午後、春日和に誘われて、散歩に出かけた。
今日の出会いを楽しみに。
戸外に出ると、隣家の木蓮が、白く輝いていた。
今が、最高の見ごろである。
ほころびた花は、忽ちだらしなくなる。
国道わきの草むらに、刺のある艶やかな葉を猛々しく広げ、その中央に、蕾の赤紫を覗かせている植物を見つけた。
もう、<あの花>が咲く季節?
夏の花のイメージだが…と思いながら、記憶の倉庫を開けて、私は、その花の名前を捜す。
ごく身近なものの名前が、最近とみに思い出せない。かなり重症である。
<あの花>は? と考えていると、歩く速度がひとりでに落ちる。
そうそう「アザミ」だった。
どんな漢字だったかしら?
また、速度が落ちる。
「薊」という漢字を掌に書いて、また歩き出す。
(アザミは夏の花では? と思いつつ、歳時記を調べた。「薊」「薊の花」なら春の季語。種類が多く、夏から秋にかけても咲き、それらは、「夏薊」「秋薊」と呼ばれるようだ。)
ヤシャブシの木の下に立った。
毛虫のような花が咲いている。木にはなお昨年の実を残したまま。
漢字は?
また、歩みが鈍る。
そうだ、「夜叉五倍子」。
鶯の声を聞きながら、北浜に向かう道を下る。
ツツピー ツツピー と鳴く鳥もいる。
野のスミレを探したが見つからなかった。
人気のない道に、一台の車が現れた。
淋しい道で、人や車に出会うのは、少々気味が悪い。
車を避けて立ち止まると、私の脇に車が止まった。
一瞬、道の案内を乞われるのかと思った。
運転席の人は、私の主治医の先生だった。補助席には看護師のおひとりが坐っておられた。往診中らしい。
「いい天気ですね。どうぞ気をつけて…」
と、声をかけてくださった。
北浜海岸に出る。
白波が磯を打ち、<のたりのたりの春の海>という穏やかさではない。
大根の花を眺めながら小さな丘を越え、土田海岸に下った。
前回(2月12日)と同じコースなのに、今日はひどく疲れた。
体が少々重い。
午前中は、妹夫婦とその孫二人(大学生になる男児と中学生になる女児)が来宅、歓談のひとときを過ごした。疲労のたまる仕事をしたわけでもないのに、と頭をかしげる。
体が快適に動いてくれない。
ケイタイで、時間を確かめると、予定の時間を20分もオーバーしている。
サクランボを実らせる桜の木が、花を咲かせていた。
かつて在った家はなく(その主が亡くなられたあと解体され)、前庭の桜の木も、思い切り伐採されていたのだが…。
切り株は残り、花を咲かせる生命力を宿していたようだ。
もちろん、今年初めて見る桜である。
地味な花を整然と咲かせている木もあった。名前を知らない。
土筆の坊やが、まだあちこちに残っている。(スギナの緑も増えているけれど…)
道端にしゃがんで、土筆の坊やを眺めているとき、遊び帰りの少年少女が通り過ぎた。
その中の少年は、よく見知っている浜の子どもである。
私が散歩を始めたころに、小学一年生だったから、もうそろそろ中学生ということだろうか。
その後も、私に出会うと、親しみをもって近づいてくる少年である。
少し知能障害のある子どものようで、言葉は少なく、表情や態度で親近感を表すことしかしない。
今日は、いきなり私にサッカーボールを渡して、距離をとった。
私が投げ返すと、ボールを胸に抱いた。
「上手!」
と、一緒にいた少女が誉めた。
多分、少年は一緒に遊んでほしかったのだろう。
疲れていて、その余裕のなかったことを悔いつつ、帰途についていると、山肌に山椿が咲いていた。その傍らには、今まで気づかなかった別種の椿もあった。