ぶらぶら人生

心の呟き

8月終わる

2019-08-31 | 身辺雑記
 8月終わる。
 最後の今日になって、初めてバスで街に出る。
 イオン前で妹と待ち合わせて、リバティーで憩う。
 J子さん、AYAちゃんも合流して、一緒に話す。

 妹に、K中の「廃校記念誌」を渡す。
 もう一つ渡しものがあったのに、きれいに忘れてしまった。

     
           コーヒーとケーキ
    (「今日のごほうび」と書かれたケーキをいただく。)

 ケーキが少し大きすぎた。夕食にこたえそうだ。

 午後1時前のバス停で、空を見上げる。
 吹く風も、雲の動きも、秋の気配をはらんでいる。
 予報によると、明日は、また雨になるらしい。

     

     

     


     
            ツユクサ

     
          前回の大雨が運んだ芥

     
          18時30分の落日
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ふふふの読書

2019-08-31 | 身辺雑記
 群ようこさんのエッセイ集『まあまあの日々』は、<カドフェス2019>に選ばれていて、書店の棚に並んでいた。クリアファイルをプレゼントしてもらった。

 日常茶飯の身辺にありがちで、起こりがちなことが話題となっている。
 65歳は、初老というには若すぎる時代になったが、見かけと違って、頭の方は大方の人が、こんなはずではなかったのに………と、悲嘆したり失敗を戯画化して楽しむ年齢ではありそうだ。
 そうした体験に基づく様々な出来事が話題の中心である。
 全く気取りのない書きっぷりが爽やかである。

 ふふふと笑って楽しめるエッセイ集。
 畏まらずに書かれているので、ページを繰るのが楽しみである。
 群ようこさんならではの個性的なエッセイ集でもある。

         

 以前にも、同作者のエッセイを読んだような気がし、書棚を探したら、『ネコの住所録』が見つかった。
 楽しそうなカバーだと眺めた。装幀は南伸坊さん。なるほどと思う。

         

 1993年に出版されている。
 読んだはずだが、内容を仔細に覚えているわけがない。
 幾度読んでもおもしろいのがエッセイである。

 一服の読書として、楽しめる群さんのエッセイ。
 考え方、ものの見方の多様性もおもしろい。
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追慕

2019-08-30 | 身辺雑記
 身辺の断捨離をしたのは、83歳の春から夏にかけてであった。
 そのとき、一部、追慕の念にかられ、捨てかねて処理を保留したものがある。

 遠い過去のことで、日頃は思い出すこともなかった中学高校時代の先生方(といっても、一部の先生。私の場合は11人の先生)にサインをもらっていた。
 (昨日のブログにも書いたことだが、)学校の制度改革の時期で、旧制の中学校、女学校に入学した者のうち、進学を希望する者がそのまま高校生となったので、私の時代は、結果的に中高一貫校で学んだようなものであった。(男子ばかりの中学校、女学校、そして男女共学という変遷はあったけれど……。)
 クラス数が多いので、6年間、同じ先生に教えていただくことはなかったけれど、6年間、あるいは3年以上、同じ学び舎で、共に過ごした先生方は、かなりの数に上る。

 多くの先生方に教えを受け、思い出は様々だが、就中、二人の先生に特に尊敬と憧れの気持ちを抱いた。
 サインをいただくことが、当時の流行りであったかどうかも思い出せない。これでお別れと思うと、さすがに6年間の思い出をとどめておきたい気になったのだろうか。

 しかし、その貴重なサインを、60年近くも、取り出して懐かしむこともなく過ごしてきたのだ。
 人生は、その時々、常に多忙だったということなのかもしれない。そして、老いて、過去を振り返るゆとりが生じたということでもあろうか。

     
            4先生のサイン

 左上は、生物のS先生からいただいたもので、エスペラント語で書かれいる。
 「ものすべて調和せざるものなし」と、その訳がペン書きしてある。
 裏面にまで、紙面いっぱいに文章を書いてくださっている。
 出典は記されていないが、<困難や苦労に直面した時にこそ、努力を惜しむな>という意味のことが書かれていて、「このことばの意味を味わいなさい」と追記してある。
 
 昭和21年に復員され、復職された先生であった。
 敗戦直後であったが、先生は私たち生徒に戦地での体験を語られることはなかった。
 復職なさると同時に、2年2組の担任をされ、私は先生のクラスの一員であった。

 小学校・国民学校では、担任の先生はみな女先生であった。戦時中という状況下では男性の教師は少なかった。
 女学校に入学しても、私のクラス(1年4組)だけは、女先生であった。
 S先生は、担任として接する初めての男の先生だった。
 教科ごとに先生が変わるので、担任だからといって、小学校の時のような親密さがあるわけではない。
 が、私は先生に憧れて生物班(現在の部活動)に入り、放課後を生物室で過ごすのが楽しみであった。

 高校卒業までの5年間、飽きもせず、胴乱を肩にかけて、城山公園へ植物採集に出かけたり、浜辺に群生する植物分布を調べるために、波子の海岸に出かけたり……。
 室内では、顕微鏡をのぞいたり、試験管を使って実験したり……。
 しかし、具体的な成果など思い出せない。
 ただ楽しかった記憶だけである。

 S先生の思い出は尽きない。敬慕の念は終生変わらなかった。
 出雲の地で最期を迎えられた日まで、交流のあった先生である。
 
 右上のサインは、国語のK先生が書いてくださったものである。
 高校の1年2組の時、担任でもあった。
 併設中学校時代から高校卒業まで、現代国語の指導を受けた。
 古典や漢文、文法などは、他の先生が担当だった。

 過去のブログでも、K先生については書いた記憶ががる。
 女性の先生だったが、男女を問わず、憧れを抱いた生徒が多かったのではなかろうか。
 K先生が教壇に立たれるだけで、独特な雰囲気があった。
 理数教科や、国文の分野でも古典や文法に比べ、現代国語は学習の焦点が掴みずらかったが、それでもK先生の授業は魅力的だった。

 サインには、先生の歌が記されている。
    
   霙くる
   窓辺に我思う
   今日よりは
   矜恃に立ちて
   生き抜けおとめ

 と。

 作文の時間は少なかったが、中学校の3年のとき、感想文の課題が出されて文章を書いた。
 国民学校時代、書く作文といえば、「慰問文」ばかりであった。
 <戦地の兵隊さんお元気ですか>で始まり、締めくくりは<銃後は私たちで守ります>で終わる作文を幾度書いたことか。
 (今思えば、戦地へ届くはずもない手紙だったのでは………?)

 久しぶりに書いた作文をK先生にほめらられ、クラスメートの前で、朗読させられた。
 K先生に評価されたことが、とても嬉しかった。
 勉強に時間をかけなくても好結果の得られる理数科や英語などに比べ、国語は勉強の仕方もよく分からず、授業中、先生のお話に耳を傾けるだけであった。
 しかし、K先生との出会いがなかったら、文学への開眼はかなり遅れたに違いない。

 左下は、高校3年6組の担任で、英語を習ったT先生。情熱的な先生だったが、特に惹かれるところはなかった。
 英文科への進学を励ましてくださったが、受験には失敗した。
 書いてくださっているサインは、与謝野晶子の有名な歌である。

   劫初より造り営む殿堂に我も黄金の釘一つ打つ

 与謝野晶子が好きで、かなりの歌を暗誦している。そのなかの一首でもある。

 歌がお好きだったのだろうか? 
 生徒のとのときには見えなかったものを、お持ちになっていたのかもしれない。

 右下は、数学のF先生で、高校卒業まで在職なさっていた。
 が、数学を習ったのは併設中学校の3年生のときだった。
 私自身、数学は得意教科だった。が、先生から特別視されることが嫌だった。一時期、先生に反抗的な態度を取っていた。それは私自身の心に潜む嫌な一面として影を落としていた。
 しかし、卒業の前には挨拶し、サインもいただいた。
 先生はなんのこだわりもないご様子で、励ましの言葉をくださった。
 黒板で見る字は数字がほとんどだったので、サインの美しい筆跡に改めて感心した。
 同時に、人を恕する先生のお心の広さに感動したものである。

 F先生には、後日談がある。
 私が市内で勤めるようになってから、当地のM高校の校長として赴任され、時おりお茶に誘ってくださった。
 駅前に、<ハクセイ>という喫茶店のあった昔の話である。

 高校のクラスは9クラスあったと思う。
 その中のどれだけの生徒が先生方にサインをお願いしたのか知らないが、どちらかといえば消極的な私が、サインをいただいているのだから、当時、それはごく当たり前のことだったのかと思う。
 それに対し、先生方は、なおざりでなく応えてくださっている。
 今よりゆったりした時代だったのだろうか。
 先生も生徒も。

 今はみな故人となられたが、追慕の思いは尽きない。
 静かに、掌を合わせたい。
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海の色、二色になって

2019-08-29 | 身辺雑記
 今日も雨。

 相当な雨量だったのであろう。
 川は濁流となって、海に流れ込んだらしい。
 海面が土色になり、沖のはるかに、いつもの青さが見えるだけの光景となった。
 断然、土色の比率が高い。
 これほどはっきりと二色に仕切られた海を見るのは初めてのことである。

     
      (写真では、沖の青い部分がわかりにくい。)

     
       (空に一部青さがのぞいた時もある。)

 市役所から届いたメールによると、洪水の警報も注意報も解除になったという。
 しかし、大雨警報は続行中。

 今回の大雨により、九州北部にもたらされた被害は甚大である。
 まだ雨は続くという。心配だ。
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また豪雨

2019-08-28 | 身辺雑記
 特に武雄市あたりを中心に豪雨となり、大変な被害が出ているようだ。
 まだしばらくは雨が続くという。

 当地にも、<大雨洪水警報>がずっと出ている。
 が、施設の4階の部屋にいて、本を読んだり、数独を考えたりしていると、雨がどの程度の降り方をしているのか、よほどその気になって外を観察しないと分からない。

 お昼に、テレビニュースを見て、九州の豪雨災害の実情を知り、初めて窓辺に立って外を眺めた。
 雨は小降りであったが、平素はくっきり見える山並みが雲の中に姿を消し、平家山の一部が見えるだけであった。

     


 施設の部屋で暮らすと、朝陽や夕陽など、スケールの大きい光景は楽しめるけれど、四季の移ろいなど、自然の細やかな変化を肌で感じることはできにくい。
 視覚的にはある程度は四季を感じられるが、耳で季節を楽しむことはできにくい。
 ここでは、風の音も、蝉の声も聞こえない。
 散歩に出かけない限り、肌で自然を感じることはできない。
 特に猛暑の8月は。
 今月は、美容室に出かけただけであったように思う。
 朝夕の涼しい時間帯に、外気に触れればよさそうだが、断りなしに出かけるのはなんとなく憚られる。

 ふと、家に帰って、花にくる蝶々を眺めたり、庭の蜘蛛の巣に引っかかったりしたくなる。
 
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戦中戦後の通知表

2019-08-28 | 身辺雑記
 大方のものは処理したと思っていたのに、書斎の机上においている、ケースを開けてみると、大きな茶封筒が出てきた。
 中を確かめると、証書類や通知表が入っていた。

 通知表は、母がまとめておいてくれたものであろうか?

 (私が小学生時代のテスト類や図画などを、母は学年ごとにまとめて保存していた。「もう処理しようね」と言いつつ見せたのは、私が就職してからであった。漢字を書くのに、一本の棒が抜けたり、似て入るけれど、◯はもらえない誤字を平気で書いているテストなども保存されていた。数学だけは得意だったらしく、100点がほとんどだったが、画用紙に残された作品も、全くお粗末なものであった。漢字がいい加減であっても平気なことと、絵画表現の曖昧さは、私の幼い日の共通した欠陥だったのかもしれない。
 記憶はとても曖昧だが、「通知表だけは残しておいたら……」と、そのとき、母から手渡されたような気がする。)

 小学校1年から高校卒業まで、12年間のものが袋に入っていた。
 そこに記されている記録は、昭和14年4月〜昭和26年3月に至る私個人の歩みである。
 と同時に、戦中戦後の時代を映すものとして、興味深く眺めた。
 
 通知表の紙の粗悪さは、ひどいものである。
 特に、昭和19年から24年の紙質は、長い保存に耐えがたいものである。

     

 上掲の写真の、左側にある通知表が、戦後のものである。
 当時は食糧難であったばかりでなく、紙なども全くなかった。ノートも入手できず、戦争の激化する中、閉鎖された缶詰工場の級友から、缶に貼られるはずだった紙をもらい、ノート代わりにした日もあった。
 紙不足の経験から、今なお裏の白い紙を捨てることができない。メモ用紙には使いきれないことが分かっていても、溜め込んでしまう。
 A4用紙の場合は、数独用のマス目をコピーして、大いに利用している。

 群ようこさんの『まあまあの日々』の中に「紙」と題したエッセイがあり、1954年生まれの作者でさえ、裏の白い紙は絶対に捨てられない、と書いておられた。
 <私が育った昭和三十年代は、まだ紙が貴重品だった。>と。
 私の時代は、貴重品どころではなく、紙がなかった!
 それがどれくらいの期間であったかは、記憶が不鮮明である。
 
 用紙を買うお金に窮しているわけではないのに、裏の真っ白な紙を捨てがたい思いは、紙に不自由した体験無くしては生まれないものだと思う。

 私の時代は、学校制度も大きく変わった。
 小学校から国民学校へ。
 県立女学校から県立女学校併設中学校へ。
 県立第2高等学校としてスタートした女子だけの学校は、男女共学の県立高等学校へ。
 
 通知表は、戦中戦後の制度改正で、過渡期を歩んだ記録簿でもある。
 ただ、1学期分だけ成績の無記載がある。(昭和20年、女学校へ入学した年の1学期。)
 入学の日から終戦の日までは、評価ができるほどの学習をしなかったということであろう。
 校庭を耕して芋づくりをしたり、松原湾からバケツで海水を運び、プールで塩作りをしたり、労働に明け暮れた思い出が強い。(お芋や塩ができたかどうかは、全く記憶にないのだが……。)

 それでも、2学期からは勉強ができるようになり、戦争のない自由な時代を生きられたのだから幸せである。
 現代のように、受験勉強に追われることもなく、結構楽しい日々であった。
 そこには戦後ならではの、新鮮な輝きさえあったように思う。

 12年間の通知表に目を通し、記憶というものの曖昧さにも驚いた。
 担任の先生を記憶し違えていたり、クラス名をすっかり忘れていたり。
 中学校のクラスは、<1年4組><2年2組><3年4組>、高校のクラスは、<1年2組><2年3組><3年6組>となっていた。

 先週は家にいて、個人史の一部に触れつつ、多くの時間を過ごしてしまった。
 平素は思い出すこともなかった先生方や友達のことなど、来し方を思いつつ。
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「おばちゃん」と「おばあちゃん」

2019-08-27 | 身辺雑記
 群ようこさんの『まあまあの日々』を読んでいると、ご自分のことを「おばちゃん」と表現されているところが何箇所かあった。
 例えば、
 <きっとこれからも、訳のわからない略語がたくさん出てくるはずだ。もうおばちゃんは追いつくのは無理と、省略英語は潔く諦めたのだった。>(題・「省略英語」)
 という具合に。
 このエッセイに登場の省略英語は、<OS>と<HN>と<BAさん>であった。

 群さんは、1954年生まれの65歳くらい。
 65歳なら、孫のいる人もあるだろう。が、今の65歳はみな若々しく、「おばあちゃん」とは呼びづらい。

 私など、86歳の今も、子どもに話しかけるとき、「おばちゃんにも見せて」とか「おばちゃんに教えて」とか、<あ>抜きで言っている。
 子どもたちは、内心、「おばあちゃんでしょ」と思っているのかもしれない。
 自分に孫がいないせいもあって、老女になっても、自らを「おばあちゃん」という習慣が育たないままだ。

 お隣の中学3年生の男の子が、九九の勉強を習い始めたころのこと、
 「おばちゃん、九九言える?」
 と、庭先で会ったとき尋ねた。
 「五の段、言ってみて!」
 と、一番やさしい段をテストされた。

 今なら、私に、なんと呼びかけるだろう?
 よく挨拶する少年だが、「おばちゃん」とも「おばあちゃん」とも言わないで、半ばはにかみながら頭を下げている。
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ミニ薔薇

2019-08-23 | 寸感
 生きている証のように、花壇の小さな薔薇の木に、1センチにも満たない花が咲いた。
 それはそれで美しい。

 生きている証に、私は何をしているのだろう?
 ただ老醜をさらしているだけではあるまいか? と、ピンク色の花を眺めながら思う。

     
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樹木希林さん

2019-08-22 | 身辺雑記
 樹木希林さんに関する本(下の写真)を、先日来今日にかけて、2冊読んだ。
 いずれも、対談やインタビューを収録したものである。
 私はテレビドラマや映画をほとんど見ないので、女優として出演されている樹木希林さんについてはほとんど知らない。
 が、晩年は、全身ガンを患いながらも、老婆役として個性的な活躍をされたことについては、新聞記事などで知っている。

 この本を通して、女優としてだけでなく、ひとりの人間としての樹木希林さんにも出会うことができた。
 際立った個性の持ち主である。

 『この世を生き切る醍醐味』の最後は、
 <…いまなら自信を持ってこう言えるわ。今日までの人生、上出来でございました。これにて、おいとまいたします。>
 と。

 羨ましい人生の幕引きである。

     
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休養日

2019-08-21 | 身辺雑記
 このところ、ものが美味しく食べられると、調子にのって食べていたら、どうも食べ過ぎてしまったらしい。
 昨夕来、ものが欲しくなくなった。それだけでなく、どうも胃の具合も悪い。
 昨夜も今朝も、胃腸薬を飲んだ。

 今日も、まだ食べものがほしくない。
 が、最低の食事を自らに課す。
 老いると、食すことさえ、結構努力が必要だ。

 よく食べていたら、体重が1キロ増えたと喜んだが、胃を損ねては何にもならない。
 老いの胃袋に合ったように食べるしかない。

 そんなことで、今日は休養日。
 友達から便りをが届いたので、返信のハガキに添える花として、庭に咲き続ける桔梗の写真を撮った。
 そして、ハガキを認めた。

     
       二つの花の間に、袋状の蕾も付いている。
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