斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』は、どこからでも読み始められる楽しさがある。
今日は、その②<四、しみじみ味わう>の章を読んだ。
取り上げられた詩文は声を出して読み、それに添えられた、1ページほどの解説文を読む。
この項は、周知の作品ばかりであった。
中原中也「汚れつちまつた悲しみに…」
蓮如『五帖御文』<白骨の章>
石川啄木 短歌5首
山上億良 「子らを思へる歌」
八木重吉 「草に すわる」
西條八十 「かなりや」
「あおげば尊し」
「かなりや」と「あおげば尊し」は、声に出して唄ってみる。
「かなりや」を唄いながら、子どものとき、家にあった蓄音器を思い出した。「かなりや」も、レコードで聞いて覚えた歌である。
「あおげば尊し」を唄うと、来し方に出会った師のお顔が脳裏に浮かんだ。
小学校の1年生から、大学を卒業するまで、様々な個性をお持ちの先生方にめぐり合った。
今も健在なのは、小学校の5、6年のとき、担任していただいた先生だけである。枚方市にお住まいなので、一度出かけてお会いしたいと思いながら、賀状の挨拶だけで60余年が過ぎた。
他の先生は、すべて鬼籍に入られた。
「あおげば尊し」を唄うと、ひとりでに涙ぐんでしまう。
唄って涙する歌は、そう多くない。
蓮如の御文書<白骨の章>は、宗教心の乏しい私だが、時に仏壇の前に座って唱えるので、おおよそ諳んじることができる。
冒頭の<夫(それ)、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。>の言葉に、人間のはかなさを自覚しながら…。
今日は、八木重吉の詩に、関心を抱いた。
そして、しみじみ味わった。
八木重吉の詩は、平易なことばによる短詩が多い。
「草に すわる」も、例外ではない。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
1、2行は、同じ言葉を繰り返している。
しかし、2行目は、<わたしの>の後に、1字分の空きがある。それは意味のある、作者の意図的な空白である。作者は、自ら納得するかのように、自分の間違いに頷いている。草に坐って。
短い詩であるけれど、詩人の姿も内面も、容易に想像できる。
考えてみると、人生のいろいろな場面で、大なり小なりの、様々な間違いを繰り返してきた。自分の非にうすうす気づいても、どこかで自分をごまかし、間違いを間違いとして自己肯定することを拒んだりして。
わずか3行の詩が、あなたの生き方は? と、しみじみ問いかけてくる。
× × × × × × ×
25日、歯科の定期検査を受けに出かけようと、準備をしているとき、腰の辺りに不愉快な痛みが走った。歩けないわけではないので、予約日を変更せずに、ゆとりをもってバス停に向かった。小走りなどしなくてもいいように。
歯科医院の入り口に、菊の鉢がいくつも並んでいた。バッグにカメラを入れ忘れ、見事な咲きぶりを記録に留めることができなかった。携帯のカメラで撮ってはみたが、大輪の菊が、うまく収まってくれなかった。
腰をいたわって、タクシーで帰る。
昨日も、郵便局に出かけただけで、終日、おとなしく暮らした。
体のどこかに違和感があると、すべての生活が無気力になる。
今日は、腰の調子がほぼ平常に戻ったので、快晴の庭に出て、日差しを楽しんだ。
この時期は、赤い実が目立つ。庭の万両、藪柑子も、赤く熟していた。
妹が植えてくれた<フユシラズ>の花が、ひとつ咲いた。
万両(マンリョウ)
藪柑子(ヤブコウジ)
フユシラズ
今日は、その②<四、しみじみ味わう>の章を読んだ。
取り上げられた詩文は声を出して読み、それに添えられた、1ページほどの解説文を読む。
この項は、周知の作品ばかりであった。
中原中也「汚れつちまつた悲しみに…」
蓮如『五帖御文』<白骨の章>
石川啄木 短歌5首
山上億良 「子らを思へる歌」
八木重吉 「草に すわる」
西條八十 「かなりや」
「あおげば尊し」
「かなりや」と「あおげば尊し」は、声に出して唄ってみる。
「かなりや」を唄いながら、子どものとき、家にあった蓄音器を思い出した。「かなりや」も、レコードで聞いて覚えた歌である。
「あおげば尊し」を唄うと、来し方に出会った師のお顔が脳裏に浮かんだ。
小学校の1年生から、大学を卒業するまで、様々な個性をお持ちの先生方にめぐり合った。
今も健在なのは、小学校の5、6年のとき、担任していただいた先生だけである。枚方市にお住まいなので、一度出かけてお会いしたいと思いながら、賀状の挨拶だけで60余年が過ぎた。
他の先生は、すべて鬼籍に入られた。
「あおげば尊し」を唄うと、ひとりでに涙ぐんでしまう。
唄って涙する歌は、そう多くない。
蓮如の御文書<白骨の章>は、宗教心の乏しい私だが、時に仏壇の前に座って唱えるので、おおよそ諳んじることができる。
冒頭の<夫(それ)、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。>の言葉に、人間のはかなさを自覚しながら…。
今日は、八木重吉の詩に、関心を抱いた。
そして、しみじみ味わった。
八木重吉の詩は、平易なことばによる短詩が多い。
「草に すわる」も、例外ではない。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
1、2行は、同じ言葉を繰り返している。
しかし、2行目は、<わたしの>の後に、1字分の空きがある。それは意味のある、作者の意図的な空白である。作者は、自ら納得するかのように、自分の間違いに頷いている。草に坐って。
短い詩であるけれど、詩人の姿も内面も、容易に想像できる。
考えてみると、人生のいろいろな場面で、大なり小なりの、様々な間違いを繰り返してきた。自分の非にうすうす気づいても、どこかで自分をごまかし、間違いを間違いとして自己肯定することを拒んだりして。
わずか3行の詩が、あなたの生き方は? と、しみじみ問いかけてくる。
× × × × × × ×
25日、歯科の定期検査を受けに出かけようと、準備をしているとき、腰の辺りに不愉快な痛みが走った。歩けないわけではないので、予約日を変更せずに、ゆとりをもってバス停に向かった。小走りなどしなくてもいいように。
歯科医院の入り口に、菊の鉢がいくつも並んでいた。バッグにカメラを入れ忘れ、見事な咲きぶりを記録に留めることができなかった。携帯のカメラで撮ってはみたが、大輪の菊が、うまく収まってくれなかった。
腰をいたわって、タクシーで帰る。
昨日も、郵便局に出かけただけで、終日、おとなしく暮らした。
体のどこかに違和感があると、すべての生活が無気力になる。
今日は、腰の調子がほぼ平常に戻ったので、快晴の庭に出て、日差しを楽しんだ。
この時期は、赤い実が目立つ。庭の万両、藪柑子も、赤く熟していた。
妹が植えてくれた<フユシラズ>の花が、ひとつ咲いた。
万両(マンリョウ)
藪柑子(ヤブコウジ)
フユシラズ