ぶらぶら人生

心の呟き

「和らく」で食事、『有元利夫展』へ

2007-07-14 | 旅日記

 旅の行動記録としては、順序が逆さになってしまったが、7月9日のことも書きとめて置くことにする。
 松江駅に出迎えてくれた妹夫婦と、まずは食事をした。予約しておいてくれた食事処は「和らく」。(写真)
 お昼は、軽い食事のつもりだったが、品数多く華やかで、味が吟味されていておいしかった。しかも、思いのほか低料金のサービスである。この料金で、どうしてこんなご馳走がいただけるのだろうと、申し訳ない気さえした。
 炊事することのすきでない私にとっては、人に賄ってもらえるほど嬉しいことはない。外食の楽しさは、腕利きのコックさんの味を楽しめることだ。妹たちと語らいながら、「和らく」の味を賞味した。

 食事の後、「島根県立美術館」へ。
 この日は曇り、時々雨の日で、宍道湖に臨むこの美術館周辺も、重くふさいだ眺めだった。が、これはこれでいいのかもしれないと思った。晴れやかな湖の風景が、すべてではないのだから。
 特別展は、<『有元利夫展』――光と色・想い出を運ぶ人――>
 私は、この人の展覧会を観るのは二回目である。
 一度目は、<没後10年 よみがえる女神たち 『有元利夫の世界展』>
 この展覧会は、平成7年の5月から6月にかけ、北九州市立美術館で行われた。
 そのときから、またさらに12年が経過し、今度は松江で、有元利夫の作品に接することになったのだ。
 一度見たら忘れようもない有元利夫の世界を、また楽しんできた。
 理屈ではなく、有元利夫の、絵画を始めとする作品が好きである。
 38歳という、あまりにも短い画家の生涯を惜しみながら、もし長生したとしたら、1984年作、「出現」のあとに、どんな作品が描かれたのだろう? と、空想してみるのだが……。

 前回、図録を求めたので、このたびは、一冊の本「有元利夫 絵を描く楽しさ」有元利夫・有元容子・山崎省三)<新潮社刊>を求め、翌日、帰途の車中で読んだ。
 読みつつ栞をはさんだ文章の幾つかを、書き抜いておくことにする。

 <部屋の中に女がひとり、舞台の上に女がひとり――僕の絵ではそういう情景が圧倒的に多い。それをずっと見てきた人には、なぜいつもかたくななまでに「ひとり」なのだろうという問いが自然に湧いてくるようです。また僕の絵の女たちはひどく中性的で、エロティックなところがないとか、あのたくましさは何から来るのかとか、いろんなつぶやきも聞こえてきます。
 実を言うと僕にとっては、あれは必ずしも女でなくてもいいのです。確かに人間でなくては困りますが――。>

 <僕が舞台を描くのは、そこが演技をする空間だから、嘘をつく空間だからと言ってもいかもしれません。いっぱい嘘をついていっぱい演技して様式を抽出すれば、より真実に近づき本当のリアリティが出せると思うのです。>

 <嬉しい時、幸福感でいっぱいな時、「天にも昇る気持」と言う。実は僕はこの言い回しが大好きなのです。いわゆる知的エリート風な人たちは、とかくこういう表現を通俗だ陳腐だとバカにしがちですが、こういうのは意外にバカにしてはいけないと思う。大げさな言い方をすれば、開闢以来、人間嬉しい時はフワーと浮き上がるような「足が地につかない」気持になってきたのだから、そういう表現が生まれた。……考えてみれば、通俗な表現というのは、人間のどこかにそれだけ深く根差しているものだからこそ、広く行きわたって「通俗」になったのだと思うのです。
 僕の絵の中ではいろんなものが、たとえば紅白の玉や花、トランプや花びらなどもふわふわ飛んでいることがあります。花火も空に向かうし、はては人間そのものも宙に浮く。どうして飛んだり浮いたりしているのかと問われれば、僕にとってそれはエクスタシーの表現だからとしか答えようがありません。……そう、エクスタシーと浮遊。音楽を聴いていても、その陶酔感は僕の中で浮遊に結びつく。だから、それを絵として表現したい時、それこそまさに通俗に徹し、臆面もなく文字どおり人間や花を「天に昇」らせてしまうのです。どうせ浮かぶとなれば、青い空に白い雲。>

 <何であれ、出来たてのホヤホヤというのはどうも苦手です。床屋も行きたては照れくさいし、服もおろしたてだとなんとなく馴染めない。
 ひと言で言えば、風化したものの方が好きなのです。……風化というのはとりもなおさずものが時間に覆われることだと思う。時間に覆われることによって、そのものの在り方は余計強くなる。時間に耐えて、風化して、それでも「そこに在る」というものは、ピカピカの出来たてとは較べものにならないくらいの存在感というか、リアリティを持っているように思えるのです。>

 
引用すればきりがないので、これぐらいにしておく。
 有元利夫の世界を理解する鍵が、表現の中に潜んでいるし、絵画の世界を超えた真実も、これらの表現の中には含まれていると思う。


 この日は日帰りの旅ではなく、時間がゆったりしていたので、常設館の展示も見た。かつて見たもの初めて見るものもあり、また、洋画、日本画、浮世絵、陶芸、彫刻など、様々な分野の作品を見て回ることになった。
 今まであまり知らなかった人の作品で、斉藤与里の「朝」(1954、油彩)と山口薫の「馬」(1950、油彩)などが気に入り、いい絵だと思った。

コメント
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