10月、最後の日となった。
近所の人が、ガン手術を受け、現在、抗癌剤治療を受けておらることを知った。
術後、4か月も経って、その事実を知るとは!
近所の情報が、耳に届かない。
過日亡くなられた、一つ年長の女性も、死因はガンであったと、今日聞いた。
通夜の当日、私ばかりでなく、病んでおられることさえ、近所の人のほとんどが知らなかった。
入院しておられたのかどうかさえ、いまだに知らない。
まるで大都会に住んでいるかのような、希薄な人間関係である。
さっぱりしているともいえるし、至極寂しいことともいえる。
近所へお見舞いに出かけた。
全く知らずにいて、お見舞いの遅れたことを詫びて。
比較的親しい人なので、いろいろな話をうかがった。
手術よりも、術後の抗癌剤治療が大変らしい。
そのことについは、聞き及んでいたけれど、治療中の人から直接話を聞くのは、今日が初めてであった。
髪が完全に抜け落ちていた。
でも、枕のうえに、黒髪がばさばさ落ちるのをみるより、よほど気分が楽である、と。
その心境を察することができる。
辛い日々だっただろうと思う。
そしてこれからも、しばらくは。
ホスピスのある病院に移って、緩和ケアを受け、楽になりたいと思った日もある、とも語られた。
今なお、抵抗力がなくて、疲れやすく、足が弱ってしまった、etc。
ガンの患者数は、増え続けているようだ。
私のような高齢の場合は、ガンとともに生きる生き方の選択も可能であるが、若い人はそうもゆくまい。
病は、みな大変だ。
その中でも、ガンは、やはり相当厄介な病のようだ。
× × × × × × × × × × × × ×
先日、佐藤愛子さんの『箴言集』<ああ面白かったと言って死にたい>を読んだ。
著者は私より10歳年長なので、現在、91歳を生きておられる。
この箴言集は、多数ある著作から、編集者が、名句名言を抜粋し、編集されたものである。
私は、著者のような、しっかりした生き方はできないけれど、心の持ち方については共鳴することが多く、そのいくつかをメモした。
それを読み直してみると、私の現在に関わるものばかり……。(下記のとおり)
『箴言集』の中身は、もっと多種多様なものなのである。
※ 人間すべて老いれば孤独寂寥に耐えねばならないのである。
それをしっかり耐えることが人生の総仕上げなのだ。(P16)
※ 長生きして我慢の力を涵養し、自然に枯れて行って枯木のように
朽ち倒れる――。
それが私の理想の死である。
枯れ朽ちて死んだ身には葬儀など、どうでもよい。葬儀は死者のため
のものではなく、遺された人のセレモニィであろう。義理の花輪が立
ち並び弔問客が大勢集まったとしても、次元の違う世界に行った魂に
は嬉しくも何ともないだろう。(P33)
※ どんなふうに死にたいか、と私は時々自分に訊ねる。殆どの人が
願うように私もやはり「ポックリ」死ぬことが理想である。しかしそ
んな幸福な人はごく少数の選ばれた人たちであろうから、私はやがて
訪れる私の死を何とか上手に受け容れたいと考える。上手に受け容れ
るということは、出来るだけ抵抗せず自然体で受け入れたいというこ
とだ。(P36)
……死を拒否しようと努力するのではなく、馴染んでおきたいと思う。
少しずつ死に近づいていよう。無理な健康法はするまい。不自然な長
命は願わない。余剰エネルギーの始末に苦しまなくてもいいように、
身体に鞭打って働きつづけよう。(P37)
※ 人生は美しいことだけ憶えていればいい――。私はそう考えている。
苦しいことの中に美しさを見つけられればもっといい。
「――ああ面白かった」
死ぬ時、そういって死ねれば更にいい。私はそう思っている。(P43)
※ 人間、ムリはいけない。どんなことであれ、そう「したいからする」
のでなくてはならない。(P60)
※ 人は元気なうちにしておかなければならないことが沢山ある。我慢の
力を養っておくのもそのひとつだ。私は将来、重病になって苦痛と戦
わなければならなくなった時のことをよく考える。薬の力の及ばない
苦痛に襲われた時は、我慢の力頼りである。元気な時から苦痛を逃れ
ることばかり考えていると、その時になって七転八倒しなければなら
ない。それは困る。(P114)
※ 人は一人一人みな違う。その人その人の体質や気質、病状に、その原
因によって身体によいものは違ってくる筈である。あれを食べよ、こ
れは食うなと専門家は知識によって指導するが、それが効果を上げる
場合もあればそうでない時もある。確実なことは「その時のその人に
とって必要な食物」であり必要な運動である。だから私は一般的な健
康法や健康食品に関心がない。(P117)
近所の人が、ガン手術を受け、現在、抗癌剤治療を受けておらることを知った。
術後、4か月も経って、その事実を知るとは!
近所の情報が、耳に届かない。
過日亡くなられた、一つ年長の女性も、死因はガンであったと、今日聞いた。
通夜の当日、私ばかりでなく、病んでおられることさえ、近所の人のほとんどが知らなかった。
入院しておられたのかどうかさえ、いまだに知らない。
まるで大都会に住んでいるかのような、希薄な人間関係である。
さっぱりしているともいえるし、至極寂しいことともいえる。
近所へお見舞いに出かけた。
全く知らずにいて、お見舞いの遅れたことを詫びて。
比較的親しい人なので、いろいろな話をうかがった。
手術よりも、術後の抗癌剤治療が大変らしい。
そのことについは、聞き及んでいたけれど、治療中の人から直接話を聞くのは、今日が初めてであった。
髪が完全に抜け落ちていた。
でも、枕のうえに、黒髪がばさばさ落ちるのをみるより、よほど気分が楽である、と。
その心境を察することができる。
辛い日々だっただろうと思う。
そしてこれからも、しばらくは。
ホスピスのある病院に移って、緩和ケアを受け、楽になりたいと思った日もある、とも語られた。
今なお、抵抗力がなくて、疲れやすく、足が弱ってしまった、etc。
ガンの患者数は、増え続けているようだ。
私のような高齢の場合は、ガンとともに生きる生き方の選択も可能であるが、若い人はそうもゆくまい。
病は、みな大変だ。
その中でも、ガンは、やはり相当厄介な病のようだ。
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先日、佐藤愛子さんの『箴言集』<ああ面白かったと言って死にたい>を読んだ。
著者は私より10歳年長なので、現在、91歳を生きておられる。
この箴言集は、多数ある著作から、編集者が、名句名言を抜粋し、編集されたものである。
私は、著者のような、しっかりした生き方はできないけれど、心の持ち方については共鳴することが多く、そのいくつかをメモした。
それを読み直してみると、私の現在に関わるものばかり……。(下記のとおり)
『箴言集』の中身は、もっと多種多様なものなのである。
※ 人間すべて老いれば孤独寂寥に耐えねばならないのである。
それをしっかり耐えることが人生の総仕上げなのだ。(P16)
※ 長生きして我慢の力を涵養し、自然に枯れて行って枯木のように
朽ち倒れる――。
それが私の理想の死である。
枯れ朽ちて死んだ身には葬儀など、どうでもよい。葬儀は死者のため
のものではなく、遺された人のセレモニィであろう。義理の花輪が立
ち並び弔問客が大勢集まったとしても、次元の違う世界に行った魂に
は嬉しくも何ともないだろう。(P33)
※ どんなふうに死にたいか、と私は時々自分に訊ねる。殆どの人が
願うように私もやはり「ポックリ」死ぬことが理想である。しかしそ
んな幸福な人はごく少数の選ばれた人たちであろうから、私はやがて
訪れる私の死を何とか上手に受け容れたいと考える。上手に受け容れ
るということは、出来るだけ抵抗せず自然体で受け入れたいというこ
とだ。(P36)
……死を拒否しようと努力するのではなく、馴染んでおきたいと思う。
少しずつ死に近づいていよう。無理な健康法はするまい。不自然な長
命は願わない。余剰エネルギーの始末に苦しまなくてもいいように、
身体に鞭打って働きつづけよう。(P37)
※ 人生は美しいことだけ憶えていればいい――。私はそう考えている。
苦しいことの中に美しさを見つけられればもっといい。
「――ああ面白かった」
死ぬ時、そういって死ねれば更にいい。私はそう思っている。(P43)
※ 人間、ムリはいけない。どんなことであれ、そう「したいからする」
のでなくてはならない。(P60)
※ 人は元気なうちにしておかなければならないことが沢山ある。我慢の
力を養っておくのもそのひとつだ。私は将来、重病になって苦痛と戦
わなければならなくなった時のことをよく考える。薬の力の及ばない
苦痛に襲われた時は、我慢の力頼りである。元気な時から苦痛を逃れ
ることばかり考えていると、その時になって七転八倒しなければなら
ない。それは困る。(P114)
※ 人は一人一人みな違う。その人その人の体質や気質、病状に、その原
因によって身体によいものは違ってくる筈である。あれを食べよ、こ
れは食うなと専門家は知識によって指導するが、それが効果を上げる
場合もあればそうでない時もある。確実なことは「その時のその人に
とって必要な食物」であり必要な運動である。だから私は一般的な健
康法や健康食品に関心がない。(P117)