山陰西部を旅する人の眼には、日本海の沖に浮かぶ孤島が、印象的に眺められるのではないだろうか。
日ごろ見慣れている私だが、列車の窓から島影を眼にすると、たちまち旅人の気分になってしまう。瀬戸内海の島々のように、たくさん点在していると、なんだか島への思いが拡散されてしまうのだが、そこに一つしかないということで、様々に想像が掻き立てられたり、空想の世界に浸らされたりする……。
日展を観るため、松江に向かった。乗りなれた列車からの見慣れた風景だが、幾度眺めても見飽きることのない山陰の風景である。鄙びた眺め、茫々と広がる日本海。
早朝の出発だったので、朝の新聞を読みながらの旅立ちだが、折々眼を上げて風景を眺める。
その朝も、高島は、沖はるかに浮かんでいた。
私は、永井隆博士の高島を詠んだ歌を思い出そうとした。が、最近諳んじたものは、昔覚えた歌のようにすらすらと出てこない。思い出すことを諦めた。
帰宅後すぐ、「新しき朝」という文庫本を開いて確かめ、今度は心に刻み込むように口ずさんだ。
紺青の石見の海や白波の光る退方(そぎえ)に高島の見ゆ
「大正15年18歳――昭和7年24歳」の区分中にある歌である。ふるさと島根と進学先長崎との往来の途次で詠まれたものであろう。
永井隆が島根出身であることは知っていたが、この歌でいっそう親しみを覚えたのは、昨年の春、長崎に旅した時であった。
かつて「如己堂」は、いつも観光バスの座席に坐って、名調子で説明するガイドの声に耳を傾け、「この子を残して」の一節や悲傷の唄を聴きつつ、通過するだけの場所だった。
が、その時、初めて「如己堂」を尋ねたのだった。長崎に原子爆弾が投下され、妻をなくした彼が、自らも被爆しながら、命の限り執筆活動を続け、二人の子供と過ごした場所であることは、誰も知るところだ。
二畳一間きりの、狭い一室である。
「如己堂」について、博士はこう書いている。
<如己堂…己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。そして今にいたるまで、その数々の如己愛は絶えずこの家に注がれ、それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそりと暮らすにふさわしい小屋である。>と。
「如己愛」「如己愛人(己の如く人を愛す)」とは、崇高な思想だと思う。人間同士のあり方としてすばらしいことだと思いながら、私などは実践できない。自分の醜いエゴを捨てきることが出来ない。が、永井博士は、実践の人である。
如己堂の隣に、「永井隆記念館」は建てられている。
そこには、<人類愛に満ちた研究者(医学博士)>としての永井博士、<世界の平和を祈る人>としての永井博士、<作家そして父>としての永井博士など、その全容に接することのできる場となっている。その非凡で偉大な生き方には、遠く及ぶべくもない私だが、没後半世紀以上をを過ぎた今、記念館の中で、ひと時、その生涯に触れることができ、感動した。
その時、記念に求めた本が、「新しき朝」であった。長崎からの帰りの車中で、すでに読了していた本に、再び眼を通した。
その本を読むまで、歌人としての一面を私は知らなかった。アララギ会員であり、世に永井博士の「辞世の句」といわれている次の一首は、「昭和万葉集」(昭和54年9月講談社発行・巻9)に採用されている由。
白薔薇の花より香りたつごとくこの身を離れ昇りゆくらむ
「新しき朝}には、短歌のほか、俳句、詩、スケッチなども掲載されていて、永井博士の一面に触れることが出来る一冊である。
島根の人、永井隆の歌のうち、石見に関わる歌をもう一首見つけた。
石見潟長濱駅に汽車入りぬまどをあくれば近き潮騒
(長濱駅は、現在、西浜田と改名されている。)
俳句の中では、
風吹けば風まかせなるへちまかな
が、私の気に入った句である。
今、永井隆氏の年譜を見ていて、明日5月1日は、55回目の命日であることを確認した。行動力のない私だが、精神の上では、反戦と平和を祈って、博士を偲びたいと思う。
追記 日展を観るため、松江まで小旅行をしたのは4月28日。
高島は、現在は無人の島。1月撮影。