身辺の断捨離をしたのは、83歳の春から夏にかけてであった。
そのとき、一部、追慕の念にかられ、捨てかねて処理を保留したものがある。
遠い過去のことで、日頃は思い出すこともなかった中学高校時代の先生方(といっても、一部の先生。私の場合は11人の先生)にサインをもらっていた。
(昨日のブログにも書いたことだが、)学校の制度改革の時期で、旧制の中学校、女学校に入学した者のうち、進学を希望する者がそのまま高校生となったので、私の時代は、結果的に中高一貫校で学んだようなものであった。(男子ばかりの中学校、女学校、そして男女共学という変遷はあったけれど……。)
クラス数が多いので、6年間、同じ先生に教えていただくことはなかったけれど、6年間、あるいは3年以上、同じ学び舎で、共に過ごした先生方は、かなりの数に上る。
多くの先生方に教えを受け、思い出は様々だが、就中、二人の先生に特に尊敬と憧れの気持ちを抱いた。
サインをいただくことが、当時の流行りであったかどうかも思い出せない。これでお別れと思うと、さすがに6年間の思い出をとどめておきたい気になったのだろうか。
しかし、その貴重なサインを、60年近くも、取り出して懐かしむこともなく過ごしてきたのだ。
人生は、その時々、常に多忙だったということなのかもしれない。そして、老いて、過去を振り返るゆとりが生じたということでもあろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c5/fa5a139cd3d1cc8dc9bd7131170eb2c6.jpg)
4先生のサイン
左上は、生物のS先生からいただいたもので、エスペラント語で書かれいる。
「ものすべて調和せざるものなし」と、その訳がペン書きしてある。
裏面にまで、紙面いっぱいに文章を書いてくださっている。
出典は記されていないが、<困難や苦労に直面した時にこそ、努力を惜しむな>という意味のことが書かれていて、「このことばの意味を味わいなさい」と追記してある。
昭和21年に復員され、復職された先生であった。
敗戦直後であったが、先生は私たち生徒に戦地での体験を語られることはなかった。
復職なさると同時に、2年2組の担任をされ、私は先生のクラスの一員であった。
小学校・国民学校では、担任の先生はみな女先生であった。戦時中という状況下では男性の教師は少なかった。
女学校に入学しても、私のクラス(1年4組)だけは、女先生であった。
S先生は、担任として接する初めての男の先生だった。
教科ごとに先生が変わるので、担任だからといって、小学校の時のような親密さがあるわけではない。
が、私は先生に憧れて生物班(現在の部活動)に入り、放課後を生物室で過ごすのが楽しみであった。
高校卒業までの5年間、飽きもせず、胴乱を肩にかけて、城山公園へ植物採集に出かけたり、浜辺に群生する植物分布を調べるために、波子の海岸に出かけたり……。
室内では、顕微鏡をのぞいたり、試験管を使って実験したり……。
しかし、具体的な成果など思い出せない。
ただ楽しかった記憶だけである。
S先生の思い出は尽きない。敬慕の念は終生変わらなかった。
出雲の地で最期を迎えられた日まで、交流のあった先生である。
右上のサインは、国語のK先生が書いてくださったものである。
高校の1年2組の時、担任でもあった。
併設中学校時代から高校卒業まで、現代国語の指導を受けた。
古典や漢文、文法などは、他の先生が担当だった。
過去のブログでも、K先生については書いた記憶ががる。
女性の先生だったが、男女を問わず、憧れを抱いた生徒が多かったのではなかろうか。
K先生が教壇に立たれるだけで、独特な雰囲気があった。
理数教科や、国文の分野でも古典や文法に比べ、現代国語は学習の焦点が掴みずらかったが、それでもK先生の授業は魅力的だった。
サインには、先生の歌が記されている。
霙くる
窓辺に我思う
今日よりは
矜恃に立ちて
生き抜けおとめ
と。
作文の時間は少なかったが、中学校の3年のとき、感想文の課題が出されて文章を書いた。
国民学校時代、書く作文といえば、「慰問文」ばかりであった。
<戦地の兵隊さんお元気ですか>で始まり、締めくくりは<銃後は私たちで守ります>で終わる作文を幾度書いたことか。
(今思えば、戦地へ届くはずもない手紙だったのでは………?)
久しぶりに書いた作文をK先生にほめらられ、クラスメートの前で、朗読させられた。
K先生に評価されたことが、とても嬉しかった。
勉強に時間をかけなくても好結果の得られる理数科や英語などに比べ、国語は勉強の仕方もよく分からず、授業中、先生のお話に耳を傾けるだけであった。
しかし、K先生との出会いがなかったら、文学への開眼はかなり遅れたに違いない。
左下は、高校3年6組の担任で、英語を習ったT先生。情熱的な先生だったが、特に惹かれるところはなかった。
英文科への進学を励ましてくださったが、受験には失敗した。
書いてくださっているサインは、与謝野晶子の有名な歌である。
劫初より造り営む殿堂に我も黄金の釘一つ打つ
与謝野晶子が好きで、かなりの歌を暗誦している。そのなかの一首でもある。
歌がお好きだったのだろうか?
生徒のとのときには見えなかったものを、お持ちになっていたのかもしれない。
右下は、数学のF先生で、高校卒業まで在職なさっていた。
が、数学を習ったのは併設中学校の3年生のときだった。
私自身、数学は得意教科だった。が、先生から特別視されることが嫌だった。一時期、先生に反抗的な態度を取っていた。それは私自身の心に潜む嫌な一面として影を落としていた。
しかし、卒業の前には挨拶し、サインもいただいた。
先生はなんのこだわりもないご様子で、励ましの言葉をくださった。
黒板で見る字は数字がほとんどだったので、サインの美しい筆跡に改めて感心した。
同時に、人を恕する先生のお心の広さに感動したものである。
F先生には、後日談がある。
私が市内で勤めるようになってから、当地のM高校の校長として赴任され、時おりお茶に誘ってくださった。
駅前に、<ハクセイ>という喫茶店のあった昔の話である。
高校のクラスは9クラスあったと思う。
その中のどれだけの生徒が先生方にサインをお願いしたのか知らないが、どちらかといえば消極的な私が、サインをいただいているのだから、当時、それはごく当たり前のことだったのかと思う。
それに対し、先生方は、なおざりでなく応えてくださっている。
今よりゆったりした時代だったのだろうか。
先生も生徒も。
今はみな故人となられたが、追慕の思いは尽きない。
静かに、掌を合わせたい。