ぶらぶら人生

心の呟き

ひろ さちや著『「狂い」のすすめ』

2007-07-15 | 身辺雑記

 <ひろ さちや>の名前は、書店の棚や、広告のページで目にしながら、その著書を今まで手にすることはなかった。
 先日、山口の文栄堂で、『「狂い」のすすめ』という題名に惹かれて手にとってみた。目次をみると、
 Ⅰ 「狂い」のすすめ
 Ⅱ 人生は無意味
 Ⅲ 人間は孤独
 Ⅳ 「遊び」のすすめ
 と、なっている。章ごとの見出しを見ただけでも、人の世を生きる息苦しさから、スーと解放されそうな気分になった。
 予想に反しない書であった。
 ちょっと変わった、いささか奇抜な題名は、『閑吟集』(室町時代後期に編纂された歌謡集)の、
 《何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ》
 
の考え方によるようだ。
 <ともあれ、人生は夢です。だとすれば、まじめに生きるに値しません。いや、まじめに生きてもいいのですよ。でも、まじめに生きねばならないと、それこそ糞まじめに考える必要はない。そういう自己拘束をやめにしませんか。『閑吟集』はそう提言しているのです。
 いいですね。わたしはこの歌が大好きです。そして、わたしはこれを、
 ――「ただ狂え」の哲学――
 と名づけています。この哲学でもって世間と闘ってみましょう。そうすると、きっと視界が開けてくるだろうと思います。>

 
そして、常識にとらわれない自由人になることをすすめ、『閑吟集』の前句に相通じる、一休禅師(一休宗純・室町時代の禅僧)の道歌を挙げている。

 《生れては死ぬるなりけりおしなべて
   釈迦も達磨も猫も杓子も》
 《世の中は食うてはこ(室内用の便器)してねて起きて
   さてそのあとは死ぬるばかりよ》
 <一休禅師は「風狂の禅者」でした。狂った時代にあって狂った生き方を選んだ一休は、だから自由人であったのです。世間が押し付けてくる道徳なんかに囚われることなく、自由にのびのびと、そしてあっけらかんと生きています。わたしたちも、ちょっと一休禅師の爪の垢でも煎じて飲みましょうよ。一休禅師のような立派な「狂者」にはなれなくても、「狂者」のまねごとぐらいはできそうです。やってみませんか……。>

 「制服は人間を管理する道具」「目的意識を持つな!」など言われると、世間の常識論者からは、何たることをと非難囂々かも知れないが、

 <要するに、……現代の日本の社会は狂っています。こんな狂った社会で、社会が考えるまともな生活をしてはいけません。こんな社会でまともな人間になれば、われわれは奴隷になってしまいます。
 だから、狂いましょうよ。狂うことによって、わたしたちは本当の人間らしい生き方ができるのです。わたしはそう思っています。>

 
サマセット・モームの『人間の絆』の主人公フィリップが「人生は無意味だ」と悟ってその束縛から解放されたように、筆者も、「人生は無意味だ」といった大きな真理を教わったという。<「生き甲斐」は不要>と説き、人生は無意味なのだから、<人間に生れてきて、生れてきたついでに生きるだけだ。別段、それ以上の意味なんてない。>と説く。

 「希望を持つな!」「病気と仲良くする」と説かれれば、気分は楽になる。
 <わたしたちは、まず自分自身と仲良くしましょう。すなわち、老いと病気の自分をしっかり肯定するのです。それが仏教的生き方だと思います。>
 
「そのまんま・そのまんま」という、いまあるがままの自分を肯定する生き方。
 <世間の重圧に負けてはいけません。そのためには、魔法の言葉である、
 ――そのまんま・そのまんま――
 をそっと呟いてみるのです。そして、心の中で世間を馬鹿にしてやります。
<俺は世間のために生きてるんじゃないぞ。俺は俺である。俺が俺であって、どこが悪い!?>
 と思うこと。わたしはそのような哲学説を発明しました。どうかみなさんも、「そのまんま・そのまんま」の哲学を活用してください。>

 
「孤独を癒してくれるもの」
 <人間というのは孤独な存在です。
 孤独というのは、身寄りのない独居老人や孤児をいうのではありません。そうではなくて根源的な孤独です。
 浄土経典である『大無量寿経』においては、
 《人、世間の愛欲の中にありて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》
 と言われています。この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。>

 
ドイツの哲学者、ショーペンハウアーが、語っていた話として、
 ――ヤマアラシのジレンマ――という面白い話が書いてあった。
 <二匹のヤマアラシが、あまりにも寒いもので互いに抱き合って体を温めようとしました。でも、ヤマアラシにはトゲがあります。そのトゲが痛くて抱き合うことができません。かといって離れると寒い。そこで二匹は、近付くだけでうらめしそうにじっと相手を見つめるよりほかない。そういう話です。
 これが人間関係を象徴しています。
 わたしたちも自我というトゲを持っています。だから、相手とべったりくっつくわけにはいきません。親子であろうと、夫婦であろうと、くっつけばトゲが痛いのです。かといって離れると淋しい。まさしくジレンマになるのです。
 したがって、孤独の癒しを求めてはいけません。癒されるわけがないのです。>
 
と述べ、
 <すでに、指摘したように、孤独は人間の根源的なあり方ですから、癒されるわけがないのです。そのことをしっかりと認識しておいてください。
 だからわれわれは、
 ――孤独を生きねばならない――
 のです。いいですか、孤独生きるのではなしに、孤独生きるのです。>
 
と、語られる。

 「ゴム紐の物差し」
 <わたしたちが人間の機能価値を測ろうとすれば、そのときの物差しは、
 ――ゴム紐の物差し――
 になっています。ゴム紐だから伸縮自在で、正確に測ることができません。
 たとえば、わたしたちは、他人の欠点は大きく見え、自分の欠点は小さく見えます。逆に自分の美点はゴム紐を伸ばして大きく測り、他人の美点は縮めて測ります。ゴム紐の物差しは非常にあやふやな物差しであって、正確ではありません。…………
 したがって、人間の価値は、
 ――存在価値――
 で論じられるべきであって、そしてその存在価値を測る物差しは、
 ――仏の物差し――
 でなければなりません。キリスト教徒であれば、ここは「神の物差し」としてください。人間の物差しはゴム紐の物差しだから、そんなものでは存在価値は測れません。仏の物差しであってこそ、存在価値が測れるのです。
 では、仏の物差し(神の物差し)とは、どういうものでしょうか?
 じつは、それは、目盛りのない物差しです。
 目盛りがないから、測ることはできません。つまり、それは「測らない物差し」です。>
 つまり、すべては平等であって、存在価値に違いはない、ということであろう。

 
もう一度、ひろ さちやの『「狂い」のすすめ』に目を通し、栞を挟んだ箇所の意味を確認し、再び共感の喜びを味わいながら、メモを取った。ずいぶん省略したにも拘らず、引用文が長くなってしまった。
 私のための、このメモ書きが、幾人かの人の目に留まり、なるほどと思われる人もあるだろう。そして、『「狂い」のすすめ』を読んでみようと思われる人があるかもしれない。この本は、今年1月に発行され、6月には9刷を重ねている。ということは、かなりの人に読まれている本に違いない。
 引用文でも分かるように、講話風な文体で書かれ、平易で読みやすい。
 人生を生真面目に、しかつめらしく、世の常識を無批判に受け入れ、四角四面に生きることに、至上の価値を見出す人には、ひろ さちやの考えは、無用の長物に等しい論と、感じられるかもしれない。
 私は、型にはまった生き方ができないし、それを厭う方なので、実に風通しのよい、心地よい本だった。ずいぶん生き方が楽になった気もした。
 生きることに息苦しさを感じた日には、またページを繰るだろう。


 添付の写真は、K駅のホームのわきに咲いていた梔子である。
 その日、予定のバスに乗り遅れ、一旦家に引き返そうかとも思ったが、次の列車を待つことにして駅に行った。50分は待たねばならないと分かりながら……。(田舎は、バスも列車も不便である。)
 家で読み始めた『「狂い」のすすめ』をバッグに入れて出た。続きを早く読みたい気もあって、ベンチで本を読むことにしたのだ。

 梅雨の生暖かい風だが、窓から吹き込むと、心地よかった。
 風に乗って花の香も届いた。外に出てみると、梔子の大木があった。花の半分は枯れ色をしていたが、残りの見事な花たちが、芳香を放っているのであった。
 

コメント (2)
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