タクシーで、美術館から駅に向かう途中、石川啄木歌碑のあるお宅に立ち寄ってもらった。
石川啄木記念館から送ってもらった資料<全国の啄木碑>によると、<田島家庭園内>にあると、碑の在り処が記してあった。
が、運転手の話では、資料に記してある番地に住んでいる人は、田島ではなく大畠という人だという。
前日、ホテルのフロントで尋ねたとき、地図で確かめ、その番地は田島さんの家になっている、ただこの地図はかなり古いので…? とのことだった。
「ここが、その番地の家です。下りてみますか」
と、運転手に促され、カメラを持って車の外に出た。
表札は「大畠○○」となっており、横に女性の名前が、小さな字体で添えられていた。
やはり住人が変わっていたのだ。
入り口の扉のすぐ傍、小路から見える位置に、その碑はあった。
玄関の横、建物前の狭い庭に。(写真)
たわむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
啄木
と、彫られている。
石の種類も、啄木の歌碑がそこに置かれた理由もよく分からない。
碑の前には数個の鉢があり、その一つには、テイカカズラの、時期を過ぎた花が、哀れげに咲き残っていた。
運転手は、家の人に声をかけた方がいいだろうと、ベルを押してくれた。が、返答はなかった。
「新聞が取り込んでないから、留守なんでしょう」
と、運転手。
碑の写真だけは、無断で撮らせてもらい、家主に会えないのを残念に思いながら、引き上げることにした。
珍客に対し、玄関の右側に繋がれた犬が、神経質そうに吠えた。
犬がいるということは、長い不在ではないらしかった。
旅から帰って、電話局に問い合わせたところ、私の尋ね人は、電話帳に載っていないとのことだった。少し離れたところに大畠姓があるから、そこにつないでみましょうか、とのこと。あるいは親戚関係かも知れないと思い、呼び出しを頼んだが、全く無縁の人だった。 (以上は、28日にまとめたもの。)
先刻、石川啄木記念館から、注文の浅沼秀政著『啄木文学碑紀行』が届いた。
早速、開いてみた。
<広島県三次市・田島庭園の歌碑>として、写真を添えた記事が出ていた。
私の見確かめられなかった≪碑陰≫も、紹介してあった。
昭和六十三年十月 三次 一江 建之
この歌を私たちのそれぞれの
亡き母に捧げる
と。(注 夫妻の名前は並べて彫られている様子)
文字は奥田三次氏のもである、とも書いてあった。
建立当時は、むしろ横長の御影石に彫られていたのを、平成七年六月に、現在の縦長の石に彫り直されたものだという。
奥田夫妻の、それぞれの母堂に対する思いが、啄木の歌に託されたということらしい。碑の由来だけは分かった。
依然として、現在お住まいの大畠氏との関係は不明である。
石川啄木記念館へファックスを送り、先日来、資料や本を送っていただいたお礼に併せ、三次市の啄木碑のある場所が、大畠の表札に変わっていたことを申し添えておいた。
24日、啄木碑を見た後、同じタクシーで三次駅へ。
芸備線で、広島に向かった。
この線を通って、遠い昔、三次に一泊した思い出がある。
三次の馬洗川で行われる鵜飼を見るためであった。
ホテルの人によると、今も四百四十余年の伝統を守って、続けられているとのことだった。
私が訪れたのは、まだホテルのない時代で、泊まった宿はいわゆる旅館であった。
鵜飼を見た夜の、川風が心地よかったこと、川面にゆらぐかがり火に、寂寥と美しさを覚えた記憶がある。
鵜飼いといえば、長良川の鵜飼を見たのが最初だった。
それについで三次。四国の大洲に一泊し、肱川の鵜飼を見たのは、平成の初めごろだったように思う。
芸備線には、三江線のような鄙びたローカルの味がない。風景が平凡である。
岡さんの詩に出てきた府中を通る福塩線の趣はどうなのだろう?
府中の紫陽花寺は、見るに値するのかどうか?
広島で新幹線の乗り継ぎまでの時間、駅前の百貨店<福屋>で過ごした。
食事をしたり、Sサイズのお店を見つけたので、気まぐれにブラウスを求めたりして。
9階が書店になっていて、広いフロアに大量の本が置いてあった。
残念ながら、乗車までの時間が残り少なく、ゆっくり本を手にとることができなかった。
旅の終わりは、山口線。
このローカル線こそは、私の人生で最も利用した路線である。今まで幾度上り下りしたか数え切れないほどである。
やはり味わいのある路線の一つに数えたい。