ぶらぶら人生

心の呟き

5月の庭 (ベランダより…&生け花)

2009-05-31 | 草花舎の四季
 先日、25日、草花舎へ行ったとき、ケムリノキの花を見るため、ベランダに出た。そこから、目を前庭に転じた。写真が小さく、庭の表情が不鮮明だけれど、いつも歩く庭の雰囲気をとどめている。(写真①)
 地面に日差しの濃淡ができている。あの日は、お天気がよかったらしい。
 その後ずっと、5月の下旬とは思えぬ、寒々とした曇り日が続いた。
 今日は、午後になって、久々に空が晴れてきたけれど…。

 セネガルから帰られたスーザンさんは、この日、疲れがあるとのことで、草花舎に来られなかった。
 ひとり庭を歩き、一人で食事をした。
 
      ①

 写真②~④は、展示室に活けてあった花々。
 花瓶の中の<ニゲラ(クロタネソウ)>と<デルフィニューム>の名前を教えていただいた。
 カラーやバラは知っていた。
 写真④の、白い小さな花は、カスミソウだっただろうか?
 

                 ②

       ③

                 ④
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5月の庭 (マツリカなど)

2009-05-31 | 草花舎の四季
 今日で5月が終わる。
 先日、草花舎に出かけたのは、25日だった。
 その日出会った草花のまとめを怠っているうちに、明日はもう6月である。
 せめて5月のうちに、簡単にでも、先日見た花を掲載しておくことにしよう。
 最近の庭は、数日見ぬ間に変化してしまう。
 次回訪れる6月の庭には、入り口近くの<ヒペリカム・アンドロサエマム>とかいう<キンシバイ>に似た花が咲き満ちていることだろう。
 そのヒペリカムの近くには、マツリカが二色の花を咲かせていた。(写真①)

 写真②③の<フクシャ>は、愛らしく、しおらしい花だ。
 「貴婦人の耳飾り」と、去年、メモした記憶がある。
 フクシャの種類は、実に数が多いらしい。
 写真④の名前は、カタカナ名にしては覚えやすい。名が体を表しているからだ。
 すなわち<ライスフラワー>。
 ところが、この花は、つい最近まで淡いピンク色をしていた。白色だからこそ、ライスに見えるのだけれど。
 写真⑤は、<セオノサス マリーシモン> というのだそうだ。
 去年も、その名を聞き、今年もYさんに教えてもらった。
 メモを取る習慣はあるのだが、いつも思いつきで、そこらにあるメモ用紙に書いてしまう。だから、次の年に役立たない。
 6月から、ノートを決めて、メモすることにしよう。きちんと日付を入れて。

      ①

                 ②

      ③

                 ④

      ⑤
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「花に嵐の……」

2009-05-30 | 身辺雑記
 ここ幾日も、曇り日が続いている。
 風の強い日もあった。小雨が地面を濡らす日もあった。
 気分も、さえない。

 手近にあった本をぱらぱらめくる。
 寺山修司著『ポケットに名言を』(角川文庫)。(写真①)

 <学生だった私にとっての、最初の「名言」は、井伏鱒二の
   花に嵐のたとえもあるさ
   さよならだけが人生だ
  私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度乗り越え
 たか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」という言葉は、言わば私の処
 世訓である。私の思想は、今やさよなら主義とでも言ったもので、それはさまざ
 まの因習との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維
 持を唱える幾つかの理念に(慣習とその信仰に)さよならを言うことによっての
 み、成り立っているようなところさえ、ある。>

 と、目次 1の「言葉を友人に持とう」の、初めの方に記されていた。
 この短い文章だけ読んでも、寺山修司の生き方に対する信条をうかがえるような気がする。
 が、ここで私が注目したのは、井伏鱒二の詩として取り上げられている名句についてである。
 先日書いたブログで、『ことばの花束』の中から引用した句に、
  <花発(ひら)けば風雨多く 人生 別離足(おお)し> 「唐詩選」
 があった。

 その詩句の名訳が、井伏鱒二の
  <花に嵐のたとえもあるぞ(寺山修司の本では、「あるさ」になっている)
   さよならだけが人生だ>
 であることは知っていた。
 が、その時、この詩の作者やその前にあるはずの詩句が思い出せなかった。
 そのままにしていたところ、今日また、<寺山修司にとっての名言>として、井伏鱒二の名訳に出くわすことになったのだ。

 そこで、井伏鱒二の本を書棚から探し出して調べてみた。
 扉の部分に幾枚かの写真が掲載されている。その中に、井伏鱒二自筆の、この詩句を書いた<書>が見つかったのだった。(写真②)

 その書には、都合よく、原詩も添えられていた。
  <花発多風雨 人生足別離>

 これを手がかりに、作者や五言絶句詩の全体を調べることができた。
 作者は唐の詩人・宇 武陵である。
 詩題は、「勧酒(酒を勧む)」で、友人との別れに際して、お酒を勧める詩である。

   勧君金屈巵  君に勧む 金屈巵(きんくつし)
   満酌不須辞  満酌 辞するを須(もち)ゐず
   花発多風雨  花発(ひら)けば 風雨多し
   人生足別離  人生 別離足(た)る
       (注 「ことばの花束」では、<足(おお)し>と読んでいる。)

 この詩全体を井伏鱒二は、次のように訳している。

   コノサカヅキヲ受ケテクレ
   ドウゾナミナミツガシテオクレ
   ハナニアラシノタトヘモアルゾ
   サヨナラダケガ人生ダ

 学生時代の漢文の時間を思い出した。
 この漢詩を学び、井伏鱒二訳を、その授業で聞いたことも…。
 が、詩全体を思い出すことができず、手元の資料を調べてみた。
 上記の訳文が、『漢詩名句辞典』(大修館書店)の中に出ていた。
 (注 <金屈巵>は、黄金の取っ手の付いた酒盃の意味。巵はさかずき。)

 それにしても、井伏鱒二の訳文<サヨナラダケガ人生ダ>はうまい。
 そのとおりだとしみじみ思う。
 別離の悲哀は、永く生きれば生きるほど、<足し=多し>ということになるだろう。そして、極論すれば、<サヨナラダケガ人生ダ>ということになる。
 さらに、寺山修司氏のような解釈さえ可能にするほど、奥深い。

 調べごとなどしていると、鬱屈しがちな気持ちから、しばらくは開放された。
 昼過ぎ、知己のS氏から電話があった。
 受話器を置いてから、用件はなんだったのだろう? と、思った。
 どう考えても、特別な用があったようには思えない。
 人はふと、人を懐かしむことがるのだろう。
 S氏も、単に、心寂しかっただけなのかもしれない……。

 追記 寺山修司著のカバー絵を面白いなと眺め、誰の作品だろう?と思った。
    カバーの裏面に、<林静一>の名前を見つけた。
    パソコンで調べ、イラストレーター、漫画家として著名な人だと知り、な
    るほどと思った。  


 ①           ②
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「大丈夫だよ」 <ホトトギス啼く>

2009-05-30 | 身辺雑記
 その日は、不思議な朝でした。
 過日、26日の早朝のことです。
 私は、
 「大丈夫だよ」
 という予期せぬ呼びかけで目覚めたのでした。
 聞き覚えのある声でした。
 が、夢をみていたわけではないのです。
 いきなり声がふりそそいだのでした。
 「大丈夫だよ」
 と、慈愛に満ちて。

 不思議なことだと思っていると、未明の空のかなたから、
 「キョッキョ キョ キョ キョ   キョッキョ キョ キョ キョ」
 と、鳥の啼く声が聞こえてきました。
 ホトトギス?

 起き出して時計を見ました。
 夜が明けようとする5時10分前でした。
 玄関から外に出てみました。
 「キョッキョ キョ キョ キョ」
 間違いなく、ホトトギスの声でした。

 ホトトギスの聞きなしを
 「てっぺんかけたか」
 「特許 許可局」
 などと言う人もありますが、
 私には、
 「キョッキョ キョ キョ キョ」
 と、いつも擬音語で、耳に届くのです。

 ホトトギスが、今年も啼き始めたのでした。
 「大丈夫だよ」
 そのささやきは、ホトトギスの初啼きだったのでしょうか?
 それとも、ホトトギスは、心やさしい人の使者だったのでしょうか?

 この朝、花壇には、シモツケの花が咲き始めました。(写真)
  

                    
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一泊二日 周遊の旅 7 (三次市の石川啄木碑)

2009-05-29 | 旅日記
 タクシーで、美術館から駅に向かう途中、石川啄木歌碑のあるお宅に立ち寄ってもらった。
 石川啄木記念館から送ってもらった資料<全国の啄木碑>によると、<田島家庭園内>にあると、碑の在り処が記してあった。
 が、運転手の話では、資料に記してある番地に住んでいる人は、田島ではなく大畠という人だという。
 前日、ホテルのフロントで尋ねたとき、地図で確かめ、その番地は田島さんの家になっている、ただこの地図はかなり古いので…? とのことだった。
 
 「ここが、その番地の家です。下りてみますか」
 と、運転手に促され、カメラを持って車の外に出た。
 
 表札は「大畠○○」となっており、横に女性の名前が、小さな字体で添えられていた。
 やはり住人が変わっていたのだ。
 
 入り口の扉のすぐ傍、小路から見える位置に、その碑はあった。
 玄関の横、建物前の狭い庭に。(写真)

   たわむれに母を背負ひて
   そのあまり軽きに泣きて
   三歩あゆまず
          啄木

 と、彫られている。
 石の種類も、啄木の歌碑がそこに置かれた理由もよく分からない。

 碑の前には数個の鉢があり、その一つには、テイカカズラの、時期を過ぎた花が、哀れげに咲き残っていた。
 運転手は、家の人に声をかけた方がいいだろうと、ベルを押してくれた。が、返答はなかった。
 「新聞が取り込んでないから、留守なんでしょう」
 と、運転手。
 碑の写真だけは、無断で撮らせてもらい、家主に会えないのを残念に思いながら、引き上げることにした。
 珍客に対し、玄関の右側に繋がれた犬が、神経質そうに吠えた。
 犬がいるということは、長い不在ではないらしかった。
  

 旅から帰って、電話局に問い合わせたところ、私の尋ね人は、電話帳に載っていないとのことだった。少し離れたところに大畠姓があるから、そこにつないでみましょうか、とのこと。あるいは親戚関係かも知れないと思い、呼び出しを頼んだが、全く無縁の人だった。 (以上は、28日にまとめたもの。)


 先刻、石川啄木記念館から、注文の浅沼秀政著『啄木文学碑紀行』が届いた。
 早速、開いてみた。
 <広島県三次市・田島庭園の歌碑>として、写真を添えた記事が出ていた。
 私の見確かめられなかった≪碑陰≫も、紹介してあった。

    昭和六十三年十月 三次 一江  建之 
    この歌を私たちのそれぞれの
    亡き母に捧げる

 と。(注 夫妻の名前は並べて彫られている様子)
 文字は奥田三次氏のもである、とも書いてあった。
 建立当時は、むしろ横長の御影石に彫られていたのを、平成七年六月に、現在の縦長の石に彫り直されたものだという。
 奥田夫妻の、それぞれの母堂に対する思いが、啄木の歌に託されたということらしい。碑の由来だけは分かった。
 依然として、現在お住まいの大畠氏との関係は不明である。

 石川啄木記念館へファックスを送り、先日来、資料や本を送っていただいたお礼に併せ、三次市の啄木碑のある場所が、大畠の表札に変わっていたことを申し添えておいた。
  

               


 24日、啄木碑を見た後、同じタクシーで三次駅へ。
 芸備線で、広島に向かった。
 この線を通って、遠い昔、三次に一泊した思い出がある。
 三次の馬洗川で行われる鵜飼を見るためであった。
 ホテルの人によると、今も四百四十余年の伝統を守って、続けられているとのことだった。
 私が訪れたのは、まだホテルのない時代で、泊まった宿はいわゆる旅館であった。
 鵜飼を見た夜の、川風が心地よかったこと、川面にゆらぐかがり火に、寂寥と美しさを覚えた記憶がある。
 鵜飼いといえば、長良川の鵜飼を見たのが最初だった。
 それについで三次。四国の大洲に一泊し、肱川の鵜飼を見たのは、平成の初めごろだったように思う。

 芸備線には、三江線のような鄙びたローカルの味がない。風景が平凡である。
 岡さんの詩に出てきた府中を通る福塩線の趣はどうなのだろう?
 府中の紫陽花寺は、見るに値するのかどうか?

 広島で新幹線の乗り継ぎまでの時間、駅前の百貨店<福屋>で過ごした。
 食事をしたり、Sサイズのお店を見つけたので、気まぐれにブラウスを求めたりして。
 9階が書店になっていて、広いフロアに大量の本が置いてあった。
 残念ながら、乗車までの時間が残り少なく、ゆっくり本を手にとることができなかった。

 旅の終わりは、山口線。
 このローカル線こそは、私の人生で最も利用した路線である。今まで幾度上り下りしたか数え切れないほどである。
 やはり味わいのある路線の一つに数えたい。
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一泊二日 周遊の旅 6 (「奥田元宋 小由女美術館」再び)

2009-05-28 | 旅日記
 三次に一泊した翌朝、タクシーで、「奥田元宋 小由女美術館」へ行った。
 同美術館は、2006年4月15日の会館である。
 それを記念して、最初の美術展が開催された。
 そのとき、出かけて以来である。
 今、記録を確かめてみると、友人の車で訪れたのは、6月13日であった。
 通常は非公開の、京都・銀閣寺の襖絵(奥田元宋作)が、期間限定で特別展示されており、その最終日に当たっていた。運のいいめぐり合わせであった。
 奥田小由女が、亡き夫を偲びながら、二人の来し方を書かれた本『淡雪の庭』を求め、作者のサインをもらったりもした。
 
 今回は、<女流作家巨匠展>(奥田小由女文化功労者顕彰記念)の最終日であった。この度も、運のいいめぐり合わせであった。

 女流作家の巨匠とは、
   日本画家の上村松園・小倉遊亀・片岡球子・秋野不矩
   油彩画の三岸節子
   人形作品の奥田小由女
 以上の6人である。

 片岡球子は、先日、岡山県立美術館で見てきたばかりであるが、そのときには展示されていなかった作品を、ここでまた鑑賞することができた。
 知名度の高い作家6人の作品は、それぞれの個性を楽しめる展示となっていた。広い空間をゆったり使って。

 常設館の展示も見てきた。
 奥田元宋と小由女夫妻の作品の数々は、会館記念の折にも、展示してあった作品であろう。
 <元宋の赤>といわれる独特な色彩や月のある風景などに、再びめぐり合うことができた。
 奥田小由女の人形の数々にも再会した。
 巨匠展に出品されたものにあわせ、数多くの作品に出合うことになった。

 夫妻の、芸術家としてはの道は異なるけれど、一つの美術館に、二人の魂が芸術作品という形で、永遠に生き続けるのだから、随分幸せなことである。

 写真①は、メインエントランス横のシンボルツリー、いろはもみじである。
 この美術館は、<日本で一番、月が美しく見える美術館>と宣伝されている。
 奥田元宋の作品には月が多く描かれており、死去の日も、満月であったとか。
 小由女の亡き夫に捧げられた作品も、「月の別れ」と題されている。
 写真②の、美術館の池に映る月は、さながら自然の芸術としての趣を呈するに違いない。

 11時半にタクシーを呼んでいたので、お茶をいただいている暇はなく、レストランに入って、コーヒーを頼んだ。
 窓から見える風景がいい。
 テラスに出てみると、美術館の屋根が見えた。(写真③)
 帰宅後、パソコンで知ったことだが、設計者は柳澤孝彦(1935~)とのこと。
 <常設展示棟のゆるやかなカーブは中国山脈のなだらかな山容を表現した>と、設計者の意図が記してあった。自然との調和を考えて設計されたのであろう。

 写真④は、美術館の茶室である。
 以前訪れたときには、そこで友人とお茶をいただいた。思い出は懐かしい。
 茶室に坐っているときには、外観を知る由もなかった。が、テラスからは、その全容を眺めることができたのだった。
 レストランを出て、タクシー乗り場に引き返そうとしたとき、右手に歩道橋が見えた。(写真⑤)
 前回、駐車場から館内に入るときに渡った橋である。 

      ①

                 ②

      ③

                 ④

      ⑤
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一泊二日 周遊の旅 5 (岡博詩集『過客』)

2009-05-27 | 旅日記
 旅の道づれに、バッグに入れたのは、一冊の詩集であった。
 <岡博詩集『過客』――生きることにも心急(せ)き――>。


     三江線は雨でした ぽつんと一輌
     六月の涙たれるなかを
       ……略……
     これが見納めででもあるかのように
     窓外の
     風景に見入る私と――だが風景に見入りながらも
     実は私は
     涙たらしていたのです 虚言でもなく
     無理に 自分にいい聞かせているのでもない
     至福の涙 今の自分は
     これ以上なく恵まれているという
     うれし涙なのです 雨の
     涙たらす三江線 涙の雨たらす私
     今日も
     広島府中の紫陽花寺を見にゆくに 山口線
     山陰線三江線と大廻り
     三次へ一泊
     明日は
     福塩線山陽新幹線山口線と乗りついで帰るという
     子供のような
     列車旅行を愉しんでいるのです 細々とした家業ながら
       ……略……
 
   
     四年前の発病当時から
     夫婦そろってわがことのように気を使い
     気を使いしてくださるU氏 われわれ夫婦に出来ることなら
     何でもするからと
     申し出てくれるN氏 北浦から
     生ウニを運んでくれた画家のH氏 東京の
     地酒?を送ってくるS氏 島根の
     季節の味ですとOさん 奈良の詩人K氏は
       ……略……
     紹介はきりがないので止めましょう びっくりする程多くの
     知己友人に励まされ ほんとうにもう
     いうこと何もありません
     明日死んでもいい いやおれはもう
     ちょう度死に時なんだと そんな風にも思い
     また新たな
     涙たらしてしまうのです 三江沿線は

     次第に谷深くなり 趣ある風景となり
        ……略……

     雨の
     涙たらす三江線 車窓に
     涙の雨たらす私
     終点三次が
     近付いたようです


 引用が長くなった。
 これは「幸福(しあわせ)」と題された詩の一部である。
 三江線を旅しながら、余命いくばくもない詩人の岡さんは、窓をぬらす雨を眺め、また自らも、うれし涙(至福の涙)をながしながらの旅であった、とうたわれている。それを読む私も涙して。
 題名が「幸福」であるし、来し方を見つめた時、詩のことば通りの至福感が岡さんの心に萌したことに偽りはないのだろう。が、至福の涙の裏側には、それもすべて、程遠からず無に帰することへの無念な思いも潜んでいたであろう。

 私も山陰から三江線へ、そして三次に一泊と、似たコースを旅したのであった。
 異なるのは、岡さんの帰りは、福塩線の府中で紫陽花寺を見て、山口へ帰る旅。
 私は、三次から芸備線で広島にぬけ、山口線で益田へ帰るという旅。
 私は、詩集『過客』の詩を一つ読んでは、詩集を閉じて膝の上に置き、岡さんの思い出を反芻したり、若き日を回想したり、車窓の風景を眺めたりしたのだった。
 

 岡博さんとは同じ雑誌の仲間だった。
 1歳年上の、才豊かな詩人であった。が、晩年の4年間はガンと闘い、平成2年の6月、59歳で、紫陽花の咲く季節に他界された。
 合評会ごとに顔を合わせ、文学について語り合う仲間というに過ぎなかったけれど、上記の詩の旅の後、葉書をいただいたことは覚えている。それには、私の住む益田を通り、三江線を経由して紫陽花寺に立ち寄ったことが記されていた。

 平成元年、死去の前年のことである。
 私は、その年、定年を待たずに退職し、老父母の面倒を見ている時期だったので、前もって知らせてくだされば、益田駅でお会いできたのに、と思った記憶も蘇る。
 だが、20年ぶりに、ゆっくり詩を読み返し、引用の詩句に出てくる、
 <島根の味ですとOさん>
 とあるのが、私のことに違いないと意識したのは、今回、三江線で詩集を読み直してのことだった。
 葉書をいただいた後、何か、島根の産物をお見舞いとして送ったらしい。
 はて?何を送ったのだろう?
 私の記憶からは、完全に消えていることなのだ。
 『過客』には、岡さんに関する新聞記事と<謹呈>の用紙が挿んであった。
 何気なく、黄ばんだその用紙を見ると、欄外に、<果物すみません>と、岡さんの直筆で記されているのだった。
 私の送った島根の味は、果物だったらしい。
 全く思い出せないのだが、当時すでに、メロンが特産品となっていたかどうか?
 
 岡さんの病は、ガンであった。
 直腸及び肛門ガン、さらにはリンパ節や両肺への転移により、4年間にわたって、想像を絶するガンとの闘いを続けられた。
 岡さんは、それに負けず、ガンに打ち勝った人である。

 ガンを患われるようになってからも、ガン詩集『なぎ倒される――外科病棟の96日――』『連禱詩篇』そして、『過客』と、3詩集を世に問い、最後は、<ガンと末期医療を考える会>の設立に、奔走されたのであった。
 (当時、それについて書かれた朝日新聞の切り抜き9枚を、私は詩集に挟んで保存していた。今回は、それも読み直し、彼こそ病に打ち勝ち、<闘う人>だったのだと、畏敬の念を新たにした。)
 岡さんは、最期まで詩人であった。
 意識のある間は、自分の生きた証を詩に綴り、『過客』以後の作品は、小誌「命終戯語」と「路上」<岡博追悼特集号>にまとめられ、没後、A子夫人から届けられたのだった。

 
 「幸福」詩に出ているU氏も、N氏の夫人も、すでに鬼籍の人である。
 『過客』の表紙文字を書かれた上野さち子先生(俳人・俳句研究家。私の恩師)も、すでに亡き人である。
 存在価値もない私だけが、命をつないで、人生を憂いつつ、旅をしている有様である。

 <過客>は、松尾芭蕉の『奥の細道』の<月日は百代の過客にして…>を意識されたのだろう。表紙には、芭蕉の旅先の地図が添えられている。(写真)
 なおサブタイトルの<―生きることにも心急き―>は、「蛍」と題された短詩からの引用である。


       わがかなしみは天(てん)の川
       ほたるの昇る天の川
       人に押されて土手の道
       生きることにも心急き
 

          
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一泊二日 周遊の旅 4 (江川沿線の風景)

2009-05-26 | 旅日記
 小さな旅を計画したとき、天気予報によると、好天に恵まれるはずであった。
 が、23、24日の二日間、すっきりとした青空は広がらなかった。
 添付した写真が示すとおり、空は薄曇りであった。三次に近づくにつれ、空の一部に雨雲も出て、ひととき車窓に雨滴が流れた。しかし、傘を必要とするほどの雨にはならなかった。
 
 三江線の旅のすばらしさは、風光に恵まれていることである。
 水のある風景はすばらしい。特に川や湖が、私の好みである。
 山と川のある風景、それが三江線である。
 山の緑が、濃くなりすぎていたのは残念だった。もう旬日早かったら、山々が若やいで、さわやかだったであろう。詩人、岡さんの詩句を借りれば、<木々の若葉も もう含羞(はにか)みの色を捨てた>、そんな山になっている。

 紅葉の季節の三江線は、どうだろう?
 秋も、美しいに違いない。
 雪に降り込められた、しんとした眺めもいいだろう。
 しかし、再び、このローカル線を旅する日はなさそうだ。

 川土手のあちこちに、黄色い花が群がって咲いていた。(写真⑤)
 オオキンケイギクという外来種だと、昨年調べて、覚えた植物?
 漢字では、<大金鶏菊>と記してあったような気がする。

 沿線の植物で目立つのは、卯の花であった。
 山が迫りくると、車窓に、白い花が飛び込んできた。
 栗の花も、咲き始めた様子。
 緑の葉っぱの中に、白い葉を混じえた植物もあった。
 ハンゲショウ? ではないかしら?
 出雲の荒神谷で、初めて、その名を覚えたのだが、同じものかどうか?

 
 植物の名前を知ってなんになる?
 ブログを書いてなんになる?
 老化の防止くらいには役立つだろうか?
 生活の一つ一つの意義を問い質せば、なんだか曖昧模糊として、
 答えらしい答えが得られない。
 命があるから生きているだけのような、
 味気なさに打ち沈みながら、
 かといって、
 人のため、社会のために役立つような生き方もできそうになく……
 
 風景と一緒に、私のとりとめのない思念も、流れ去る。
 結局は、
 車中で出逢った幼子のように、無心に、邪気なく生きていてば、
 それでいいのかもしれない。
  
 <自然の風景>ばかりでなく、
 私自身の<心の風景>にも、
 ゆっくり向き合える、
 それこそが、旅の意義? かもしれないのだ。


       ①

                 ②

       ③

                 ④

       ⑤

                 ⑥
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一泊二日 周遊の旅 3 (停車時間に)

2009-05-26 | 旅日記
 三江線は、走行距離118.9キロのローカル線である。
 私の乗った午後の列車は、乗車時間が3時間39分。
 <のぞみ>に乗って東京を発ったら、岡山に楽々着ける時間と同じだ。
 いささか時間がかかりすぎだと思っていたところ、二駅で、随分長く停車した。
 浜原駅と口羽駅と。
 浜原で9分、口羽では15分停車した。
 乗客は、ぐっすり眠っている坊や以外、みな立ち上がってホームを歩いたり、緑の空気を吸ったりした。
 浜原駅に止まったとき、私も下車し、乗車している車輌をカメラに収めた。(写真①)
 車体の左上の隅に、<三次>と行き先が示してある。
 
 私は、大昔、三江線の列車で、浜原の一駅手前の粕淵に下車したことがある。
 その駅近くの山間に湯抱温泉があって、そこに一泊したのであった。
 多分バスに乗って湯抱に入ったのだろうと思うけれど、詳細は思い出せない。宿泊した旅館も。
 ただ、宿から歩いてゆける距離に、斎藤茂吉の歌碑があった。
 記憶が曖昧であるけれど、歌碑の歌は、こここそ人麻呂の終焉の地だと詠っていた。
 人麻呂の最期の地については諸説があるようだが、柿本人麻呂の研究者でもあった斎藤茂吉は、歌碑に次のような歌を書き残し、自説を主張していたように思う。

  <人麻呂がついの命を終わりたる鴨山をしもここと定めん>
           (覚え違いの箇所があるかもしれないけれど…)
 
 三江線にまつわる思い出といえば、粕渕、湯抱温泉、茂吉の歌碑のみ。
 そこから先は、初めて辿るコースであった。

 浜原での停車中、運転手に、県境の駅はどこかと尋ねてみた。

 <㋑○○㋛(私の耳には<イタバシ>と聞こえたが、正しい地名は伊賀和志(いがわし)であった)で、一度広島県に入るけれど、また島根県を通り、香淀(ごうよど)から先は広島県になるのだ>と。

 山間を縫うように、くねくねと奥石見から奥備後へと三江線は走っているらしい。

 二度目の長い停車は、口羽駅であった。
 ホームに下りると、名所案内の看板があった。(写真②)
 この山間の川には、ゲンジボタルの飛ぶ、幻想的な静寂の地があるらしい。
 看板を見ながら佇んでいると、すぐそばの青田で、蛙が鳴いていた。
 さすらい人の寂寥を覚えた。

 少し離れた位置に、朱色の棒が立っていた。近づいてみると、10センチ刻みの印がつけてあった。80センチまで。
 積雪の深さを知るための標識であろうか。
 
 なんでもない、どうでもいいものとの出会い、それもローカル線の楽しさかも知れない。
 作木口(さくぎぐち)を出てしばらくすると、それまで喘ぐように上り続けていた列車が、ゆるやかに下り始めたように思った。車窓に見える川の幅も広がりを見せ始めた。県境を越えた様子である。
 と、間もなく到着した駅が、香淀(ごうよど)であった。
 いよいよ広島県入りしたのであった。 


      ①

               ②

      ③
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一泊二日 周遊の旅 2 (ぐっすりと)

2009-05-25 | 旅日記
 23日の午後2時、江津駅に下車した。
 三江線への乗り継ぎには、1時間待たねばならなかった。
 駅前の喫茶店に入って、一休みした。
 ホームへ向かう前、駅構内の自動販売機で、3時間40分の道づれに、150円の爽健美茶一本を求めた。

 やがて三江線のホームに、三次方面から一両の車両が到着し、数人の乗客を降ろした。その後、三次方面に向かう乗客が乗り込むと、列車は折り返し出発した。
 4人掛けの座席は四つしかなく、後方の窓際に長椅子の置かれた、貧弱な車輌であった。おそらく、常に乗客が少なく、座席数が事足りているのだろう。

 乗車の際、私は運転手に、左右どちらの景色がいいかを尋ねた。
 「左側にお掛け下さい」と、その返事には、なんのためらいもなかった。
 運転手に言われたとおり、私は左座席の窓側に坐り、車窓に流れる江川とその周辺の風景を楽しんだ。
 4人席を独り占めして。

 私の横の、通路を挟んだ4人掛けの座席には、若い父親と幼子の二人が坐った。
 男の子は元気がよかった。背は高いが、5歳ぐらいだろうか。
 乗車するや、活発に動き回っていた。背もたれの上に上がってみたり、やがては天井に近い、荷物置きの棚に上がって腹ばってみたり……。
 父親は、かなり厳しく諭していたが、男児は怯むことなく、乗客の少ない車輌を縦横無尽に動き回っていた。
 かと思うと、一瞬おとなしく、クレヨンを取り出して絵を描いてみたり……。

 始めは、子どもの行動を物珍しく眺めていた。が、三次までこの調子では、少し落ち着かないなと思ったのも束の間、子どもはぱたりと座席に横たわった途端、深い眠りに陥った。見事な熟睡であった。どこでもいつでも、深く眠れるのが子どもなのだろう。
 二時間あまり、微動だにせず、眠り続けた。(写真)
 座席は、快いゆりかごだったのだろうか?
 どんな夢が、坊やの眠りを楽しませていたのやら?
 駅ごとのアナウンスにも、車の振動にも煩わされず、ぐっすり眠る子どもの姿はほほえましくもあり、眠ることの下手な私には、羨ましいことでもあった。

 父親は子どもが静かになると、窓の外の風景をカメラに収めたり、本を読んだり、時折、お休みのわが子に慈愛の視線を注いだりしていた。
 山口方面からの客らしかった。乗車して間もなく、子どもが<新山口>という語を口にしているのが聞こえた。
 山口から三次に行くのなら、新幹線で広島を経由した方が近いはずである。
 私同様、父親が、三江線に乗りたかったのかもしれない。
 人は常に、速さばかりを求めるとは限らないのだ。

 しっかり眠った子どもは、三次到着の20分前、ひとりで眼を覚ました。
 しばらくは、眠りから覚め切れぬ感じだったが、父親に三次はまだかと尋ねたのをきっかけに、急に立ち上がり、運転席の方に歩いた。そして、
 「パパ、今、106キロ」
 と、言っていた。
 走行のキロ数が表示されていたのだろうか。
 なかなか利発な坊やらしい。

 帰宅後、幼子の言っていたキロ数が気になり、時刻表で、三江線の総キロ数を確かめてみた。118.9と記してあった。
 思いの外、短い距離である。
 時間をかけて、ゆっくりと江川沿いをさかのぼる列車は、ローカルカラーを乗客に楽しませ、先を急がぬ旅人には、至福の時間を与えてくれるのであった。

 日本全国のローカル線を旅するのも、案外楽しいことかもしれない……。
 都会の風景はほとんど似ているが、ローカル線には、それぞれ異なる地方の顔がありそうに思える。


            
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