書いてきたものの、日本政治は日々忙しく、それどころじゃないと思いがちだが、カント先生はそこもクギを刺している。
 「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」>
 と。
 私は、早野透コラムニストの文章からは、いつも啓発されることが多い。

 (写真 今日、道野辺で見た椿。花芯が見えず、その代わりに、中央に花びらが蕾のように固くかたまっていた。>
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降り止まぬ雨を眺めながら  (写真 3月28日の桜)

2008-03-30 | 身辺雑記

 音もなく、昨夜来の雨が降り続いている。関東以西は雨になっているらしい。甲子園も、雨の中で、試合が続行されているようだ。(第4試合は中止)
 テレビの前にいると、試合の経過が気になり、ついつい見てしまう。高校生の溌剌とした、若い力の漲るプレーは見ていて楽しいが、あまり点差がついてしまうと、負けているチームが気の毒で、見ていられなくなる。
 雑用をしながら、さっきまで、ベスト8をかけての、奈良の天理高校と山口の華陵高校の試合を見ていたが、天理の優勢を見定めたところで、テレビの前を離れた。

 今、パソコンの前に坐って、この雨で、芽吹きが進むのだろうな、と相変わらず降り続く雨の、やさしく地面をぬらす様を眺めている。
 雨の今日は気温も上がらない。エアコンで暖を取り、冬とあまり変わらぬ服装で過ごしている。
 先刻、クリーニング屋さんが来て、「寒いですね」と、冬さながらの挨拶をされた。
 花冷えという言葉もあるくらいだから、毎年、桜の季節に、思いがけぬ寒さがあっても不思議ではない。
 東京を中心とした関東地方の桜は満開のようだが、石見では、まだほころび始めたばかりである。
 (写真 28日の朝、散歩の途中で見た桜。一輪だけ開花していた。)

 昨日は、用事があって街に出、友人と会って語らいのときを過ごした。比較的早く出かけたので、五日続けた散歩を中止することになった。が、外出日は、ひとりでに身体を動かすことになるから、散歩を怠っても、運動不足にはならない。
 今日は、朝から雨が降っていて、散歩を潔く諦めた。ただ、急ぎの葉書を出すために、近くのポストまで、傘をさして往復した。
 その道すがら、中学校の校庭にある桜の小枝を見上げると、開花寸前の様子であった。深紅色の蕾の先に、白い花びらがのぞき始めている。
 クリーニング屋さんは、
 「この寒さで、また桜の開花が遅れますよ」
 と、言い残して帰られたが、四月に入れば、きっと急速に咲き始めるのだろう。

 三月も<去る>のだなと思うと、なぜともなく心急く思いがする。
 3月30日。
 今日は、ブログを書き始めた記念日である。二年間続いたことになる。散歩の方は、恣意的にサボりがちだが、ブログの方は特別な日を除いては、まずまず継続してきたと言える。

 先刻、一昨年と昨年の今日、ブログに投稿した記事を読み直した。
 途中までは投稿の記事を印刷し、記録として留める試みをしてきたが、莫大な用紙を消費することになり、どれだけの意味があるのか疑問に思い始めて、今は中止している。
 今日、3月30日の、過去のブログを開けて読み、懐かしい思いがした。と同時に、日々、2回分の記録を読むのはたやすいことだ、と思った。
 最近、散歩の途次、春の植物を眺めながら、昨年、あるいは一昨年に覚えたはずの名前が思い出せないで、情けない思いをすることが多い。記録を読み返せば、ひとりでに復習にもなるだろう。

 今日は特別の日なので、その過去の記録を念入りに読んだ。
 一昨年は、「ケーテ・コルヴィッツ展」のことを書いており、熊本県立美術館で見た、ドイツ女流画家の作品を思い出して感動を新たにした。はっきりした主張のある作品群であった。
 常設館で、菱田春草の「黒き猫」、細川家のコレクション展、牛島憲之展を見たことも思い出した。ブログに書き留めていなかったら、そして、読み直さなかったら、記憶からどんどん薄れてしまうだろう。
 その時何を思ったか、それを思い出すことに、どんな意義があるのだろう? などと、しかつめらしく考えれば、それほど意味のあることとも思えない。それでも、過ぎ去った日を思い出すことで感慨を新たにできるのは、全く無意味なことともいえないのでは……?
 昨年の今頃は、市議選の最中だったこと、そのことで思いがけない人からの電話を受けたこと、枇杷の葉の威勢よく伸び始めたことなど、細かに記している。

 時に、自身の書いたブログを読んで、過去を覗き見しながら、三年目のブログに向かって、少しでもマシな記録を残してゆきたいと、今日の記念日に思っている。

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山里の温泉 2 (湯元館) 

2008-03-28 | 身辺雑記
 「ゆのや」で、食事の後、「湯元館」に入った。(写真)
 食事処に続き、館内の混雑に、またも驚く。
 更衣室に入ると、またまた女性の、大方は老女の集団!

 二団体が入っているのだという。
 (その一団は、私の住む地区の老人会の人たちで、顔見知りに声をかけられたのには、困惑した。食事処の「ゆのや」でも、団体とは別の知り人に、話しかけられたばかりだった。山里の温泉とはいっても、同じ市内にあるのだから、知り合いにあうなど、珍しくないことかもしれない。)

 脱衣場は、その一団の人たちが、ちょうど湯上がりしたばかりで込み合っていたようだ。浴室に入ってみると、人の数はそれほどでもなく、ほっとした。
 露天風呂の方が空いてるようだと、友達に誘われ、身体を流すと外に出た。
 六角形の、屋根つきの露天風呂である。
 お湯に浸っていると、外気の冷えは全く感じられなかった。
 透明なお湯はすべすべして心地よかった。体の芯から温まり、温泉の醍醐味を存分味わうことができた。
 美都温泉の泉質は、お世辞抜きで、実にいい。だからお客も多いのだろう。

 湯上がりの後は、無料休憩室で、一休みした。
 友達は、果物やお菓子を用意してくれていたので、それをいただきながら、部屋のテーブルで、語り合った。
 休憩室には、沢山のお客が談笑したり、横になったりして、思い思いに入浴後のひと時を過ごしていた。

 私は美都温泉と聞いて、山里の鄙びた温泉を思い描いていたので、少々違和感を覚えた。もっと静かな温泉情緒が味わえるだろうと勝手に思っていたのだ。が、あまりにも、人が多すぎた。
 (昨日が特別だったのかどうか? 
 客の多い方が、経営者には、いいに決まっているのだが……。)

 小さな川をはさんだ、川向こうには、昔ながらの旅館がある。そこにでも泊まって、早朝や夜の湯に浸れば、山里の興趣を楽しめるのかもしれない。
 あの川に、カジカは鳴くのだろうか?
 カジカの声でも聞きながら、湯に浸れば、別天地にいる思いがするだろう。

 友達が家まで送ってくれたので、また場所を変えての、二人だけの団欒となった。取留めのない雑談なのだが、話は尽きず……。
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山里の温泉 1 (「ゆのや」で食事)

2008-03-28 | 身辺雑記
 昨日は、友達の車で、山里の温泉に連れて行ってもらった。
 昼食を共にして、ゆっくり湯に浸ってこようと。
 美都に着くと、ちょうど12時であった。

 まずは食事ということで、温泉の傍にある「ゆのや」に入った。(写真)
 <鯖の味噌煮定食>をいただいた。さらに、食後のコーヒーを飲みながら、同級生同士の語らいを楽しんだ。
 私たちの入った後、お客は急に増えた。
 山里の食事処なのに、温泉に隣接しているせいだろう、思いの外込み合っていた。

 もう少し鄙びた風情を想像していたので、いささか驚きであった。
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三日目も、何とか頑張って

2008-03-26 | 散歩道

 寒々とした朝だった。
 早くも、散歩をサボりたい気持ちが動いたけれど、何とか自らを鼓舞して、八時を過ぎて家を出た。
 折りたたみの傘を手に持って。

 海辺に出てみると、人気のない浜に、焚き火が燃えていた。(写真)
 浜の住民が、波打際に打ち寄せたゴミを集めて、火をつけられたものであろう。人影は見えなかったけれど、放たれた火は、ゴミの分量に見合った炎を細々と上げていた。風のない朝なので、火も煙も揺らぐことなく、まっすぐに上っていた。
 炎の色の美しさと、微妙に変化するさまを佇んで眺め、散歩には、こうした予期せぬ出会いがあるから楽しいのだと思った。

 帰宅したら、九時。家に入る前に、伸び始めた庭の雑草を塵取り一杯分ほど抜く作業をした。毎日少しずつでも怠りなくやれば、家の庭が雑草園にはならないですむだろう、と。
 遅い朝食をとっていると、友達から電話がかかってきた。中学時代の同窓会に、一緒に出かけないかとの誘いであった。4月に行われるのだという。そうした集いはもう最後になるかもしれないから、とのことだった。
 しかし、私が会いたい友達は、みな鬼籍の人なのである。大勢の同窓生と会ってみても、一時のはかない懐かしさに過ぎないような気がする。しかも、一泊して語り合う予定らしい。
 友達に不参加の気持ちを伝えると、では明日、美都温泉に行ってみない? 都合はどう? と誘われた。考えてみると、この友達とは暫く会っていないし、このところ、家にいる日が続いている。出かけてみようという気になった。昼食を共にして、温泉に浸って憩いのひと時を持とう、ということになった。
 会う時間と場所を打ち合わせているときに、携帯電話の呼び出し音が鳴った。しんとした時間をひとり過ごしていることが多いのに、電話が重なるときには、時間帯まで同じになるとは……。
 友達は、携帯に出るように勧めるので、一旦中断し、かけなおすことにした。

 携帯の方は、近くに住む同級生の友達からだった。
 今朝、早く歩いたんでしょう? と言う。いつもより遅かったのに、なぜ? と不審に思っていると、R君(やはり同級生)から聞いた、と。そういえば、散歩からの帰り、バイクに乗ったRさんに出会ったのだった。(九時近くだから、決して早い時間だったわけではないけれど)
 電話の友達は、私が歩いていることを知って安心し、鶯の声を聞いたかと尋ねた。
 散歩を再開して三日、<道中、鶯の鳴き声は散歩の道ずれだ>と答えた。
 「そんなに鳴いている?」
 と、友達は不思議そうだった。近年、難聴気味な友達は、さらに聞こえが悪くなったのかもしれない。私のひとことが、友達に自信をなくさせたのではないかと、一瞬、気になった。
 が、友達はこだわる様子もなく、話題を換え、
 「ツバメが、来たよ」
 と、教えてくれた。家の周囲をしきりに飛んでいる、巣作りの場所を探しているのだろう、と。
 友達は鶯のことより、ツバメ飛来の、季節の便りを届けたかったに違いない。
 その話を聞きながら、春のあゆみは遅々としているようでも、本格的な春へと確実に移ろいつつあることを思った。

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クエとアブラボウズ (カッと写真は、わが家の杏)

2008-03-26 | 小さな記録簿
 「アラ」調べてみたら別の魚
 「クエ」と称し販売
       福岡の料理店  
(朝日新聞3月20日 社会面の記事見出し)

 記事の内容を読んでみると、高級魚のアラ(クエ)と称して販売していた魚が別種のアブラボウズだったとして、1月に販売を中止していた、というものだった。
 また偽装!? と、思いながら、怒りがそう強まらないのは、恐るべきことだが、あまりにも偽装に慣れ過ぎたせいだろうか。とにかく儲け主義が蔓延し、良心はマヒ状態のようだ。

 私の関心は、むしろ魚の名前の方だった。アブラボウズとは奇妙な名前のお魚がいるものだと。「クエ」にしても、私の聞きなれない名前であった。
 <キーワード>には次のような解説文が記してあった。
 クエは西日本以西の海底にすむハタ科の大型魚。九州では「アラ」と呼ばれ、大物は体長1㍍以上。高級食材として扱われ、刺し身、鍋、湯引きなどで食べられる。一方アブラボウズギンダラ科の大型魚で、体長3㍍になるものもいる。本州中部以北の深海にすむ。多量の脂を含み、一部地域以外はほとんど流通していない。》と。(注 下線はブログ筆者)

 この説明を読んだ後、漢字はどんな字を当てるのだろう? と、電子辞書で調べたところ、「九絵」と書くのだと分った。キーワードとほぼ似た説明の記された後、<磯釣りでモロコと称する。>とあった。
 もう一つは「油坊主」。<脂肪分が多いため食べ過ぎると下痢をする。>とも書いてあった。
 調理して出されれば、見た目に見分けが難しいのだろう。そこで偽装につながったというわけらしい。

 この記事を読んだのは、春分の日、妹一家と一緒に墓参をした当日であった。
 帰宅後、お茶を飲みながらの話に、私が、その朝、新聞で読んだ「クエ」と「アブラボウズ」の偽装について話したところ、甥が、「クエ」は「アラ」ともいうけれど、また別に「アラ」という魚もいるのだと教えてくれた。
 「粗煮のアラとは違うの?」
 「勿論!」
 そんな言葉のやり取りをした。
 今、改めて辞書で調べてみると、<魚>(偏)に<荒>(旁)を書く「アラ」という魚が出ていた。(手書きして、この字を探してみたが、パソコンでは、見つけることができなかった)
 スズキ科で、やはり大型魚らしい。冬に美味、とあり、冬の季語にもなっている。

 クエの偽装問題から、食べたことも見たこともない魚について知った。
 偶然、同じページには、<ミートホープ社長 実刑(懲役4年)>の記事も出ていた。

 (写真 わが家にある杏が、花を開き始めた。)
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Sさん宅の椿 3

2008-03-25 | 散歩道
 Sさん宅の椿、その三。(写真)
 昨年はクリーム色の花弁が美しく開かなかった。今年は慎ましやかに、可憐に咲いていた。

 Sさん宅は海辺なので、潮風が時に草花の育ちを妨げるらしい。
 今年の椿は、上出来と言えるのではなかろうか?
 Sさん宅には、他の椿もあったが、それらは昨年、すでに取り上げた気がするので、省くことにした。
 三種類とも、椿の品種は分らない。
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Sさん宅の椿 2

2008-03-25 | 散歩道
 Sさん宅の椿、その二。(写真)
 淡いやさしさ。
 この花に匹敵する趣をそなえた女性は、今時少ないのかもしれない?
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Sさん宅の椿 1

2008-03-25 | 散歩道
 昨年の春先は、あちこちの水仙と椿に興味を抱き、写真と共に、多数ブログに載せた。今年も、道々、足を止めて眺めることは多いが、大抵は昨年取り上げたものばかり。特別追加すべき感慨もなければ、今年の美しさに向きああって、そのまま通り過ぎることが多い。

 昨日、久しぶりの散歩に出て、Sさん宅の花壇を眺めさせてもらった。主は留守だったが、昨年のよしみで、庭の奥に置かれた鉢物も無断で見せてもらった。
 椿が目に留まった。
 以前からあった鉢植えの小木である。
 昨年は、ついにいい花に出会えなかった鉢に、今年は見事な、美しい花が咲いているのであった。

 その一つ。
 斑入りのピンクがとてもやさしく、華やぎのある八重の椿は、驕りのない、控えめな花であった。(写真)
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