ぶらぶら人生

心の呟き

今日は「昭和の日」

2009-04-29 | 身辺雑記
 今日は祝日の「昭和の日」だとか。
 「天皇誕生日」と呼ばれた祝日が、「緑の日」に変わり、そして今は「昭和の日」というらしい。
 いつそうなったのか?
 「緑の日」へ移行したのは、平成の初めだろうと想像できるが、「昭和の日」になった時期を思い出せない。
 休日が特別の日でなくなってからは、関心が薄れてしまったらしい。勤めていた当時は待たれる休日であったが、今は毎日が休日なので、祝日の意義など考えたこともない。
 カレンダーの数字が、日曜と同じ赤で記されているから休日だと思っているに過ぎない。「昭和の日」も、憲法記念日などのように、何か行事があるのかどうか?

 英会話の載った日めくりカレンダーに、

 A:What is the Day of Showa ?
 B:It is a time to reflect on the turbulent Showa period.

 と、AとBの対話が記されていて、なるほどと思った次第である。
 昭和は、確かに<激動の時代>であった。戦前戦後と、様々な体験をしてきた。
 カレンダーにより、昭和を私の人生と重ねて、来し方をふりかえる日となった。

 定年を待たずに職を辞したのは、平成元年の春。
 いたって区切りのいい時に、辞めたものだ。
 平成は、私の人生にとっては長き晩年。幾人かの、生きている喜びに通じる出会いもあったが、総じて、近親、知己、仲間などとの死別に多く遭遇し、喪失感の中を漂ってきたような気もする。
 この平成も、平穏な時勢というには問題が多く、生き辛い世の中だ。
 ここ数日は、豚インフルエンザ騒動も起こっている。
 残念なことだが、なかなか無事泰平というわけにはいかない。
 

(せめて、無心に咲く花を眺めて、心を慰めよう。
 写真の牡丹は、もう10年以上も前に、友達からいただいた大根島産である。
 今年も律儀に、一つだけ花をつけた。
 貴重な一輪である。)                

              

二つの美術展(ガラス絵展と中尾彰展)

2009-04-29 | 身辺雑記
 山口へ行った折(22日)、井筒屋に寄り、5階で開催中の<魅惑のガラス絵展>を見た。(写真①)
 一室にまとめて並べられたガラス絵を見るのは初めてだった。
 案内のはがきには、<魅惑のガラス絵展>の前に、「現代油絵人気作家による」と添え書きがある。
 ガラス絵のみを描く画家がいるのかどうか?
 会場には、10数人の作家の作品が展示してあった。抜きん出たガラス絵画家が誰であるか、私には分からない。
 ただ印象としては、深沢幸雄の作品が目を引いた。画面に漂う繊細な美しさが、私の好みに合っていただけかもしれない。
 板ガラスに描く面白さ、難しさなど、技法上のこともよく知らない。
 油絵作家が、キャンバスを選ばず、ガラスに描く意図は、どんなところにあるのだろう?
 疑問は尽きないが、思いがけず接する機会を得たガラス絵の世界を、ひと時楽しんだ。



 島根県立石見美術館で開催中の<中尾彰 ―津和野・東京・蓼科― 展>も見てきた。(写真②)
 中尾彰の作品は、津和野の杜塾美術館で、過去に数度、その作品を見ている。
 今回の展示は、中尾彰氏の生涯にわたる作品を展示し、初期の作風から晩年への変遷が辿れるように紹介してある。
 中尾彰氏といえば、色も形もほんわかとした作風が思い浮かぶ。色彩は明るい緑や黄褐色が印象的である。が、初期の作品には、私のイメージとは異なるものもあり、私の知らなかった一面を見ることができた。
 絵本や挿絵の展示もあり、中尾彰の世界を総合的に紹介する展示となっている。

 わが家の洋間の壁には、中尾彰氏の一枚の絵がかかっている。
 青野山の絵である。
 童話「おかいてぶくろ」の一冊も持っている。
 いずれも、中尾彰氏と親交のあったMさんからいただいたものである。
 中尾彰氏は、長い間、「日暦」の表紙絵を描かれ、誌上に詩文を発表されていた。その幾冊かを見せてくださったのもMさんだった。

 私は、絵画作品以上に、その詩文が気に入っている。
 私の蔵書<日本の名随筆 20「冬」>には、中尾彰氏の『冬いちご・風花』が載っている。いずれも、幼い日を過ごした津和野を懐かしんで書かれた文章である。

 <冬木立の中の朱い実と町の灯の色がむすびついて私の中で、冬いちごは津和野のもの、となった。>
 <津和野の冬には、いつも風花が舞っているような気がしてならない。>
 などと、その随筆の中には書かれている。

 詩文の中に潜在する中尾彰氏の詩情は、絵画の背景にも流れているように思う。

 (この日は久しぶりに、グラントワの<ポニー>で、友人と食事した。)  

      ①

                  ②    

スーザン邸の庭

2009-04-27 | 身辺雑記
 昼食を終えても、スーザンさんの姿がなかった。
 今日は朝から気になっている出来事もあり、草花舎の客も多いので、私は長居をやめて辞去することにした。
 「スーザンさんによろしく」
 と、Tちゃんに伝えて。
 
 Tちゃんは、スーザンざんの到着の遅さを気にし、電話して下さった。
 やりかけの花畑の仕事が終わらないらしい。
 「庭仕事中のようだから、ちょっと寄ってみられたら…」
 Tちゃんにそう言われ、スーザンさんに会って、しばらくのお別れをしてくることにした。会話は不自由でも、気持ちを伝えることは可能だからと思いつつ。
 セネガルへの出発は29日で、帰られるのは来月の20日過ぎだという。
 

 果たして、スーザンさんは庭で、花の苗を植えておられた。
 私の庭と大違いである。相変わらず草取りもせず、計画性のない私の庭の騒々しさに比べ、スーザン邸の庭は、住人の人柄を表現している。
 写真を撮らせてもらった。
 写真①は、スーザンさんのダンス場。
 芝が敷かれ、その周りが白い小石で仕切ってある。
 木漏れ日が、庭に模様を描いていた。

 スーザンさん好みの花や照明器具が幾箇所かに置かれている。(写真②~④)
 異国の人の庭が、より日本的なのが面白い。

      ①

                ②

      ③

                ④

      ⑤

 スーザンさんは、植え残っていたネモフィラ(写真②)を短く切って、手渡してくださった。さらにダンス場の周りの小石を3個。
 持ち帰った花を花瓶に挿し、小石をその前に並べた。(写真⑥) 

                ⑥

 スーザンさんは、赤道に近いセネガルで、2週間ほど、ダンスの振付の指導に当たられる。そのため、29日に発たれるのだ。
 「ではまた!」
 と、いつものように言葉を交わしてお別れした。
 体力と精神力のいるお仕事であろうけれど、スーザンさんは難なくやり遂げられるに違いない。
 元気でお帰りになる日を待ち、土産話を聞けるのを楽しみにしていよう。 

4月の庭 (ナニワイバラも、咲いた)

2009-04-27 | 草花舎の四季
 今日は月曜日のならいで、スーザンさんと昼食を共にすることになっていた。
 が、お昼過ぎ、Tちゃんから電話があった。
 スーザンさんはセネガルへの旅立ちの日が近く、心忙しいらしく、食事はやめてお茶だけ飲みに来られる、と。

 局へ立ち寄った後、私は予定通り、草花舎へ出かけた。
 庭の花を眺め、お昼のカレーライスをいただくために。
 
 草花舎の国道側に、二色の躑躅が咲いていた。(写真①②)
 今は、躑躅の季節。あちこちに咲き満ち、一つ一つの花が大きいだけ、華やぎを広げている。  

       ① 

                 ②

 入り口に向かうと、ナニワイバラの白い花が目に飛び込んできた。
 今年も突如、溢れるように咲いた。(写真③)
 つる性なので、周りの木々にまではびこっている。桜の木にも、花水木にも。
 共生を楽しんでいるかのように、花水木の赤い花に戯れていた。(写真④)

       ③

                 ④

 モッコウバラは淡黄色の花(過日、写真を添えて既述)と思い込んでいた。
 白い花もあることを知らずに。
 Yさんにその名を尋ね、モッコウバラの色違いだと分かった。
 淡黄色の旺盛な繁殖力に比べ、白い花は非力のようだ。それだけに、楚々とした咲き具合が、控え目で美しい。

       ⑤

 草花舎入り口前の鉢に、見慣れぬ白い花が咲いていた。
 新参者らしく、鉢には札が添えてあった。
 <フランネルフラワー フェアリーホワイト>と。(写真⑥)
 花芯が目立ち、細長い花弁が七枚というのも、この花の特色らしい。

                 ⑥

 <ペチュニア>の種類は多いようだ。
 大きさと花色で勝負! と言わぬばかりに、鮮やかなペチュニアが咲いていた。(写真⑦)
 庭が広いので、一向に不自然さもなく、居場所を得ていた……。

      ⑦

山口へ (新緑と林檎の花)

2009-04-26 | 旅日記
 先日(22日)、友人の車で山口に出かけた。
 その途次、車窓に、新緑で盛り上がる春山の、生き生きとした旺盛な姿を眺めた。この季節、山々は刻一刻、変化している感じである。行きと帰りでは、山容の重量感が違って見えるほどであった。
 常緑樹を縫って、新緑は、濃淡様々な色に塗り分けられていた。
 毎年のことだが、新緑の山は、紅葉に劣らず美しいと思う。

 途中にある徳佐のリンゴ園には、木々が花を咲かせていた。
 車窓からでも、リンゴの花々の気配を遠景としてなら眺められる。が、一つ一つの花の風情は分からない。
 そこで、国道脇に車を止めてもらって、リンゴ園を覗いてみた。
 すでに地面には、散り落ちた花びらもあった。
 ほのかな紅色を帯びた、可憐な花を眺めているうちに、島崎藤村の<初恋>詩を思い出した。

  まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の
  花ある君と思ひけり

 少女のころ、詩に親しんだ最初は、藤村の詩であったように思う。
 島崎藤村の詩は定型詩である。
 <初恋>のような七五調、<千曲川旅情の歌>などの五七調、いずれも、口ずさむのに快く、ひとりでに覚えられたようだ。
 詩の意味する真意は分からないままに、諳んじていたのだろう。

 久しく島崎藤村の詩を口ずさむこともなかった。
 この日、林檎畑に立ち寄ったことで、藤村の詩や少女時代を思い出したのだった。

 林檎の花は、種類によって、色や形が異なるのだろうけれど、徳佐林檎の種類が、なんであるかは知らない。
 蕾は深紅に近い。その蕾が開花すると、花弁にほのかな紅を残し、白の勝った花となるようだ。(写真①②)
 
 酸味の苦手な私は、今のところ、王林が一番好みに合っている。ただ、色が林檎らしくない。以前、印度林檎と呼ばれる種類が店頭に並んでいたころは、色も味も好みに合っていたのだが、最近見かけなくなった。
 歯ごたえがやさしく、酸味の乏しい、甘味の多い林檎が好きというのは、本当の林檎好きとはいえないのかもしれないけれど。

 林檎畑の傍には、大木が地味な花を鎖のように垂らしていた。(写真③)
 コナラではないかと思う。

 何鳥か分からないが、リンゴ園やコナラ?のある丘には、鳥の声が満ちていた。数百の鳥が潜んでいそうな賑わいであった。が、その姿を見ることはできなかった。
 植物だけでなく、動物たちの世界にも、春はたけなわである。 

      ①
 
                ②

      ③

白い花々と藤の花

2009-04-21 | 身辺雑記
 今日は、病院と美容院に出かけた。
 その間、美しい白い花に三つも出会った。
 鉢植えのナンジャモンジャ。(写真①)
 中華料理屋の前に置いてあった。

 S 美容院に向かって歩いているとき、やはり鉢植えの白い花の木を見た。(写真②)
 名前が分からない。エゴノキ科の木ではあるまいか?

 同じ白い花でも、趣が異なるのが面白い。

 S 美容室には、白いバラが活けてあった。(写真③)
 造化の美。
 その横には、若々しい花房が、格好よく放射状に伸びた藤の鉢も、置かれていた。(写真④)

      ①

                ②

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                ④
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4月の庭  (花水木の咲く草花舎)

2009-04-20 | 草花舎の四季
 大変な遠回りをして、スーザンさんと私は、草花舎に着いた。
 いつもの時間を過ぎても、私が草花舎に顔を見せないので、心配をかけたらしい。
 Tちゃんから、
 「二度も電話したんですよ。ブログまで調べたりして……」
 と、言われた。
 ぶっ倒れているのではないかと、心配をしてもらったようだ。
 迷惑をかけてしまった。
 
 石州和紙会館のAさんが来ておられ、3人で一緒に食事をした。
 先日(18日)、NHKの<おはよう中国>の「ヒューマンレポート」で、スーザンさんが紹介された。その番組が話題となった。
 5分の番組が実に要領よく編集されていた。スーザンさんの来し方、若き日のダンサーとしての活躍から振り付け家としての現在までを、映像を通してうまく編集してあった。最近のフランス公演の様子まで。
 つねに前に向かって生き続ける芸術家スーザンさんの姿勢(内面)に至るまで……。
 3日間にわたるインタビューや撮影は大変だった様子だが、その豊富な内容がうまく凝縮されていた。
 私は、翌日のNHK「日曜美術館」で紹介された陶芸家ルーシー・リー(1902~1995)が、陶芸に注ぐ芸術家の、前へ前へと生き続ける姿を見ながら、スーザンさんを重ねていた。すぐれた芸術家の歩む姿勢の共通性を感じながら。
 芸術には、これでいいという限界はないのだ。自らに限界を設けたとき、その芸術家の新しさや進歩は望めないであろう。

 Aさんは先週、徳島の田舎(阿波和紙伝統産業会館)で開催中の<Tree Peaple 木の人々>を見てこられ、その感想を聞かせてくださった。
 フィンランドの写真家と徳島在住の美術家、楡木令子さんによるインスタレーションは、感動をもたらすものであった様子である。
 もう少し便利なところなら、出かけて見たいのだが…。しかし、自然のたっぷりある場所での展覧会に、深い意味があるのかもしれない。
(楡木さんには以前、草花舎でお会いし、ブログに感想を記したことがある。)


 草花舎の花水木が、今、最も美しい。(写真①②)
 今日は建物を背景として、カメラに収めてみた。草花舎の雰囲気を少しは伝え得ているだろうか?
 入り口のモッコウバラも、今、淡黄色を盛り上がらせている。(写真③)
 群生したイキシャも、横庭に咲き満ちていた。(写真④)

 今日は草花舎で、若きパン職人 I さんにもお会いした。
 今後、彼のパンをいただくことになるだろう。 
 

      ①

                  ②

      ③

                  ④

スーザンさんと 2  (人形と面)

2009-04-20 | 身辺雑記
 国道わきの歩道をスーザンさんと並んで歩いていると、後ろから呼び止められた。ふり返ると、さっき田圃で耕運機を使っておられた老農夫である。
 「これを使ってください」
 と、緑のビニール袋に入った箱を手渡された。
 「眼鏡立てにでも、なんにでも、役に立つと思います」
 と、言葉を足して……。
 千代紙の貼られたきれいな箱は、内部が十字に仕切られている。(写真①)

 老農夫はさらに、
 「人形も見てください。家はすぐそこだから……」
 と、唐突に私たちを誘われた。
 国道のすぐ傍に、その住まいはあった。
 昔風の家には、珍しく土間があり、その棚や壁に、八岐大蛇(写真②)を始め、色々な手づくり人形や能面が飾られていた。(写真③~⑦)
 老農夫とは初対面であった。
 その名はJさん。
 大正生まれの86歳だが、田圃も作るし、人形作りもしていると、自己紹介をされた。

 「あれは、烏天狗」
 Jさんの指さされた先には、鮮やかな緑の面が飾られていた。(写真⑥)
 「カラス?!」
 スーザンさんは目を丸くされた。
 過日、<カラス>と題したダンスを創作し、踊られたばかりである。カラスは、スーザンさんの友達でもある。
 私は烏天狗の由来を知らない。
 今日に限って、電子辞書をカバンに入れ忘れ、その場で調べようもなかった。

 Jさんにお礼を言って辞去し、草花舎に向かった。
 Tちゃんに、<烏天狗>の話をすると、早速インターネットで調べてくださった。
 「いわゆる天狗の、それ以前に存在したものらしいですよ」
 と、教えてくださった。
 深山に棲息して、神通力を持つという想像上の怪物にも歴史があるらしい。
 天狗とは、顔面が赤く鼻の高い姿で象徴されるもの、とばかり思い込んでいたのだが……。

 田植え前の田圃を見に出かけたのがもとで、今日は思いがけぬ出会いがあった。

      ①

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      ⑦

スーザンさんと 1  (田圃を眺めて)

2009-04-20 | 身辺雑記
 家を出たときは、1時を10分ばかり過ぎていた。
 今日は、スーザンさんと、草花舎で食事を一緒にすることにしていたのだ。
 夜型のスーザンさんは起床が遅いらしく、そのせいもあるのか、草花舎へは私が大抵先に着き、庭を散策して待つことが多い。
 今日も、私の方が先に着くだろうと思っていた。
 ところが、家を出て間もなく、近所の人から、
 「駅前で、スーザンさんを見かけましたよ」
 と、告げられた。
 私の方が遅すぎたのだ。急ぎ足で国道を歩いた。
 駅前まで行ったとき、遥かにスーザンさんの後ろ姿を見かけた。その姿は、草花舎よりは向こうにあった。どうやら郵便局に用事があるらしい。
 私も、局に寄る用があったので、スーザンさんの後を追って、草花舎の前を通り過ぎ、局へ向かって急いだ。

 果して、スーザンさんは局で郵便物の発送を依頼中だった。
 私が振込みを済ませるの待ってもらい、一緒に外に出た。

 草花舎に向かっている途中、スーザンさんは突然、草花舎とは反対側の歩道へ私を誘われた。国道脇の空き地から、田圃を眺めたかったのだ。
 草地に佇むと、一番手前の田圃では、耕運機が行きつ戻りつしながら、代掻き中であった。
 スーザンさんと私は、耕運機を操る男性に遠くから会釈を送った。
 代掻きのほぼ終わった水の面には、さかさまの風景が揺らいでいた。(写真①)
 
 そこからでは、段差を持ちながら上に向かって耕されている水田の、その情景を眺めにくい。
 私たちは少し引き返して、山側に通じる小径を辿った。少し高手から田圃風景を眺めるために。
 写真の②③は、そこから眺めた田園の光景である。
 ③には、耕運機を使っている人の姿も、小さく見える。

 私にとっては極めて平凡で見慣れた光景を、スーザンさんは、感嘆の思いで眺めておられた。彼女には、こうしたいかにも日本的な田舎の眺めが気に入っているらしい。
 棚田というほどではないけれど、高手から見ると、田圃の高低がよく分かる。
 平地からはよく分からなかった段差を確かめることができた。
 田圃は、明らかに四段をなしている。

 道々、場に応じて、会話とも言えぬ簡単な言葉を交わしながら、草花舎に向かって、ゆるやかな坂道を下った。
 見慣れた光景とはいいながら、私にとっても、田圃風景を眺めるのは久しぶりのことだった。
 おそらくスーザンさんの眼は、ただ異国の田舎の光景を楽しむだけでなく、絶えず創作と結びついた思考が頭をめぐっていたに違いない。

      ①

                  ②

       ③

高島野十郎の二冊

2009-04-19 | 身辺雑記
 ATさんから、高島野十郎に関する二冊の本をお借りしたのは、いつだったろう?
 草花舎で、多田茂治著『野十郎の炎』を借りて読んだり、図録を見たりして、ブログを書いた後だったから、3月初旬のころだったかもしれない。
 画集を見るのも評伝を読むのも、とっくに終えていたのに、ブログへの掲載に手間取ってしまった。
 今日は簡単に記録を残し、永らくお借りしていた本をお返ししよう。

 『高野野十郎画集 <作品と遺稿>』(監修=川崎浹・西本匡伸)
 『過激な隠遁 高野野十郎評伝』(川崎浹著)
 いずれも求龍堂刊。(写真)
 二冊とも、装丁のしっかりした立派な本である。

 画集には、今まで見たことのなかった作品も含まれており、野十郎の世界を広げることができた。遺稿や解説・年譜も添えられて、丁寧に編集してある。
 
 著者の川崎浹氏(1930年生まれ)は、若き日に偶然高野野十郎(1890~1975)に会い、親交を深めた経歴をもつ人である。出身が同県であることも、二人を接近させる遠因でもあったのだろう。
 それにしても、出会いとは、不思議なものである。

 <私がはじめて高野野十郎に遇ったのは、大学院に進学した昭和二十九年(1954)の十月十五日である。詩人や、建築を学んでいた友人と三人で秩父の山歩きをしたおり、あるバス停で、小脇にスケッチブックを抱えた背広姿の紳士と立ち話をした。話し好きの友人がなにかと言葉を交わし相手がまだ世間ずれしていない若者たちなので、紳士の口もとも自然にほころんだのだろう。初老にしてはわかわかしく、やや長身の、いまでいうかっこういい人だった。>

 と、筆者は最初の出会いを記している。
 筆者が24歳、野十郎が64歳の出会いである。

 不思議な縁は、その後にも続く。
 ひと月後に、また出会いの日が訪れる。
 11月14日、場所は上野の国立博物館。
 そこで開催中のルーブル美術館展を見に行った筆者が、長蛇の列に並んでいるとき、入り口から出てきた野十郎に会ったのだ。

 <二度あることは三度>の例えどおり、出会いはそれにとどまらなかった。
 翌30年の春、筆者が渋谷のゴヤ美術展に出かけたとき、またも野十郎に遇っている。その折、アトリエに誘われたことにより、以来、親子以上に年の隔たる二人の交わりが始まったのだ。
 不思議な奇縁である。
 人の一生には、時に、こうした不思議な縁がある。

 前回読んだ多田茂治氏の<野十郎論>が、調査や研究、考察に基づいて生まれたすぐれた著作であるのに対し、山崎浹氏の場合は、直接親交のあった人にしか書けない野十郎が描かれているところに特色がある。
 『過激な隠遁』の題名に託された<過激>の意味するものも、実在の野十郎に接していればこそ、見えてくる世界であると思った。

 高野野十郎は、東京郊外に進出する企業との闘いを主題に『小説 なりゆくなれのはて』を書き、それを筆者に見せている。
 昭和42年(1977)から45年(1970)にかけて、立ち退きを命ずる企業との間にすざまじい闘いのあったことは、『野十郎の炎』にも取り上げられていた。そのときも、画家の闘争心の激しさに驚きを覚えた。
 今回はさらい如実に、野十郎の闘いの様子や心の葛藤が詳述されていて、私の全く個人的感情からいえば、そこまで知らない方がいいような気さえしたのだった。
 私はただ、高島野十郎の絵に関心を寄せ、惹かれ続けているだけいいような気がして…。
 野十郎の書き残した小説と、蝋燭を始めてとする絵画作品に潜む静謐な世界とが、私の中でうまく結びつかないのだった。
 人間はそれほど複雑怪奇なものなのだろう、とも思いながら、野十郎の印象がいささか壊されたような気がしたのだった。
 しかし、考えて見ると、野十郎は非凡な人である。
 筆者は、その常識では片付けられない野十郎の<過激な>一面を、これも野十郎の生き方として、書かずにはおれなかったのであろう。
 開発によって、彼の愛した睡蓮の池や命ある動植物など、すべてが失われることへの怒りの表現と思えば、あの過激さも理解できなくはないのだが…。
 それにしても、という思いが、今でもなかなか拭いがたいのだが…。

 第八章 <晩年 柏のアトリエ>の最後に、筆者が野十郎の『ノート』から引用した短歌は、私の好きな歌なので、書き留めておこう。

 < 花は散り世はこともなくひたすらに
   ただあかあかと陽は照りてあり  >
 
 川崎浹氏の『過激な隠遁』が、高野野十郎を知る上で、すぐれた評伝であることには間違いない。
 
       ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 今日の読売新聞<本 よみうり堂>のページに、『甲斐庄楠音画集』の発行されたことが、一枚の絵を添えて紹介してあった。
 大正時代の京都画壇で活躍した画家、甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)の本格的な画集を出版したのは求龍堂。
 出版社に触れた文中に、高島野十郎の名が出てきた。

 <人知れず写実を突き詰めた高島と甲斐庄とはおよそ似ていないが、こうとしかいきられなかった、描けなかった一点で共通するかもしれない。>
 と。
 確かに、そうした独特な個性を二人の画家は持っていたのだろう。